第九話
パルフェに案内してもらい、訪れたのは医務室。
先ほどの魔物の件で、バタバタと人が慌ただしく出入りしている。
突然の第二王子の登場は、その場で作業している人たちの動きを自然と止めてしまう。けれど「自分のことは気にしなくていい」とパルフェが一言放つと、全員が自分の仕事に戻っていく。皆の邪魔しないよう気遣いができるパルフェ。本当にあのアラモドと兄弟なのかと疑ってしまう。
シエルとアシドは医務室の奥にいると、治療に必要であろう道具を運んでいた使用人が教えてくれた。パルフェは軽くお礼を言い歩き出す。
置いて行かれないようにパルフェに付いて行こうとしたが、足が動かなかった。
「どうかされましたか?」
「あ…いえ…」
急に立ち止まった私を見て、パルフェが小首をかしげている。心配をかけてはいけないと思い口を開くが、声がうまく出てこない。
この先には、さっき騎士たちに運ばれたアシドがいる。正直、アシドにどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。彼の怪我の原因は私の軽率な行動だと自覚している。だからこそ、アシドの無事を早く知りたいとも思うし、容態を聞くのが怖くもあった。
もし、アシドに何か後遺症が残ったら? 腕がもう動かなくなってしまっていたら?
最悪な未来ばかりが脳裏をよぎっていく。会いたいけど、会いたくない。相反する感情が自分の中で渦巻き、ぐちゃぐちゃになりそうな思考が、足元を酷く不安定にする。
「ソルトさん」
ポンッと励ますようにパルフェの手が私の肩に置かれた。たったそれだけの事なのに、乱れていた私の心は信じられないほど穏やかになっていく。
「…大丈夫です。ありがとうございます、パルフェ様」
ニコッと微笑んだ私に、パルフェも柔らかな笑みを返してくれた。
ゆっくりとパルフェの手によって扉が開かれていく。
医務室の奥まで足を進めると、そこには確かにシエルがいた。少し疲労しているようだが、私たちに気が付いた彼女は笑顔で出迎えてくれる。
この笑顔はやっぱり安心できるなぁ、と癒されている私の視界に思わぬ人物が映った。
「ムラング様!?」
シエルの隣に立つ人物の名が勢いよく飛び出してしまう。私とアシドを転移魔法陣で送ってくれた神父―ムラングは驚きもせず、変わらず穏やかな雰囲気を纏っていた。
「どうして、ムラング様が王宮に…?」
「私は“光”の属性魔法でして。緊急で呼び出されたのです」
髭を撫でながら、朗らかに微笑むムラングに緊張の糸が緩む。
「ソルトさん、ムラングさんとお知り合いだったのですね」
「えぇ。私達が使用した転移魔法陣は、ムラング様の教会が管理していたものだったので」
「なるほど。ムラングさんは、ドルチェット家領地の神父でしたね」
それにしても、どうしてムラングが王宮から呼び出されたのか? 光の魔法属性は数が少ないとはいえ、王宮であれば適性者はいるはず。わざわざ神父を招集するほどの緊急事態ではないと思うのだが…
首をひねっている私に、パルフェは解答をくれた。
「ムラングさんは、王宮魔法師だったんですよ」
「王宮魔法師!?」
衝撃の事実に目を見開く。
王宮魔法師とは、各属性魔法で一番の実力者にしか与えられない称号だ。膨大な魔力や強力な魔法はもちろんだが、戦場で余程の大きな功績を残さなければ候補にすら選出されない。候補に挙がったとしても、その選りすぐりの中から更に一人に絞られる存在。穏やかの化身であるムラングに、そんな大層な肩書きがあるなど信じられなかった。
私の失礼な反応など気にする様子もなく、ムラングは静かに微笑んでいる。
「今はもう引退しておりますよ。現役の頃のような魔法は使えませんからね」
「ご謙遜を。あなたの治療は今でも皆が必要としています」
パルフェの言葉には一切の世辞が無いと分かる。今回の魔物襲撃事件で招集がかかったのが、何よりもの証拠だ。普通ならば、王族から信頼の言葉をかけられたことを鼻にかけそうなものだが、人間ができているムラングはパルフェに頭を下げる。
「こんな老体に勿体ないお言葉です…我が弟子は、貴族様に引っ張りだこのようですからね」
