第二話
「ああー。ひどい目に遭った」
「おいおい、ひどいじゃないか。父さん傷ついちゃったぞ」
風呂に入って満足したのか父さんの肌は30代後半には見えないほどつやつやしていた。
「いやだって一緒に入るとは言ったけど同時に湯船に浸かるとは言ってないだろ?風呂が広いなら別にいいんだけどさ、ほら、家の風呂は狭いじゃん。筋肉ガチムチ親父に抱きかかえられる俺の気持ちを考えてみろって」
「そんな小さなことを気にするようじゃモテるようにはなれないぞ」
「余計なお世話だよ」
俺は、父さんとこんな軽口をたたきながら先ほどの会話内容を思い浮かべていた。
学園とは、各地で子供たちを集め、旅をしながら教育する巨大機関らしい。何でも世界中のどこの国の所属でもなく独立しており、独自のルールによって縛られているようだ。昔は自国の子供たちを勝手に引き抜いていく学園に対して多くの国々が反発していたようだが、学園の卒業生を自国に引き抜くチャンスがあると知ると手のひらを返したようにその存在を容認し出すようになったようだ。何でも学園で育った子供たちは皆世界中の波にもまれているため、とても優秀らしい。それに学園勢力は世界有数の戦力を持っており、さらにそのバックには世界最強の軍事力を誇る”砂国イソポタミア”がいるためどの国も手出しできないという。
「まあでもあれだね、学園ってのが凄いことはわかったよ。一つの国の中だけじゃなくて広い世界を見せることで子供たちに大きな刺激を与えて成長させることが目的なんだろうね。何の目的があるにせよ、ものすごく大規模な組織なんだね」
「ああ、そうだな……。父さんもいろいろな経験を積んでみたくってさ、昔学園に入学するためにテストを受験したことがあるんだ」
「えっ!?そうなの?」
「ああ、とは言っても8歳の頃、入学試験で落ちてしまったから結局入学できずじまいだったんだよな。当時の倍率は50倍だったかな。さすがに当時の俺には難易度が高すぎたな。その10年後も入りたいとは思っていたんだがな、学園の入学者の年齢制限が7歳から15歳までだったから諦めざるを得なかったんだ」
父さんは昔を懐かしむような遠い目をしていた。ただ、その目にはすでに後悔の色は見られなかった。
「そうなんだ。でも後悔はしてないんだね?」
「そう見えるか?」
「うん、ただ単に昔の記憶に思いをはせているだけのように見えたよ」
「そうかもな。学園に行っていたら母さんとも結婚していなかったと思うし、そしたらお前とも会えてなかっただろうからな。そうだ!そろそろご飯もできただろ。夕飯にしようじゃないか」
父さんは鼻歌を歌いながら風呂場を後にした。
◆ ◆ ◆
教室のドアを開けると、様々な匂いが入り交じった学校特有の匂いがする。今日は比較的早めに来たのでまだ児童の半分ほどしかいないようだ。ただ、狭い教室にこれだけの子供がいるとかなり騒がしくなる。誰も俺が到着してきたことに気づいていないようだ。そのままそっと気づかれないようにぬるりと自分の席へと向かった。俺の席は窓際の後方である。前回の席替えで運良くその席を自分の物にしたのではない。
俺はクラスの委員長であるので席替えをする際、自分で仕切ることができる。故にくじ引きに細工を仕込ませるなどたやすいことだ。また、俺はクラスでは真面目で通っているはずなので、誰もそのくじを疑うことはなかった。皆は委員長と言う仕事の面倒くささのみに注目し、自らやろうと名乗り出る者は誰一人いなかった。
しかし、俺は委員長の面倒くささだけで無く、権利、そして効果に気がついていた。権利というのはまさにみんなを仕切る権利だ。それによって自分の好きなように周囲を動かすことがしやすくなる。また、委員長でいるだけで周りは俺のことを真面目で嘘なんかつかないような誠実な人間だと思い込みやすくなる。そんな俺がクラスでせこい真似をするとは誰も思わないので、席替えのくじ引き以外にも時々利益を得ることに成功したのだ。
