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掌の上の劇場  作者: マイク密


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静止した部屋

紀彦はこのところ、ちゃんと眠れていない。

医者から処方された眠剤で、かろうじて意識を落とすことはできる。

だが眠りは浅く、二時間ほどでふっと目が覚める夜もあれば、逆に身体が鉛のように重くなり、しばらく起き上がれない日もある。

今夜は、二時間で目が覚めた。


午前二時。

天井を見つめることをやめ、ゆっくりと身を起こす。

天井のシーリングライトはつけず、デスク脇の小さなスタンドだけが白い光を落としている。

その光の円の外側では、物という物が曖昧な輪郭を保ったまま沈んでいる。

床には脱ぎ捨てたTシャツ、丸めたコンビニの袋、読みかけの本。ペットボトルは半分ほど残ったまま、何本も転がっている。燃えるゴミと燃えないゴミの境界は、とうに曖昧だ。

キッチンの流しには、いつ洗ったのか思い出せないマグカップが置かれ、コーヒーの輪染みが内側にこびりついている。冷蔵庫の上には、開封済みのサプリメントと、いつ買ったかわからないレトルト食品が無造作に重なっている。


デスクに向かい、電源を入れたままの PCの前に座る。

画面には、Twitterのビューワー。

条件抽出された複数のタイムラインが縦に整列し、絶え間なく更新されている。

紀之は、その一つひとつを目で追う。


仕事が滞っているという意識が、ないわけではない。

締切を過ぎた案件の存在。返信していないメールの存在。どこかで問題になっている案件があるかもしれないことも、薄々はわかっている。

ただ、その意識は、心の表面には浮かび上がってこない。

それを正確に把握してしまえば、痛みが具体的になる。

具体的な痛みは、耐えがたい。だから紀彦は、曖昧なままにしておく。


上京してきた当初、比較的きちんと期日を守っていた。

仕事は怖かったし、失うことが何より怖かった。

だからこそ、守れた。だが、少しずつ、守れなくなった。


「今回は仕方ない」

「体調が悪かった」

「相手も忙しいだろう」


理由はいくらでも用意できた。

そして一度使用してしまえば、それは次の言い訳の土台になる。


銀行口座の残高は確認しない。入金履歴も見ない。

数字は、現実を連れてくる。

現実は、判断を迫る。

判断は、行動を伴う。

行動は、失敗の可能性を孕む。

だから見ない。見なければ、まだ大丈夫という状態を保てる。


紀彦は今年で四十歳になる。

同年代の多くは、家庭を持ち、子どもが小学校に上がる頃だ。

SNSのタイムラインには、家族写真や昇進報告が並ぶ。

「七五三でした」という投稿。「部長に昇進しました」という報告。何気ない笑顔の集合写真。新築のリビング。子どもの運動会。

それらは、特別に誇示しているわけでもないのに、画面越しに静かに彼を刺す。

だから紀彦は、見ない。


彼のPC画面に表示されているのは、通常のタイムラインではない。

キーワードで抽出された投稿だけが流れる、いくつもの細い列。特定のジャンル、特定の作家名、特定のワード。自分が関与、自分の話題が出る可能性のある領域だけ。そこには家族写真も昇進報告も流れてこない。

代わりに並ぶのは、作品の感想、誰かの制作過程、匿名の評価。


紀彦の部屋には、家族の気配も、成長の痕跡もない。

ただ、年月とともに増えていくゴミだけがある。

上京してから住み続けているこの部屋は、彼の時間をそのまま保存している。

変わらない壁紙。擦り切れたカーテン。更新されない家具。

そして、更新されない自分。


紀彦には、自分の現状がどうなっているのか、認識がないわけではない。

だが、その認識をはっきりさせた瞬間、胸の奥に痛みが走ることを、彼は知っている。

だからその手前で止める。

ぼんやりとした状態のまま、輪郭を与えない。


紀彦はそれを“知っていた”。

ただ、それを“知らない”ことにしていた。


幼いころから培ってきた唯一の対処法。

嫌な現実を、見ないことにする。都合の悪い情報を、遮断する。

それは年月を経て習慣になり、習慣は技術になり、技術は反射になった。

今では、ほとんど無意識で行っている。


午前二時四十七分。

部屋は静まり返り、冷蔵庫の低い唸りだけが続いている。

だが彼の視界には、いま流れている数行のテキストしかない。


提出物が上げられない理由は、特別な事件や大きなトラブルではない。

事故も、病気も、明確な破綻もない。

ただ、この静止した部屋の中で、彼自身も止まり続けている。

カーテンは昼夜を問わず閉じられ、床に散らばった紙片は昨日とほとんど位置を変えない。

時間だけが進み、紀彦だけが進まない。


「このままではいけない」という思考は、確かに存在する。

だが、その思考の輪郭を濃くしないように、細心の注意を払う。


彼の視線は、画面の中の他人の言葉を追い続ける。

スクロール。

スクロール。

一定の速度で流れるテキスト。

そして、ときどき――

「やっぱりnoRhythmノリズムは特別」

「HeartBeater最高!あの頃の熱量、忘れられない」

noRhythmノリズムのイラストは今見てもすごい」

そんな投稿が列に混じる。

それを見つけた瞬間、紀彦の指の動きが止まる。

視線が画面に吸い寄せられる。


いくら対処法を施しても消え切らない痛みが、じわりと薄れる感覚がある。

提出していないデータのことも、連絡を返していない相手の顔も、止まったままの生活も、その瞬間だけは、さらに遠景に退く。輪郭がさらにぼやける。


効果は長くは続かない。

数分もすれば、また部屋の空気は重くなり、画面の光はただの光に戻る。

それは、現実を動かす力にはならない。

だが、完全に崩れ落ちないための、最低限の養分にはなる。

痛みを感じないための麻酔。

紀彦にとって、生きるための補給。


時に、効き目が長く持続する場合がある。

大きな自己肯定感を獲得できたとき――胸の奥に広がる感覚は、単なる麻酔ではなくなる。

それは痛みの緩和ではない。

自分には価値がある。必要とされている。そんな感覚が、じわりと体内に広がる。


だが――それは痛みに向き合うことには、つながらない。

未提出のデータを開くことにも、返信していないメールに手を伸ばすことにも、生活を立て直す決意にも。


むしろ逆だった。

「このままではいけない」と思う自分の声が、その肯定感によって静められていく。

焦りは弱まり、危機感は薄まり、胸の奥で小さく鳴っていた警鐘すら、聞こえなくなる。

代わりに生まれるのは「このままで大丈夫」、むしろ「このままで正しい」という感覚。

その思考は、やさしく、温かく、そして都合がいい。


紀彦は、その思考の都合の良さを否定することはしない。

なぜならそれは、その方法しか対処する術を知らないからだ。


嫌な現実を、視界の外に追いやる。

都合のいい情報だけを拾い上げる。

痛みを麻酔で薄める。

大きな肯定感で思考の向きを変える。

それ以外のやり方を、身につけたことがない。


そして――知ろうともしない。

知ってしまうことは、痛みへの直視につながることであると、心のどこかでわかっているからだ。



午前五時を回る。

閉じきっていないカーテンの隙間から、薄い橙色の光が漏れ始める。

新しい一日が、紀彦の意思とは無関係に始まろうとしている。


社会は動き出している。

この部屋は、相変わらず静止している。

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