弟子、という言葉に私は目を瞬かせた。
「お弟子さんがいるのですか?」
「えぇ。実力は私より遥かに上なのですが…真面目すぎて効率が悪い子なのです」
やれやれ、と肩をすくめる老年者。けど、その口元から笑みは消えておらず、弟子の事を大切に想っているのが伝わってくる。
「ムラング様、私を弟子にしていただけないでしょうか!」
突拍子もないシエルの申し出に、全員の目が見開かれた。
「シエル、急に何を言って…」
「急ではありません。私はずっと魔法について学びたいと思っておりました」
パルフェの言葉を押しのけて、シエルは元王宮魔法師を真っ直ぐに見据える。
「先ほどのムラング様の魔法…すごかったです。私が一人治癒している間に、ムラング様は少なくとも十人は回復させていました」
間近で見ていたからこそ、シエルはムラングの実力が分かるのだろう。というか、ムラングはそんなに多くの人を治療していたのかと、内心驚く。それほどの人数を治癒するということは、それなりの魔力消費もあるはず。けれど、ムラングからは疲労感が一切感じられなかった。想像もできないほどの実力を秘めている老体を凝視してしまう。
「シエル殿、でしたかな。あなたの属性魔法は“光”ですね…魔法はどの程度、使えますか?」
「“光”の基礎魔法は使えます。魔法詠唱はまだ出来ませんが…」
「なるほど。その基礎はどこで学ばれたのですか?」
「我流です」
ほぉ、とムラングは少し驚いたように声を漏らした。魔力を確認しているのか、上から下まで彼女に視線を動かす。そして最後に、じっと静かにシエルの真剣な瞳と視線を交わす。
「ふむ…よろしいでしょう。シエル殿を私の弟子とします」
「本当ですか!?」
この場ですぐに許可がもらえると思っていなかったであろう、シエルは驚きの声を上げた。
「えぇ。光属性ならば、私も教えてあげられることが多いでしょう。それに、この歳で我流とはいえ基礎を会得するとは…将来が楽しみですね」
弟子入り許可に加え最上級の魔法師からの期待の言葉に、感動で体を震わせるシエル。そして、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「シエルちゃん、よかったね!」
「はい! 頑張ります!」
喜び合う私とシエルだったが、パルフェだけは何故か険しい顔をしている。
「ムラングさん、言いにくいのですが…シエルは平民です」
パルフェの発言に、私とシエルは首を傾げた。ムラングは黙ってパルフェの言葉を待つ。
「引退したとはいえ、王宮魔法師ほどの実力者が平民の娘を弟子にするなんて…貴族たちからすれば、あまりいい気持にならないかと…」
パルフェの指摘に、ハッとさせられた。貴族というのは、気位が高い者が多い。無駄にプライドが高い者の精神は幼稚で面倒なものだ。社会的弱者が上質なものを手に入れることを極端に嫌がり、酷いときは妨害までしてくる始末。
王族であるパルフェは、貴族のそういった気質を誰よりも熟知している。そして、プライドを傷つけられた貴族がどういった行動をするのかも―
第二王子の懸念を、ムラングはゆったりと笑い飛ばした。
「問題ありませんよ。今更こんな老人を貴族が気にかける事はありません。もし、私に何かあれば…現王宮魔法師である、我が弟子が黙っていないでしょう。それに…」
ムラングはシエルに視線を戻すと柔和に目を細める。
「この瞳をした者は決して諦めない、と知っておりますから」
フフッと小さく笑いを零すムラング。その瞳はシエルを映しているが、どこか別の誰かを重ねているように感じた。
ところで、とムラングの視線がシエルから私へと移される。
「アシド殿が怪我を負ったのは、ソルト様を庇ったからとお聞きしました…本当ですか?」
その言葉でアシドの腕から流れていた血を思い出し、ヒュッと喉が鳴る。空気によって喉が塞がれた私は、首を上下に動かすことで答えた。
「そうですか…やはり、あの子は本心で…」
ムラングは目を伏せると感慨深げに呟く。
「失礼します。パルフェ様、ご報告したいことがございます」
「シエルさん、治癒をお願いできますか?」
