インターネットという名の窓
紀彦は会社から徒歩十五分ほどの場所にあるアパートで暮らしていた。
靴が三足も並べばいっぱいになる玄関をくぐると、すぐに畳敷きのワンルームが広がる。
年中出しっぱなしのこたつ。
大きめの本棚。
高校時代に少し齧ったエレキギター。
テレビと一体型になったビデオデッキが床に直置きされている。
質素ではあるが、居心地は悪くない。
平日は、たまに同僚と飲みに行くこともあった。
ただ、休日まで連れ立って過ごすような雰囲気ではない。
“寂しい”と感じることはなかったが、時間を持て余すことは多かった。
その結果、紀彦は自宅用にパソコンを購入することになる。
当時はインターネット黎明期。
このあたりでは珍しく、紀彦のアパートはADSL回線を引くことができた。
プロバイダと契約を結び、個人的な用途では初めて“インターネットの世界”に接続した。
目的もなく、ただネットサーフィンをするだけの日々。
それだけでも、これまでとはまるで違う世界が広がっていくような感覚があった。
図書館や本屋に行かなければ手に入らなかった情報が、いまや自宅のパソコンから得られる。
その変化の中で、紀彦が最も心を奪われたのが、匿名で言葉や画像を投稿できる「掲示板」の存在だった。
とりわけ、絵を描く機能付きの掲示板には強く惹かれた。
投稿されたイラストには、感想や賞賛、質問など多くのコメントが寄せられている。
なかには投稿者同士が交流を深める様子もあり、そのコミュニティは紀彦の目に、とても生き生きと映った。
「なんか、いいな……」
紀彦はそこに二種類の人間がいることに気づく。
絵を“描く側”と“描かない側”。
求められる者と、求める者。
紀彦はコメントが集まる“描く側”の投稿者に、どこか身近な憧れのような感情を抱いた。
そして思った。
「自分も、あの場所に立ってみたい」と。
掲示板に投稿されるイラストの多くは、当時流行していたアニメの二次創作だった。
紀彦も休日になると、同じジャンルのイラスト制作に没頭するようになっていく。
彼は幼い頃から絵を描くのが得意で、周囲からそれなりに評価を受けていたこともあり、密かな自信を持っていた。
しばらく描くことから離れていたが、筆を取ることに抵抗はなく、何点か描き上げたうちのいくつかには、自分でも手応えを感じる出来だった。
いざ投稿しようとする瞬間には、さすがに少しためらいがあった。
だが「投稿すれば、きっとコメントが付く」という根拠のない自信と、あの“賞賛される場所”への渇望が、その迷いを押し流した。
そして実際、紀彦の作品には多くのコメントが付いた。
それは紀彦にとって、これまでにない種類の満たされた感覚だった。
その瞬間を境に、ますますイラスト制作にのめり込んでいくことになる。
なお、紀彦がその掲示板で使用していたハンドルネームが、のちに定着することになる名義──“noRhythm”である。




