Vol.1 第一章 8話 母の手料理
午後19:30
エルフの国に夜が訪れる。
樹洞下町は光蟲の提灯による幻想的な光で溢れている。
エルフの国には、”大地に落ちた夜空”があるという逸話もあるがこの光景が由来となっている。
トレスは灯りを近くに置き、お下がりの小説のページをペラペラとめくる。
文字は読めないが、絵は当然理解できる。
夥しい数のページの中にある数少ない挿絵を見て楽しむ。
数冊ある小説を何度も捲り、見終わったら別の小説を。
大抵これを続けている間に睡魔に襲われ、気づいたら明日になっている。
そして、終わりのない治療が始まる。
これが、トレスの日常だった。
だが、そんな生活にも色を与えてくれる存在がいる。
「きた!」
温かい料理の匂いがトレスの鼻を刺激した。
少々ツンとする酸っぱさと、そこに混ざるスパイシーな香り。
ペタペタという足の音が、外からゆっくり近づいてくる。
コンコンという音と同時に声が外から流れ込む。
「トレスちゃん、入っていい?」
どこか大人ぶった、透き通るような美しい声。この世で最も大切な存在。
「うん、大丈夫だよ!入って!」
彼の母親
フローラ・ミリスレギナが帰ってきたのだ。
◇
「お母さん、これはなんて料理なの?」
トレスは既に熱が抜けた生温かい料理をスプーンで突きながら質問する。
「これはシチーっていってね、お母さんが育った国の料理なの。本当はサワークリームっていうのを入れればもっと美味しいんだけど、ここじゃコレが精一杯ね」
母が懐かしそうに料理が入った小さい器を突く。
フローラが作る料理はこの国で出される食べ物とは全く違う。
エルフの料理は素朴の一言に尽きる。
豆の煮物や蒸したじゃがいも。
稀に出る牛乳などが高級品にすら思える程だ。
ササギと呼ばれる豆を使った伝統料理もあるが、とてもじゃ無いが美味しいとは思えない。
それに比べて母の作る料理は飾り気こそ無いが、とても濃厚な味の物ばかりで一度食べたら忘れられないものばかり。
誕生日に作ってくれたストロガーノフという肉料理は堪らなく美味しかった。
「ううん、大丈夫!いただきます!」
「おう!たんとお食べ」
母はニカっと笑い、自慢の料理を頬張る我が子を眺める。
トレスはまず最初にじっくり煮込まれた野菜を口に運ぶ。
エルフの作る野菜はバリバリとした完食で、生臭く苦いモノばかり。
しかし、母の料理はまるで違う。口に運ばれたキャベツはほろほろと崩れ落ち、濃厚な酸味と塩気が口内に瞬く間に広がる。
特に今日の料理は塩気が強い。
だが、不快感は全くなくスープがキャベツに染み込み噛めば噛むほど旨味が溢れてくる。
トレスはふと、見慣れない謎の食材をスプーンで掬う。
肉のように見えるが筋が全く無い。
細切れになった肉を薄い膜が覆った奇妙な食材だ。
「お母さん、コレは何?」
「それはソーセージって奴よ。気に入った?」
「うん!なんだか、ちん──」
言葉を紡ごうとした瞬間、母の少し冷たくしっとりとした人差し指がトレスの唇を遮る。
「ダメよ?食べてる時は綺麗な話をしましょうね?」
「えへへ…ごめんなさい」
叱られた。しかし、全く怖く無い。
その表情には、父や女官から当てられる冷え切った感情がない。
だからこそ、母の前では言葉を選ぶ必要も無いし仮に失言をしてもこうして優しく嗜めてくれる。
トレスにとって、心から安心して会話できる存在は母しか居なかった。
うん、気をつけようね?
という言葉の後で、フローラも自身の料理に手を付ける。
「うん!おいしい!我ながら天晴れね」
ご満悦と言った表情で料理を頬張る母。
時々、自分より美味しそうに食べている。
この様な態度だからこそ、トレスは食べる量を気にする事もないし素直に食事に集中できる。母はたまに、うっかり最後の一口を食べてしまう事もある。
口に運んだ後に事の重大さに気づき、慌てて謝ってきた事もある。
豪快なんだか、ガサツなんだか分からない性格だがそんな母がトレスは大好きだった。