二人の騎士がほぼ同時に話しかけてきた。
「すぐに行きます…すみません、少し席を外します」
「私も。終わったらすぐに戻りますね」
ご指名の二人は軽く頭を下げると、それぞれ呼び出された方へと駆けていった。
ムラングと二人きりになってしまい、会話がピタリと止まる。ほぼ初対面に近い人物と二人きり…なんとなくソワソワと落ち着かない。
「…少し昔話に付き合っていただけますか?」
沈黙を破ったのは、ムラングの人柄のような柔らかな声。話の内容が想像できはしなかったが、この気まずさを打破できるならばと思い頷く。
「アシド殿は、私の教会が預かっている孤児院の出身なのです」
ムラングの口から語られたのは、意外にもアシドの過去だった。アシドが孤児院出身ということは知っていたが、まさかムラングが関係していたとは思いもしなかった。
ここでふと気が付いた。そういえば、私はアシドのことを何も知らない、と―
ドルチェット家でのアシドのことはよく知っていると思う。
アシドは、ドルチェット家に住み込みで働いている。通常業務としては私の身の回りの世話と護衛が主な仕事だ。しかし、何か問題が起これば従者たちは全員、必ずと言っていいほどアシドに報告する。たとえ自分の担当以外の仕事であっても、相談されてしまうと彼は放っておけない性格なのだ。共に解決策を真剣に考え、的確なアドバイスをしてくれるアシドは、同僚たちからの信頼が厚いと聞いた。
ドルチェット家はホワイトな職場のため、休日は与えられる。けれど、アシドが休みの日を満喫している姿を見たことが無い。休日だろうがそんなもの関係ないと言わんばかりに、アシドはいつだって通常業務をこなす。以前、気分転換に買い物くらい行ってはどうかと提案したが、衣食住が保証されている職場には不要だと、本人から即答で却下された。
趣味は仕事です。とでも言いそうなアシドに、お父様が逆に気を遣っているくらいだ。
そんな仕事人間がドルチェット家に就職する前は、どんな生活を送っていたのかなど…考えもしなかった。
「あの子は、いつも頑張り屋で…我儘どころか、泣き言一つ言わない子供でした」
負けん気の強いアシドらしいと、ぼんやりと思う。過去のことを思い出しているムラングの表情は、どこまでも優しく穏やかだった。
「面倒見もよくて、孤児院の中でも皆にとても慕われていたのですよ」
実の息子を自慢するかのようなムラングに、心がポカポカと暖かくなってくる。きっとこの場に本人がいたら、いつもの冷静な顔がほんのりと照れに染まっていたに違いない。
「自分の誕生日でも何も欲しがらなかったあの子が、初めて願望を伝えたのはドルチェット家の…いえ、ソルト様に仕えたいと言った時だけです」
「私…?」
ドルチェット家ではなく、私個人の名前を出してきたアシドにムラングは驚いたそうだ。
「私は…残酷ですが、現実を彼に伝えました」
孤児が貴族の、ましてや公爵家の令嬢に仕えられる可能性は限りなくゼロに近い。ムラングは心苦しかったが、傷は浅いうちがいいと思ったのだ。
「でも、彼は諦めなかった。私には想像もできないやり方で、願いを叶えました」
魔法の才能はあったみたいだが自分とアシドは属性魔法が違うので、ムラングは基本的な技術を指導しただけ。だから、まさかあの若さで魔法詠唱を扱えるようになっているとは、夢にも思っていなかったらしい。武術もどこから教わってきたのか、大人が数人がかりで挑んできた手合わせであったとしても勝利をもぎ取ってきては実践経験を積んでいき、強さに磨きをかけていったそうだ。読み書きもしっかり習得していたアシドは、片っ端から本を読み漁り恐ろしい早さで知識を増やしていった。睡眠時間をも削り始めた時は、さすがに雷を落としたそうだ。
「たまにですが、無理矢理寝かせていた時もありました」
「魔法で、ですか?」
「いえ、拳です」
それは、気絶と言うのでは? と思ったが野暮なことは言わないでおこう。物理的に寝かされるアシドを想像すると面白いと思う反面、目の前の老人を怒らせてはいけないと学んだ。
「周りからは、金に汚い子供と認識されてしまいましてね」
