十二話
ついにやってきた、訓練初日。
「アシド殿! ぜひ、僕と手合わせを!」
「こんな奴より、まずは自分と!」
「いやいや、ここはまず俺と!」
訓練場に足を踏み入れた瞬間、騎士たちに囲まれてしまった。どうやら彼らの目的は、同行しているアシドのようだ。キラキラと子供のように輝く瞳が、眩しい。
「モテモテね。主人として鼻が高いわ」
「…嬉しくありませんね」
見目麗しい女性ならまだしも、鼻息荒い男たちからのお誘いは、アシドの眉間に深いしわを刻み込んでいく。
「申し訳ありませんが、本日はお嬢様の護衛で同席しているだけですので…」
「そこをなんとか!」
「アシド殿の武勇伝はお聞きしております! どうか、俺たちにもご指導を!」
切実にアシドに願い出ている騎士たちの邪魔をしてはいけない。そう思いススッ…と輪から離れる。
距離をおいて安全地帯からアシドを見ていると、前世の自分が少し重なった。かつて受けていた囲み取材を思い出し、一人懐かしむ。
まぁ…私のときは、あんながっちり筋肉の男たちばかりではなかったけど…
「お前たち、何をしている!」
しみじみとした気持ちを吹き飛ばすように、団長であるホウルの鋭い声が響き渡り、騎士たちの背筋がピンッと伸びる。ホウルは小走りで近寄ってくると、包囲網を崩し筋肉騎士たちから守る様にアシドを自身の後ろ置いた。
さすが団長。部下の勝手な行動を叱責するのだろう。
「アシドと手合せするのは…俺が一番最初だ!!」
前言撤回。この人が一番、勝手なようです。
キラリと白い歯を輝かせるホウル。後から来たくせに図々しいことを言う上司に、騎士たちから非難の声が上がるかと思ったのだが…
「団長とアシド殿の一騎打ちだと…!?」
「見たい…!」
「俺、あっちの奴らにも声かけてくる!」
全員が賛成のようだ。寧ろ、積極的に観客を集めようとしている。これはホウルの人望なのか、それともこの騎士団は戦闘バカが多いのか…
明確な答えは見つからないが、ホウルの宣言によってアシドの纏っている空気に、苛立ちの棘が宿っていくのを肌で感じた。そろそろ止めるか、と口を開きかけた瞬間―
「父上」
低く落ち着いた声が、騒がしい集団の動きを止める。声のほうに目を向けると、凛々しい少年がいた。
「おぉ、ケイク! やっと来たか!」
この子が攻略対象の一人、ケイク・クーヘン。
短く切り揃えられた黄金の髪に、鋭いルビーの瞳。そして、同じ年とは思えないほど立派な体躯。昨夜アシド指導のもと、脳に叩き込まれた情報と特徴が一致している。
「父上、急に走り出すのは止めてください」
「すまん、すまん。アシドと手合わせできる機会なんて、そう無いからな」
じとり…とケイクは咎めるような視線を父親に向けた。
「そんな顔するなって…本当にお前は真面目だな~、母親そっくりだ」
ガハハハッと豪快に笑い、ホウルは息子の背中を叩く。普通なら痛みを訴えそうなほどの力強い音が鳴っているが、ケイクは痛がるどころか身体を揺らすこともない。すごい体幹だ。
「紹介しよう。俺の息子でお嬢ちゃんたちの訓練を指導する、ケイクだ」
「ケイク・クーヘンです。宜しくお願い致します」
深々と頭を下げるケイクに、私は目を見張った。
彼は本当にホウルの息子なのだろうか…そう思うくらい、ケイクの動作は丁寧だった。がさつの化身であるかのようなホウルとは、対照的すぎる。これは、つまり…お母さんの教育がいいのだろう。
失礼ながらも勝手に自己完結させている私を、アシドが小突く。ハッとし、慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、宜しくお願い致します!」
勢いよく腰を曲げる私にケイクは一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに優しく微笑んでくれた。温厚そうな少年が指導者で、胸を撫でおろす。
「貴族が騎士に頭を下げるなんて…噂通り、変わった令嬢のようですね」
聞き覚えのない中性的な声。首をかしげつつ顔を向けると、細身で眼鏡をかけた少年が視界に映った。
「…ぅげ!?」
飛び出した言葉は、令嬢としてあるまじき下品なものだが許してほしい。
元凶である少年…褐色の肌を持ち、波うった深みのあるブラウンの髪。そして、眼鏡の奥で輝く知性漂う黄金の瞳。この外見を持つ者を私は知っている。というか、昨夜復習したので嫌でもわかってしまう。
「ラート・ショコラ…」
固い声で紡いだ名は、幸いにも誰の耳にも届いていない。
目の前に現れた利発そうな眼鏡少年は、攻略対象のラート・ショコラと外見の特徴が完全一致している。
しかし、ラートは訓練場とは無縁の少年のはずだ。
ラートは、魔法局長の息子で魔法に関しての知識や技術が高い。その代わり身体能力は低く、彼自身も剣術などには興味がない。剣を振るよりも、本を読むことを選ぶような少年だ。そんなインドア派の彼が、なぜ訓練場に現れたのか…は! そうか!
