現実を飛ばして、先の景色を見る
今日は、ノリ君の仕事のラフ提出日だ。
——とはいえ、時間通りに上がってくることは全く期待していない。
案の定、定時を過ぎてもデータは来ない。
LINEも、メールも、何の気配もない。
ノリ君が、期限当日にきちんと提出物を送ってくる。
そんなことは、ここしばらく起きていない。
いや、今まで一度もなかったのかもしれない。
本来なら、「少し遅れそうなら先方に連絡を入れる」だとか、「状況を確認して調整する」だとか、やるべきことはいくらでもある。
でも、ここ最近はそうしていない。
向こうから連絡が来ない限り、こちらからも動かない。
連絡して、次の約束を取り付けたところで、それが守られる保証はまったくない。
つまり、やりようがない——という現実もある。
それ以上に、正直なところ、彼にあまり深く関わりたくないという気持ちのほうが大きかった。
担当マネージャーという立場上、決して正しい対応ではない。
そのことは、自分でも重々承知している。
それでもなお、踏み込む気になれなかった。
一応、形式だけ整えるように、ノリ君にお伺いのLINEを一本入れておく。
──進捗どう?
返信はもちろん、しばらく既読がつくこともないだろう。
案の定、画面は沈黙したままだ。
(まあ、そうだよな)
そう思って、別の作業に戻ろうとした、そのときだった。
メールソフトが、短い通知音を鳴らした。
差出人を見て、一瞬だけ、手が止まる。
ノリ君だ。
一瞬、提出物が送られてきたのかと期待をしたが、その隣のタイトルと見て、そうではないとすぐにわかる。
「Fwd: 個展企画のご相談」
転送メールだ。
そう思いながら、マウスをクリックして、本文を開いた。
ノリ君からのメッセージは一切なく、そのまま転送されてきている。
届いたものを、そのまま転送してきただけ。
「……まずは、今日提出のラフの話だろ」
転送されてきたメールを読み返す。
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はじめまして。
NOISE / RATIO の もぎ と申します。
突然のご連絡、失礼いたします。
私は個人的にnoRhythm様の作品のファンで、
特に「HeartBeater」を拝見したときに強く惹かれました。
noRhythm様の作品群が持っている空気感や温度がとても印象的で、
いつか直接関われる機会があればと思っておりました。
現在、都内を中心に展示やイベントの企画・運営を行っており、
もしご興味があれば、個展という形でご一緒できないかと考えております。
企画から運営まで、一式お任せいただくことも可能です。
具体的な条件やスケジュールについては、
一度お話しさせていただければと思っております。
ご検討いただけましたら幸いです。
何卒よろしくお願いいたします。
NOISE / RATIO
もぎ
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NOISE / RATIO。聞いたことはない。
法人格の記載はなく、ユニット名か、プロジェクト名か、あるいは単なる肩書きなのか。
署名に所在地も電話番号も書かれていない。
「もぎ」。ひらがな表記。
十中八九、ハンドルネームだろう。
本名は茂木あたりか、そのへんだ。
最近は、こういうのがやたら多い。
芸能人でも作家でもないのに、芸名みたいな名前で仕事をしている連中。
内容は——要するに個展をやらせてくれということだろう。
この手の連絡は珍しくもなく、こういうメールは自分の立ち位置にいればいくらでも届く。
ただ、悪いかというとそうとも言い切れず、結局のところ相手と中身次第だ。
——ふと、ひとつの考えが浮かぶ。
もし、「全部やってくれる」という話なら、しばらくの間、自分はノリ君から解放される。
窓口も、進行も、調整も、全部向こう持ち。
それに——実情を何も知らずに声をかけてきたこの人たちに、noRhythmの現実、それに関わる地獄を味わってもらうのも悪くない。
このメールが自分に転送されてきたということは、ノリ君自身はそれなりに乗り気なのだろう。
……まあ、そうだろうな、こういう類はノリ君の大好物だ。
「ファンです」と言われ、作品名を挙げられ、「一緒にやりたい」と持ち上げられる。
判断するよりも先に、個展でスポットライトを浴びている自分の姿を、頭の中で思い描いているに違いない。
その気持ちに応えるつもりは、正直まったくない。
ただ——ひとまず、社長に相談してみることにしよう。
とりあえず、一言だけコメントを添えて、ノリ君に返信する。
──今日提出のラフは、どんな感じですか?




