承認の肥料
午後五時の五分ほど前。
Zoomのアプリケーションを立ち上げ、ミーティングルームに接続する。
昨今はオンライン上でのミーティングが主流になっており、本日もその形式で行われる。
午前中にノリ君に送ったリマインドは既読がつかないまま。
彼の出席は内容と相手次第だ。
前向きなら、五分以上前に現れることもある。
参加不要のものでも、共有している自分のカレンダーを見て勝手に入ってきたこともある。逆に、後ろ向きなら「気づきませんでした」で済ませる。
今回の場合――七割程度来ると踏んでいる。
もし来なければ……まあ、そのときは謝ってリスケジュールしてもらうしかない。
◇
「お世話になっております。〇〇社の△△です」
クライアントが入室した。
落ち着いた声。マイクの音もクリアだ。
挨拶と軽い会話を交わしながら、画面共有の準備を進める。
定刻通り、あとはノリ君が来るだけ。
時計が予定の開始時間を五分ほど過ぎた頃、通知音が鳴った。
「すみません。遅れました」
ノリ君は、通過儀礼のように遅れを詫び、無言で待機する。
「お世話になっております。〇〇社の△△です。この度は案件をお引き受けいただき大変光栄です。実は私、noRhythmさんの大ファンでして、いまものすごくテンション上がってます」
モニター越しに、クライアントの声がわずかに上ずった。
反射的に笑顔を作りながら、横目でノリ君の様子をうかがう。
明らかに、入室したときとは表情が違っていた。
オンラインは、対面よりもその変化がはっきり見える。
クライアントは開口一番から“ファンですアピール”を繰り返す。
過去の作品の話、展示会の感想、そしてSNSの投稿内容まで細かく覚えていた。
「この間のあのシリーズ、最高でした。光の絵描き方がもう神がかってて。あと、あの白の扱い――あれ、どうやってるんですか?」
画面の中で、ノリ君の口角がゆっくりと上がっていくのがわかった。
最初は軽く相槌を打つだけだったが、次第に言葉が増え、語尾が熱を帯びていく。
「まあ、白っていうのは“抜く”というより“残す”感覚で……」
「へぇー! それ、すごく興味あります!」
「いや、すごいってほどでもないですよ。ただ――」
そこから先はもう止まらない。
制作環境、筆圧、ディスプレイのキャリブレーション。
相手が聞いていないことまで語り始め、画面の中で彼だけがゆっくりと膨張していく。
クライアントはひたすら頷き、笑顔で相槌を打ち続ける。
タイムラインのように流れるその光景を黙って見つめる。
――不毛の序曲だ。
ノリ君が打ち合わせに来るかどうかは、結局これがあるかないかだ。
要するに彼は、承認という快楽を得るために打ち合わせに参加してくる。
◇
しばらくそんな話が続いたのち、タイミングを見計らって、本日の本題――案件の詳細説明へと話を戻した。
早速、クライアントが画面に映し出した資料をもとに説明を始める。
だが、話し始めて間もなく、ノリ君がやや怪訝な声で言った。
「今映している資料、後でもらっていいですか?」
資料はすでに持っているはずだ。
そもそもこの案件の依頼があった際、彼のPC画面でその資料を開き、二人で対応可否の検討を行っている。
「いやいやノリ君、一緒に確認したでしょ……」
思わず口を挟んだ。
「あっ、すみません。あの資料ですね。失礼いたしました」
悪びれる様子もなく、淡々とそう言った。
――忙しさのアピールでもしたかったのだろうか。
資料の存在を忘れていたわけでもなく、そもそも資料があったかどうかなど、彼にとってはどうでもいいことなのだ。
これは、相手の反応を“計算して”行う、即興劇のようなものだ。
こう言えば、相手はこう思う。こう思わせれば、自分の印象はこうなる。
自分が望む筋書きがあり、現実の方を、都合よくそこに当てはめていく。
そんな“都合のいい物語”の中で、彼は常に自分を演出している。
特に、今回のように――事前に相手から持ち上げられ、“調子に乗った”状態にあるときは、その傾向が顕著だ。