この子は似ているだけで、ラートじゃないのよ!
持ち前のポジティブ脳が高速回転して、私にとって最高の回答をたたき出す。
まだ攻略対象のラートだと、確証を得る言葉を聞いていない。ということは、この子がラート本人と決まったわけではないのだ。もう、私ってば慌てちゃって―
「おっ、ラートも来たか」
はい、決定しました!
膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪えた。さすがのアシドも憐みを込めて、私の肩にポンッと優しく手を乗せてくれる。
「お嬢ちゃんと一緒に訓練する、ラート・ショコラだ。親父さんが魔法局長でな。本の虫みたいな息子を心配した親父さんが、今回の訓練のことを聞きつけて、飛び入りで参加することになったんだ」
「そうですか…」
私の心境など知らないホウルは、次々と攻略対象だと認めざる得ない事実を告げていく。団長が言葉を発するたびに、無理やり作った笑顔の頬が引きつる。
これで、攻略対象とは全員接点ができてしまった…シークレットキャラは正体も掴めていないので除外にするにしても、悪役令嬢がここまで攻略対象たちと接する機会が多いのはおかしいのではないか?
悲嘆を通り越して、怒りが沸き上がってきた。誰にもぶつけられない怒りは、後でスイーツを大量に食べることで発散させよう。
私は大きく深呼吸し、目の前のラート達と向き合う。
突きつけられた現実は辛いが、嘆いたところで何も変わらない。ならば、腹をくくって突き進むしかない。
覚悟を決めてしまえば、肝というものは自然と据わっていく。私は思うがままに行動することにした。
「ソルト・ドルチェットです! 宜しくお願い致します!」
「ラ、ラート・ショコラです…こちらこそ宜しくお願い致します」
フンッ! と意気込み、ラートの手を握る。私の気迫にラートは若干身を引いているが、握手を拒絶されることはなかったので、問題なしということだ。
攻略対象だろうと何だろうと、敵を作らない。
今後はこれを目標としていこう、と決心した。第一歩として、相手の目を見てしっかり挨拶をする、というコミュニケーションの基礎を試みたのだ。
「ところで…先ほど、僕の顔を見て何か言いませんでしたか?」
ぎくりと肩が跳ねた。反射的とはいえ、初対面の人物にあの反応は失礼すぎる。令嬢としてとかではなく、人として…それにたった今、敵を作らないと誓ったばかりだ…うん、誤魔化そう。
「何も言っておりませんわ」
オホホ、と本心にお淑やかな微笑みの仮面をかぶせる。前世で鍛えた演技力が、ここで役立つとは思わなかった。ラートは不審な目を向けるが、貫き通せればこちらのものだ。
「フフッ、相変わらずですね。ソルトさん」
「パルフェ様!?」
「殿下!?」
いつの間にか隣にいたのは、パルフェだった。突然の第二王子の登場に、場がざわつく。
いくら王宮内とはいえ、犯人未確保の事件後に、護衛もつけず第二王子が一人で行動しているなど誰も想像できなかったのであろう。無防備すぎるパルフェに、騎士たちが騒然としている。だが、そんな周囲の反応など気にも留めず、パルフェはニコニコと相変わらず爽やかな笑みを浮かべていた。
「元気そうで安心しました。あの茶会以来、お会いしていなかったので」
「ソウデスネ」
私は会いたくなったです、とは言えない…本心を飲み込み、愛想を加えた笑顔を顔面に張り付ける。
「ところで…お二人はいつまで手を繋がれているのですか?」
「はい?」
パルフェの視線を追うと、そこには私とラートの握手。これを“手を繋ぐ”と認識しているパルフェに、首を傾げる。パルフェは、小さく息を吐いた。
「友人として仲良くすることは素晴らしいですが…令嬢が男性の手をいつまでも握っているのは、あまりよくありません。友人としてでも」
優しい手つきで私とラートの手を引き離すパルフェだが、その瞳はどこか冷たいものがあった。しかも、その冷気は私ではなく、ラートに向けられているから不思議だ。
急に手を握るという、無作法をしたのは私なのに? そして、なんで友人を二回言った?
