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児童文学

爪を切る道具

作者: 空見タイガ

「ぼくは爪切りになる」

 買い物を終えた帰り道、ぼくは母の浩子や妹のアカリちゃんに固い決心を打ち明けた。

 浩子はぼくの右手をぎゅっとにぎり、もう片方の手で買い物袋をゆらした。

「爪切りになったらハンバーグも食べられないよ」

 息をぐっとのんで「だんじきのおもいだ」と答えると、アカリちゃんが「だんちょうの思いだよ」とぼくの左手の甲をむにっとつまんでひっぱった。

「爪切りは爪を切るだけの道具だ」

 ぼくの説明に「糸を切るのにも使うよ」と浩子が口を挟む。それは浩子がものぐさなだけだろうっ。ぼくは肩をすくめた。愛する家族がぼくの立派な夢にまったく理解を示してくれない悲しみ。爪切りになればどんなにいいことがあるか、ふたりに教えてあげよう。

「人間は多くの作業をこなせないと一人前として認めてもらえないよね。それに比べたら爪切りなんて爪を切るだけでプロと認められて、みんなの爪が伸びるかぎり絶対に失業しないんだよ」

「失業ってなに?」

「お父さんみたいになることだよ」

 アカリちゃんが「それならいいことだよ」とうなずく一方で、浩子は「お父さんは休んでいるだけ」とこわい顔をした。休んでいるだけだって? だったらもっと幸せそうなはずだ。ぼくは話を続けた。

「爪切りは安定して人に必要とされている。ずっと需要があるんだよ。成長や進化なんてしなくていい。虹色に光らなくたって爪切りはかならず愛用されるからね」

 どうだ、まいったか。ぼくはふたりを見たが、どちらも困ったような顔をしていた。

 アカリちゃんなんて、だいきらいなピーマンを食べるときの顔をしている。

「爪を切るだけではたいくつそう!」

「たいくつでも必要な仕事だよ。たのしい仕事はさ、みんながやりたがるだろ。だから供給が需要を上回って、仕事がなくなる人が多いんだよ。それにたのしい仕事ができるのはみんながゆたかなときだけ。みんながまずしいときはたのしい仕事から減らされるんだ」

「お兄ちゃんは夢がないね」

 ぼくは今、まさに将来の夢について話しているのに!

 びっくりしていると、浩子が「華やかな職業もみんなに勇気や感動を与える必要な仕事なんだよ」と立派なことを言った。しかし想定内の意見だ。ぼくはようようと反論した。

「たしかに華やかな仕事は多くの人を喜ばせるかもしれない。でも少数の人たちがいやな思いをさせられることもあるんだ。その点、爪切りは自分の仕事でだれも傷つけない」

「この前、深爪したもん」

「深爪はおまえの仕事の結果だよ。だって爪切りはどこまで切るかを自分で決められないからね。指示されたとおりに切るだけだ」

 むうと頬をふくらませたアカリちゃんは爪でぼくの左手をかりかりと引っかいた。「この前」はそこまで昔のことでもなさそうだ。

「お母さんとしては、そんなこぢんまりした夢ではなくて、もっと大きな夢を追いかけてほしいもんだけどね」

「息子が爪切りなんて、外聞が悪いもんね」

「外聞が悪いってなに?」

「お父さんのことだよ」

 浩子は深い深いため息をついた。そのため息の深さで湖ができそうなほどだった。

「むずかしくても、たいへんでも、必要とされなくても、だれかを傷つけても、そのことで自分まで傷ついても。与えられた命令をただこなすだけの、かえがきく道具になるより悪い夢があるものですか」

「要するに、爪切りより立派な夢を探してほしいってことでしょう。やっぱり外聞が悪いからだめなんだ」

 ぎゅうううう。浩子はぼくの手をつよく握った。

「いいから夢を持ちなさい。なれなくてもいいから大きな夢を」

「なれないものになりたいと言うのってこわいよ。だって結局なれないんだよ? 将来はサッカー選手になりたい友だちがいるけど、本当にサッカー選手になるなら、今ごろはぼくと友だちになってないで、遠くの施設で凄腕コーチにビシバシ鍛えられて足の筋肉がカチコチになっているはずだよ。だけど彼の足はぼくの足よりやわらかなんだ」

 アカリちゃんが横からぼくの顔を覗きこんで「人間は爪切りになれないよ」とバッサリ切り捨てた。

「いや、願いさえすればなんにでもなれる」

「つじつま~」

「ヘンなことばかり言って、お母さんやお父さんを心配させるんじゃないよ」

 浩子に握られた手がいよいよ痛くなってきた。ぼくは浩子やアカリちゃんとつないでいた手を振りはらって走り出した。首だけくるっと回して後ろでどんどん小さくなってゆくふたりを見る。