まるで、自分に“予知能力”でもあると信じているかのように、現実が自分の筋書きに従って動いているかのように振る舞う。
厄介なのは、そこに「想定外」という概念が存在しないことだ。
どんな反応が返ってきても、すべてが“自分の思いどおり”として処理される。
ノリ君の中で、その筋書きはいつだって完璧で、揺らぎがない。
改めて説明を始めるクライアント。
だが、ノリ君は毎度のごとく、聞いているようで聞いていない。
相づちを打ちながら、心ここにあらず――まるで、ただ“自分の出番”を待っているだけのようだ。
一見、会話は成り立っているように見える。
だが彼の目的は、相手と理解を交わすことではなく、“自分の言いたいこと”を放つことにある。
そのため、相手の意図とのあいだに、いつも微妙な“ずれ”が生じる。
相手も、その“ずれ”には当然気づいている。
だが、気を使ってノリ君に合わせてくれるので、余計におかしくなる。
会話の歯車が噛み合わないまま、笑顔だけが増えていく。
それが、彼の肯定感をさらに高めてしまう。
そして、その肯定感は、さらなるへ大きな“ずれ”へと繋がる。
「ちょっと今の話に関係あるんですけど」
ノリ君は突然、そう言って画面共有を始めた。
彼が開いたのは、数年前に発表した自作のアートブックのデータだった。
「この作品なんですけど、実は当時も似たテーマを描いてて――」
クライアントが軽く相槌を打つのを合図に、再度noRhythmの独演が始まった。
まるで授業のように、過去の作品を一枚ずつめくりながら、筆の運びや構図の意図を得意げに語っていく。
「ここであえて白を残してるのは、空気の“余白”を見せたくてですね……」
こうなると、打ち合わせを終わらせるのも自分の役目だ。
再びタイミングを見計らい、話をスケジュールの確認へと誘導した。
「では、一度スケジュールの方について改めてお話しさせてください」
共有画面に資料を戻すと、ノリ君がすぐに口を開いた。
「ここのフェーズ、こんなにかからないですね。もう少し短くしていただいても大丈夫です」
……何を言っているのか。
度々、いや、ほぼすべての案件で期日を守らない事実はどこに行ったのか。
とにかく、彼はいつだって自分をよく見せることに終始する。
そのためなら、過去などいくらでも捻じ曲げる。
今回のように、打ち合わせで盛り上がったかどうか――そんなことと期日を守れるかどうかは、まったく関係がない。
それはこれまでの経緯で、いやというほど証明されている。
本来なら、ここは自分が口を挟むべきところだ。
だが、以前そうしたとき、ノリ君は強い口調で「できます」と言い放った。
クライアントにとっては、それが前向きな返答に聞こえる。
だから、それを否定する自分の方が、まるで悪者のようになる。
画面に映るスケジュールは、自分が事前に交渉し、何度も調整を重ねたものだ。
もちろん、ノリ君にも事前に確認を取っている。
しかも、やや先方に無理を言って、少し長めに設定している経緯もある。
それを軽く否定されることは、クライアントに対して、身に覚えのない無能さを突き出されるようなものだった。
こうしたことは毎度のことで、過去に何度か注意したこともある。
だが、返ってくるのは決まって無言だ。
それ以来、自分は可能な限り進行役に徹している。
口を出すのは、ノリ君の罠にかかりにいくようなものだ。
彼の承認の肥料になるのは、まっぴら御免だ。
――期日が守れなければ、そのときはまた、いつものように交渉と調整をするだけだ。
◇
「……では、引き続きよろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いします」
形式的な挨拶を交わし、通話が切れる。
ミーティングは、予定の時間を三十分ほど過ぎてようやく終わった。
他の参加者が退出し、Zoomのウインドウには自分の顔だけが映し出される。
無表情で、どこか色の抜けた顔だった。