頭の中の疑問符は消えないが、とりあえず謝っておこう。
「ごめんなさい、私ったら失礼なことを…」
「いえ、僕の方こそ申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
眼鏡のブリッジを上げながら、謝罪の言葉を述べるラートではあるが、チラチラとパルフェを気にしている。
どうして殿下がここに? と問いたそうなラートに変わり、爵位が一番高い私がパルフェに質問を投げた。
「えーと…パルフェ様は、どうしてここに?」
「言ったじゃないですか。僕も訓練に参加すると」
そういえば、そんなことを言っていたような気がする。あの時の記憶は、彼自身の発言によって吹き飛んでいるのでよく覚えていない。
「ですが、今日は別件があり参加できなくて…なので、せめて挨拶だけでもと思いまして。少しだけ抜け出してきました」
人差し指を口元にあて、パチンと片目を瞑るパルフェは絵になる。正に理想の王子様だ。美男子耐性がなければ、恋が始まっていたのかもしれない。
「パルフェ様は、すごく律儀なんですね」
幼いながらも王族として誠実なパルフェに関心する。先日の会った第一王子とは真逆だ。パルフェのような人物が王位を継げば国がよくなることは、火を見るよりも明らかだと思う。
「当然です。僕のモットーは有言実行ですので」
どこか誇らしげに胸を張るパルフェに、ゾクッと悪寒が走る。
「特に婚約者のこととか…」
キラリとパルフェの瞳が光った。あ、これは話を長引かせてはダメなやつだ。
「ソルトさん、婚約の件ですが―」
「そういえば! そろそろ訓練を始める時間なのでは!?」
予想通り、恐ろしいことを口にしようとしたパルフェの言葉を大声で遮る。無理やり話題を変更させた私に、妙な視線が集まるが今はそれを気にしている場合ではないのだ。
パルフェが唇を尖らせ、不機嫌アピールをしているがそれも関係ない。こちらは未来がかかっているのだ…そう! 輝かしい、スイーツライフが!
婚約者の話から逃れることに成功し達成感に浸っていると、騎士たちのひそひそとした小声が背後から聞こえてきた。
「おい、あの令嬢…パルフェ様の話を切ったぞ」
「あぁ…王族のお言葉の途中で大声を出すなんて…恐れ知らずもいいところだ」
「さすが肝っ玉令嬢。噂は本当みたいだな…」
噂って何!? 詳しく聞きたいのですが!?
ぐりんと、小声で話す騎士たちのほうに勢いよく顔を向けた。すると、彼らは小さく悲鳴を上げ、慌ててそっぽを向く。
恐らく、私の顔が必死すぎて怖かったのだろう。この時ばかりは、お父様譲りの鋭い眼光を恨んだ。
騎士たちの会話はパルフェの耳にも届いていたようで、何かを思案するように顎に手を添えている。その時、私の本能が警鐘を鳴らした。この状況で頭の回転が速い彼を放置してはいけない、と…
パルフェの思考を邪魔しようとしたが、遅かった。
「そうですね…僕とシエルさん、二人の大切な未来の話なので、後日ゆっくりと父上の前でお話しましょう」
ピシリッと固まった私の手に、パルフェはそっと口を寄せる。
ホウルとアシド以外がどよめく。
パルフェの父、つまりは現国王。そんな人物の前で、王子と公爵令嬢が行う大切な未来の話…それは婚約を連想させるに十分すぎる材料だった。そして、決定打を与えるかのような手の甲への口付け…
『相手はあのパルフェです』
シエルの警告が脳内で響く。十歳の子供とは思えないほど策士な第二王子に、末恐ろしいものを感じる。
「では、僕はこれで失礼します」
踵を返すパルフェは去り際に、再度ラートに冷たい目を向けた。
憤怒の時のアシドに負けず劣らずの冷気をまとった瞳は、ラートの身を震わせる。口元は笑っているのに、目は全く笑っていない…それを自分に向けられた時の恐怖をよく知っている私はラートに同情した。
「ありゃ、牽制だな」
ホウルの言葉に、首をかしげる。
「牽制って…どうしてですか?」
「そりゃ、お嬢ちゃんを取られないためだろう」
ホウルの言葉の意味をすべて汲み取ることができず、首をさらにひねる。そんな私をよそに、ホウルはパルフェが去った方向に顔を向けた。
「しかし、あのパルフェが牽制とはなぁ…俺も年を取るわけだ」
うんうん、と一人感慨深そうに語るホウルではあるが、私にはパルフェの行動の意味がよく分からなかった。
公爵の爵位を持つドルチェット家から後ろ盾を得るため、私を婚約者にしたいという気持ちは理解できる。けれど、パルフェほどの人格者ならば、そういったことをあまり深く考えずとも、次期国王として選ばれるのではないのだろうか?