微笑んではいるが、ムラングの表情はどこか憂いを帯びていた。
周りの大人からの揶揄い交じりの言葉にアシドは肯定も反論もしなかった。確かに公爵家に仕えられれば、給金もそれなりの額になることは誰もが想像できること。けれど、幼い頃からアシドを見ていたムラングは、彼の目的が金ではないと見抜いていた。
「ある日、頑張りすぎるあの子に私は尋ねたのです」
そこまでして公爵家に仕えたいのか、と―
「そしたら…あの子はなんと言ったと思いますか?」
突然の問いかけに私は何も答えることができなかった。アシドの過去に脳がキャパシティーを超えてしまって、考察することを拒否してしまっているからだ。一言も発しない私に、ムラングは変わらない笑みのまま思い出に浸りながら答えを紡ぐ。
『私は公爵家ではなく、ソルト様を守るために仕えるのです』
大人と向き合いながらも真っ直ぐに放たれた子供の答えに、ムラングは目を見張った。そして、強い決意を秘めたその瞳が今でも忘れられないとムラングは言う。
子供がここまでの決意を持っているのは執念に近い何かがあると思い、ムラングはもうアシドを止めることはしなかったそうだ。
そして、アシドが十五歳の時。彼は見事、ドルチェット家の使用人試験に最年少で合格し、使用人として働き始めた。その後、優秀な働きぶりを間近で見ていたお父様はアシドを私の執事兼護衛として最速で昇進させたみたいだ。周りの貴族が物好きだのと言っていたらしいが、実力主義のお父様はそんな言葉関係なかった。
執事の凄まじい武勇伝に唖然となってしまう。
「先ほどのシエル殿の瞳は、あの子と同じでした。誰かの…大切な人のために自分の意思を曲げない、強い意志を持ったもの」
懐かしむムラングは、小さく笑っている。私の脳裏にはアシドと同じと言われ、何故か嫌そうに顔を歪めるシエルの顔がよぎっていた。
「…どうして、その話を私に?」
私はムラングに問いかけた。いくらアシドの主人という立場ある私に対してでも、本人の許可が無いのに勝手に過去を話すなど、ムラングほどの人格者が思い付きでするとは思えなかった。何か理由があるのならば、聞きたいと思ったのだ。
ムラングは目を伏せると、眉を下げて笑った。
「アシド殿はきっと様々な感情を、あなたにぶつけるでしょう。でも、それは…あなたを嫌ったのではなく、あなたを想っているからです」
一つ一つの言葉を確実に相手に届けるように、ゆったりと言葉を紡ぐムラング。彼の気持ちをひとかけらも取りこぼさないように、私はしっかりとムラングの薄い灰色の瞳と向き合う。
「それを理解していただきたかったのかもしれません…あの子は、不器用ですから」
苦笑を浮かべるムラングに賛同するように、私も確かにと声を漏らした。
本当は優しいのに素直じゃない彼は、今でも前世でも回転の速い脳から生み出される皮肉を平気で口に出してしまう。誤解されやすい彼の変わらない性分に思わず笑ってしまった。
「大丈夫です。伊達にアシドと一緒に過ごしていませんし、私が彼の小言に怯むことはありません」
黒いオーラを纏っている時の笑顔には圧されるけど…そのことは黙っておこう。
「この先何があっても、誰かが何か言ってきたとしても…私がアシドを嫌うなんてことは、絶対にありえません!」
寧ろ自らトラブルに足を突っ込んでいく私の方が、アシドから愛想をつかされそうな気がする。そうならないように、スイーツに夢中になりすぎるのはちょっぴり…ほんの少しだけ気を付けよう。
決意を新たに力強く言い切る私に、ムラングは瞳を見開かせる。そして、その瞳が柔らかく細められると、ムラングはとても優しい笑みを浮かべた。
「あの子が、ソルト様に仕えたいと思った気持ちが分かったように思います」
目を閉じ安堵したように言葉をこぼすと、ムラングは奥にある扉へ足を向ける。
「アシド殿は奥の個室で休まれております。出血が酷かったのですが、シエル殿の処置のおかげで大事には至っておりません」
その言葉にホッと胸を撫で下ろした。あの時、シエルがいてくれたことに心から感謝する。
「…会われますか?」
