送信
午後、会社のカフェスペース。
この時間は、だいたい誰もいない。
昼のざわめきが嘘みたいに引いて、コーヒーマシンの低い唸りだけが、空間に残っている。
持参したマグカップにコーヒーを注ぐ。立ちのぼる湯気をひとつ吸い込み、そのまま窓際の席へ向かう。
この一連の動作が、いつの間にか私のルーティーンになっていた。
席に座ると、仕事の緊張が少しだけほどける。
静けさの中で、私はスマートフォンを取り出す。
――ピコン。
画面にnoRhythmの文字が表示される。
キャンプ以降も、noRhythmから連絡はなかった。
既読をつけて終わった会話。それきり。
それなのに。まるで、何事もなかったかのようなテンションで唐突にLINEが届いた。
——「個展をやることになりました!詳細決まったら送りますので絶対きてね!!」
画面に表示されたその文字列を、しばらく眺める。
相変わらず自分の話だ。けれど。「今日は集中できそうです」とか、「これ買いました」と靴や洋服の写真が送られてくるような、どう返していいのかわからない断片的な報告ではない。
いわゆる“連絡”だ。普通の、社会的な、意味のある報告。
それが、拍子抜けだった。
そして同時に、少しだけ、苛立った。
「もし noRhythmさんから連絡が来たとき相談したいので、三神さんの連絡先を教えてもらってもいいですか?」そう言って、三神さんに連絡先を聞いた。
相談のため——半分は本当。でも、もう半分は.....。
そういう聞き方をしたところで、普通に連絡すればいいだけのこと。
特に不自然ではなく、おかしくもないと思う。
だけど、私たちは”泥棒猫”と”前科者”だ。「ご飯だべにいきましょう」なと無邪気に送るべきではないし、送っていい立場でもない。
連絡するためには理由が必要で、その理由は唯一”noRhythmさんから連絡が来たとき”、そう決めていた。
だから私は、noRhythmからの連絡を待っていた。
来たら三神さんに連絡できる。その口実を待っていた。
そんなふうに待っていたはずのLINEなのに、届いた瞬間、苛立っている自分がいる。
可笑しい。
これはもう、noRhythmの才能なんじゃないかと、半分本気で思ってしまうくらい。
私は、三神さんのトーク画面を開いた。
胸が少しだけ高鳴っている。もちろん個展のせいじゃない。
入力欄に指を置く。
「LINEが届きました」それだけでいい。
それが、この連絡先を聞いた理由なのだから。
打つ。
——ノリズムさんからLINEが届きました。
指が止まる。
それだけ送ったら、そこで終わってしまわないか。
既読がついて、「そうなんですね」と返ってきて、それで会話が閉じてしまう。
もしかすると、三神さんならもう少し何かがあるかもしれない、でもきっと二、三往復して、会話が閉じてしまう。
それは、なんか嫌だ。
文字を消す。また打つ。
——個展をやるらしいです。
違う。しかも三神さんはnoRhythmのマネージャーだ、知らないはずはない。
——noRhythmさんから連絡が来ました、どうしたら良いですか?
どうしたらって何。これじゃ、ただの依存だ。
消す。
打っては消し、打っては消す。
画面の中で、私の迷いだけが増えていく。
単に「届きました」と送ればいい。そうすれば、約束通りだ。
でも、約束を守ることが目的なのか?
私は、何を求めている?
考えた瞬間、答えはすぐに浮かんだ。
会う口実。
私は三神さんに会いたい。
無自覚のふりをしていただけで、気づかないようにしていただけで、本当はずっとわかっていた。
私は三神さんが好きなんだ。
入力欄は、また空白に戻る。
時間だけが、少しずつ進む。
私は、一度深呼吸をして、画面を見つめたまま、指を止める。
そのとき、ふと思う。
——noRhythmも、こんな感じだったのかな。
会いたくて、でも会う理由がなくて、だから断片的な近況報告を送る。
「これ買いました」と靴や洋服の写真。今の私には、その気持ちがわかる。
noRhythmは悪い人じゃない。ただ、不器用なだけ。
それなのに私は、うまく返せなかった。
どう返せばよかったのか、今でもわからないけれど。
私は、もっと器用だと思っていた。
でも、好きになると、うまくできなくなる。
ああ。これが、恋愛なんだな。
改めてトーク画面を開く。
指先が、ほんの少し震えている。
送る。
既読がついたら、きっともう戻れない。
それでもいい。そう思ったから、送った。
私たちは“泥棒猫”と“前科者”だ。
お互い境界線の外に立っていることくらい、わかっている。
それでも。
私は、踏み出した。
ああ、私は本当に厄介者だ。




