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掌の上の劇場  作者: マイク密


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カーテンは今日も開けていない

紀彦は先月で四十二歳になっていた。

「まだやれる」と思うには少し重く、「もう無理だ」と見切るにはどこか未練が残る──そんな年齢に差しかかっている。


アルバイト内定。

これが、四十二歳の彼に届いた、久しぶりかつ最新の“肩書き”だった。


都心から電車を乗り継いで小一時間。

駅前にはコンビニとパチンコ店、そして、名前を変えながら経営者が変わっていく喫茶店が一軒。

繁華街でもなければ、“歴史ある町並み”とも無縁な、どこか所在のない一帯である。


治安が悪いわけではない。

夜道を歩いていても、誰かに絡まれるようなことはまずない。

ただ、周囲と比べて家賃が少し安い理由が、暮らしてみるとなんとなくわかる。


空き地の雑草はいつも腰丈まで伸びていて、掲示板の「地域清掃のお知らせ」は去年の日付のまま誰にも剥がされずに貼られている。

夕方でも、人の気配がやけに少ない。

隣人の顔も声も知らないけれど、特に困ったことも起きない。


何も問題がないことが、逆にじわじわと不安を呼ぶような、そんな空気。

そんな街の、駅から徒歩二十分のアパートで、紀彦は一人暮らしをしている。


北陸の田舎町で育ち、社会人として一度は地元に根を下ろしかけた人生を、あっさりと、自分の手で捨てた人間だ。


思い返せば、子どもの頃から目立つタイプではなかった。

イラストを描くのが好きで、いわゆる“オタク”に分類される存在。

とはいえ、運動は嫌いじゃなかったし、走るのもそこそこ速かった。

球技大会では「紀彦、バレー入れ」と言われるくらいには、動ける方だった。


それでも、紀彦は自分を“オタク”枠のなかに置いた。

わざわざその枠を抜け出そうとはしなかった。

それはたぶん、居場所が欲しかったからだ。


“オタクだけど、運動もできる”──そんな風に思われているかもしれないという曖昧な幻想に守られながら、自分のポジションに満足していた。



中学を卒業した紀彦は、高専へと進んだ。

高校と専門学校を合わせたような、五年制の学校である。

地元では、成績上位の生徒が高専に進むのは珍しくなく、むしろ“主流”といえる進路だった。


実家は決して裕福ではなく、大学進学の費用を考えると現実的ではなかった。

だからこそ、“寮のある高専で手に職をつける”という選択は、もっとも現実的な選択肢だった。


男ばかりの教室。

でも、その空間は不思議と居心地がよかった。

似たような連中ばかりで、紀彦も気楽にいられた。


たまに地元へ帰ると、親戚や近所の大人たちが

「紀彦くん、高専なんだって? すごいね」と声をかけてくれる。

それがちょっと誇らしかった。


もちろん、恋愛なんてなかった。

女子は数えるほどしかいなかったし、存在そのものが遠かった。

興味はあったが、話しかける理由もきっかけも見つからないまま、五年間が過ぎていった。


結局、仲の良い異性ひとり作れないまま卒業し、そのまま学校の紹介で地元の中小企業に就職した。

卒業式の日、彼の学生服の第二ボタンは、誰の手にも渡らず、静かに胸元に残っていた。



紀彦が就職したのは、県内でも比較的大きな都市に拠点を構える、工作機械の設計・製造を手がける企業である。

顧客の要望に応じて一品物の装置をつくる技術屋の世界で、社交性よりも探究心が重んじられる社風が根づいていた。


会社全体の雰囲気はにぎやかさとは無縁で、「わいわい」ではなく「黙々」とした空気に満ちている。

なかでも紀彦が配属された設計部はその傾向が顕著で、私語はほとんどなく、誰もがモニターに向かって図面と格闘していた。


そんな環境に、紀彦は不思議なほどすぐ馴染むことができた。


新入社員研修を終えたのち、彼が任されたのはCAD(コンピュータ支援設計)の業務だった。

高専時代にも軽く触れた経験はあったが、本格的に取り組んでみると、自分でも驚くほどしっくりと手に馴染んだ。

多くの人と関わらずとも成立し、与えられた条件を論理的に組み立てて形にしていく仕事。

それは紀彦にとって、理想的な作業そのものだった。


黙々と手を動かすうちに、技術は確実に身につき、やがて部署内でも一目置かれる存在となる。

数年が経つころには「設計部のエース」と呼ばれるようになり、決して高給ではなかったが、仕事への充実感と“評価される自分”という実感が、彼の心を大きく満たしていった。

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