皆が立候補しなかったことにとても感謝している。どんなに頑張ったとしてもクラスの中心人物たちが委員長をやりたいと言い出すと俺では勝てないからだ。彼らと俺ではクラスでの人気が違いすぎる。せいぜい1対9程度の比率で負けるだろう。俺は基本的に周囲に迷惑を与えないようにして生活しているが、他人のために行動したことはない。だが、彼らは違う。自分が楽しみたいという気持ちも少しはあるのだろうが、クラスの中心になり、良い雰囲気を保てるようにあらゆるカーストの人物に話しかけることができる。簡単に言えば気が利くのだ。それと比べて俺は……。クッ……。
そんなこんなで友達はそれほどいないものの、学校に行くのは嫌いではない。周囲の騒がしい声や明るい雰囲気というのは嫌いではないのだ。自分から道化のように振る舞ったりするのは苦手だが見ている分には楽しかったりする。家にいるのも嫌いではないが、このような刺激は学校でしか得られない。
「おはよう」
「ああ、アンネか。おはよう」
俺は声だけで誰か来たのか察したものの、挨拶するだけで顔は窓の方に向けることにした。最近の俺はおかしい。アンネと挨拶を交わしただけでにやけてしまう。彼女としゃべっているとこれ以上無いくらいに幸せな気分になるのだ。
「おい、なんで私と反対方向を向いてから挨拶するんだ。こっち向け」
平然を装ったつもりが不自然な行動をとっていたらしい。
このまますぐアンネの方を見るのはまずい。
非常にまずい。
俺はアンネに気づかれないように深呼吸を試みる。
大丈夫だ。俺は緊張には強い。自分の中にある動揺を彼女に見せないことぐらい何のことはない。
「悪い、俺のパワーソースがアンネによってスターバースト・ストリームされただけだ」
さすが俺だ。これほど自然な演技は俺にしかできないだろう。
自分の優秀さを目をつぶって噛みしめていると、肩に何か触られている感触がある。
肩に全神経を集中させ、恐る恐る目を開くと、アンネはこれ見よがしにため息をついた。
「お前、やっぱ頭のネジがいかれてるんじゃないのか?」
俺はその台詞を聞いて安心する。彼女は気を遣わずに話してくれるから気に入ったのだ。
「おいおい、そんなこと言うなよ。ひどいじゃないか」
「いいだろ?だってあんな意味不明なこと言うやつなんざお前以外にいないよ」
そこまで言われてようやく俺は彼女の目を見ることができるようになった。俺の思考はいつになくクリアになった。だが、一つだけ気になることがある。
「あんな意味不明なこと?」
「ああ、やっぱお前はもうダメかもしれん。もういいや、これ以上深掘りするのはもうやめよう。時間の無駄だ」
「そう言われるのはかなり不本意だが、時間の無駄というのには同意する」
アンネは一旦自分の席についたものの、手に顎を乗せてしかめっ面をした。それから「うーん」と言うとまたこちらの方へ向かってきた。
「言うかどうか迷ってたけどやっぱ言うわ。ダニエルも学園のことはもうすでに耳にしたよな?」
「ああ」
「そっか。でさ、私これから学園の試験を受けようと思うんだ」
俺は立ち上がる。心臓が狂ったように跳ね上がる。視界が悪い。何もかもが見えてはいるが脳に情報が入ってこない。聞き間違いであってくれと俺は祈った。
「学園に行くのか?」
「まあ、行くとは言っても学園に入れるかどうかはわからないけどな。聞くところによると倍率がものすごく高いらしいし。記念に受験するのも悪くないかもとおもってな」
それを聞いてその言葉は嘘だと瞬時に理解する。彼女は記念なんかじゃない。本気で学園に入りたいのだということがいやでも伝わってきた。
気づいたら俺の口は自然と動いていた。おそらく脳を経由していないだろう。
「俺も受験するわ」
そこまで言うとアンネの口は三日月を描いた。