「ひとの夢を否定するなんて最低だよ!」

「お兄ちゃんだってサッカー選手の夢を否定したじゃん」

「だれになんと言われようが、ぼくは爪切りになるんだ」

「たかし、危ない!」

 ふっと気づくと、ぼくは爪切りになっていた。パチッ、パチッ、パチン。横から横に流れるようにやってくる爪を切ってゆく。正確に、斜めにならないように、つねに張り詰めた気持ちで。ぼくはちらりと壁にある時計を見る。まったく時間が経っていない! 秒針がなめらかに進み、長針がびくっと身を震わせるように動く瞬間はあった。しかし短針の動きまでは追っていられない。すぐに新しい爪が運ばれてくるからだ。パチッ、パチッ、パチン。ぼくは爪を切る。時計を見る。まったく時間が経っていない!

 爪切りに集中しよう。目を凝らせばどんなものでも個性を見つけられる。この個性を数えているうちに時間だって経つはずだ。これは噛んでいる爪。これは爪のあかがびっしりで汚い。これはこれはなんてくさいんだ! 色もかたちもばらばらだった。でも次第に新しい特徴の爪を見つけられなくなった。そもそも個性があったところで爪は爪、ぼくの仕事は爪を切ることだ。

 パチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチッパチン。

 時計を見ようとしたところで、ぼくの目の前に友だちのタカノリくんが流れてきた。差し出された爪はとてもきれいなかたちをしている。タカノリくんは爪を切られながらすばやく言う。

「おれは昔からの夢を叶えてサッカー選手になったんだ」

 最後の爪を切り終える瞬間にぼくも言う。

「ぼくも昔からの夢を叶えて爪切りになったんだよ」

 流れるように去りゆくタカノリくんはなんだか悲しげな目でぼくを見つめていた。

 だが、ぼくは楽観的だ。むかしの友だちとおしゃべりをしたんだもの。きっと時間が進んだはずだぞ! 時計を見る。

 まったく時間が経っていない。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 ぼくは飛び起きた。いつの間に眠っていたんだろう。知らない色の壁。知らない重さの掛け布団。知らない顔の看護師さん。知っている顔の父と母とアカリちゃん。

「おそろしい悪夢を見ていた気がする……」

 アカリちゃんはベッドに乗り出して「おにいちゃあああああああ」と泣きながらぼくに抱きついてきた。大げさだなあと思っていると母の浩子がベッドに手を添えてぼくの顔を覗きこんだ。なんと浩子は目の端に涙を浮かべていた。

「あんた、車に轢かれかけたのよ」

「轢かれ……かけたの?」

 浩子よりすこし後ろでそわそわと立っていた父の哲朗は「車は直前で止まったけど、車に轢かれそうになったショックで気を失って倒れたらしいよ」と言った。

「どうして現場にいない哲朗が説明するんだ!」

「とにかくあんたが生きていてよかった」

 ばつが悪いと思ったけど、病室だし、ベッドの上だし、アカリちゃんが抱きついているから逃げ場がなかった。浩子は手を伸ばしてぼくの頭を撫でた。

「さっきはあんたの夢を否定して悪かったよ。でもね、お母さんの意見も聞いてほしい」

「うーん、どうしよっかな」

「役に立たなくたって存在していいんだよ。そのことを責めたり笑ったりする人はいるかもしれない。それでもあんたのことを大好きな人たちは絶対にあんたの失敗を責めたり笑ったりしない。叶わなくたっていいんだ。あんたがきらきらした目で未来を見ている横顔を見せてくれるだけで充分なんだよ」

 影の薄かった哲朗もぼくに近づいて「お父さんもそう思うよ」とぼそっと賛同した。自分の言葉で言えよ。

 涙をすべて流し終えたアカリちゃんは「お兄ちゃん、まだ爪切りになるつもりなの」とおそるおそるとうるうるのあいだの調子で聞いてきた。ぼくは先ほどの大言を思い出して赤らめ、しかしよく思い出せないが恐怖だけはこびりついている夢の残りかすに青ざめ、そのあいだの調子で答えた。

「ううん、ぼくが生きているだけでこんなに喜んでもらえるとわかったら、ぼくはもっとビッグになろうと思ったんだ……」

 アカリちゃんは「なになに」とぼくを期待のまなざしで見た。浩子と哲朗も「聞きたい聞きたい」と覗きこんでくる。

 さようなら、爪切りになる夢。新しい夢を見つけたからといって、ぼくはきみをばかにはしない。こんにちは、新しい夢。ぼくはみんなに愛されていると信じられるから、とてつもなく大きなきみに挑戦できる。

「ぼくは宇宙になる」

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