ムラングの提案に、一瞬体に緊張が走ったがすぐにコクリと頷く。病み上がりということもあるので、もしかしたら眠っているかもしれないが、それでも構わない。ただ、アシドの顔が見たい。その気持ちが強かった。
ムラングが扉に軽くノックをし、ゆっくりと扉が開かれる。
清潔感のあるベッドの上で、アシドは横になっていた。ぼんやりと、風によって柔らかく波打つカーテンを見ていたが、来訪者の気配に気が付いたようだ。
「気分はどうですか?」
「ムラング様…大丈夫です。治療していただき、ありがとうございました」
身体を起こし座った状態で軽く頭を下げるアシドに、ムラングは笑顔で応える。私はムラングの陰に隠れてアシドを観察していた。出血が多かったせいで血色は悪いけど、本当に大丈夫そうだ。腕も起き上がるときに、支えにできるくらいに回復している。自分が予想しいていた悪い未来ではない現在に思わず笑みがこぼれてしまった。
ふと、私とアシドの視線がパチリと交わった。思わずムラングの背中に隠れてしまった私に向かって、瞬時にアシドの口が大きく開かれる。けれど、そこから怒りの弾丸は放たれることなく、開きかけた口はゆっくりと閉ざされた。アシドは自分を落ち着かせるように、大きく深く呼吸をする。
「…申し訳ありませんが、お嬢様と二人にしていただけますでしょうか?」
抑揚のない声に、私の身に緊張が走る。ムラングは苦笑を浮かべながらも、頷くと部屋を出た。
パタン、と扉の音がやけに大きく鼓膜を震わせる。
二人の間を支配するのは沈黙。裁判官に判決を言い渡される直前の罪人のような気持ちだ。だが、いつまでも黙っていては先に進めない。意を決して、肺いっぱいに空気を吸い込む。
「あの…アシド、大丈―」
「この馬鹿!!」
空気を揺らすくらいの怒声に、言葉が喉に押し戻された。
「死にたいのか!? 魔法もろくに使えないくせに、魔物の前に出やがって!」
「だって、あのままじゃパルフェ様が…」
「パルフェには騎士たちがいるだろ! お前が出しゃばったところで、どうなるっていうんだ!?」
何も言い返せなかった。アシドの言う通り、まだ魔法が使えない私には魔物に対抗する術がない。あの時、アシドがいなければ現在ベッドに横たわっているのは私自身だろう。いや、怪我だけで済まなかったかもしれない。
「考えも無しに突っ込むな! お前に何かあったら俺は…」
ぐっと唇を噛み締めて、何かに耐えるように表情。それは肉体的な痛みに耐えているものでは無いことは誰が見ても分かる。怪我をしてないはずなのに、ズキズキと私の胸元に痛みが襲う。
「ごめん…ごめんなさい。心配をかけてしまって」
アシドの手にそっと自分の手を重ねる。言葉だけではない、心からの謝罪の気持ちが、触れることでより深く彼に伝わることを願って―
アシドは私の腕を掴むと、そのまま自分の方に抱き寄せた。掻き抱かれた手の強さから、アシドの思いがひしひと伝わってくる。
「…二度とするな」
「うん」
「俺の手の届く場所にいろ」
「…うん」
抱きしめる力が強くなり、一瞬だけ息が止まったが苦しいとは思わなかった。トクリ、トクリと心臓の音が響く。まるで、生きていることを確かめているように。
「俺はもう…お前を見送るなんて、ごめんだ」
震える声でこぼれた言葉は、彼の本心を私に伝えてくれる。
あぁ…そうか。アシドは前世で私を目の前で亡くしたんだ。
誰よりも真面目で、誰よりも優しくて、誰よりも私を支えてくれた人。そんな人の前で、私は―
瞳を閉じ、彼の背中にゆっくり手を回す。何も言わず、アシドの背をトントンと優しく叩いた。子供をあやすような行為に、いつもの彼であれば怒るだろうが、今だけは黙って私の手を受け入れてくれている。
強くなろう。私を想ってくれている人のために。
背を押してくれるように、窓から心地いい風が部屋に流れ込んだ。
読んでいただき、ありがとうございます。
ほんの少しでも面白いと思っていただけたら、下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎で評価やブックマークボタンを押していただけると、とても励みになります。感想なども頂けると、すごく嬉しいです。