だって、競う相手があの馬鹿…もとい、アラモドなのだから。
確かに第二王子というハンデはある。しかし、生まれた順番ごときで安々と王位を譲ってもらえるほど、国王という地位は簡単なものではないはず。
まぁ、現国王が無能ではないというのが前提の話なのだけど…
話は逸れたが、つまるところパルフェが私に執着する理由が特に無いように思う。なのに、ただ握手をしていただけのラートを牽制するなんて…パルフェの思考が私には理解しきれない。
うーん、と考え込んでいる私を放置し、パルフェの行動原理を理解できているホウルはラートの肩に手を置いた。
「まっ、そんな訳だ。運が悪かったと思え、ラート」
「不運って言葉一つで、第二王子に目を付けられるなんて…」
ズーンと重い空気を背負うラートに、何もしてないのに何故か私が申し訳なくなる。
「しばらく夜道には、気をつけたほうがいいかもな」
そこまで!? パルフェは何をする気なの!? というか、そういうキャラだっけ!?
私はアシドの腕を引っ掴み、隅の方へ移動した。誰にも会話が聞こえないくらいの小声で、アシドに問い詰める。
「ちょっと! パルフェってあんな感じだっけ!? もっと王道の王子様キャラじゃないの!?」
「そのはずですが…少々違いますね」
「少しじゃないわよ! あれじゃ王子じゃなくて、魔王じゃない!」
「知りませんよ。私もすべてを知っているわけではありません」
「はぁ!? 今まで人に散々言ってたくせに、逃げるなんてズルいわよ!」
「おーい、どうかしたのか?」
ホウルの呼びかけに、我に返る。幸いにも会話の内容は聞こえていないようだが、あからさまな緊急会議は目立ちすぎたようだ。いつの間にか全員の視線が、私とアシドに集まっていた。
「な、なんでもありません! お気になさらず」
ニッコリと笑顔を張り付ける。困ったときは、とりあえず笑顔だ。大抵のことはそれで乗り切れることを、私は知っている。
だが、団長として観察眼と分析力が高いホウルの目を欺くのは難しいようで、怪訝な目が逸らされることはない。
「ところで、団長殿。パルフェ様の不参加は知っていたのですか?」
助け舟を出すように、ホウルに質問を投げかけるアシド。ホウルの意識が、不審な私からアシドへと移っていく。さすがはアシド、優秀な執事である。
「ん? まぁな」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか?」
「悪い、悪い。お前との手合わせが楽しみで、つい…」
紙のように軽い謝罪をヘラッとした表情でするホウル。アシドの眉間に深いしわが一気に刻まれるが、小さく咳払いをして怒りを体外へ逃がそうとしている。
「ラート様の件もそうですが、連絡不足ではありませんか? お嬢様はおろか、私ですら何も聞いておりません」
「連絡も何も…誰にも言ってなかったからな」
悪びれる様子もなく、けろりと告げるホウル。アシドの口元の筋肉が、ピクピクと苛立ちを訴え始めた。
マズイと思い、何とかフォローに回ろうとするが、かけるべき言葉が咄嗟には思いつかない。アシドをこれ以上刺激しないような言葉を選んでいると、ホウルが先手の如く無配慮な言葉を放つ。
「まぁ、いいじゃないか。別に一人も二人も一緒だろ?」
「同じではありません。お嬢様の安全を確保するためにも、参加者の詳細は事前に教えていただかないと困ります」
「あー…分かった、分かった。次から気を付けるわ」
「必ず、ですよ?」
「覚えてたらな」
ピキリッとアシドの顔面に青筋が立った。あ、もうダメだ…
「それより、手合わせだ!」
なおもアシドの怒りの地雷を踏みぬくホウルに、心で悲鳴をあげる。
「アシドとの手合わせなんて、滅多にできないからなぁ…楽しみだ!」
「ち、父親…今は…」
「ホ、ホウルさん…彼にも都合があると思うので、あまり強引にお誘いするのは…」
アシドの憤怒が伝わっているのか、ラートが遠慮気味にホウルを止めた。ケイクも多くは発していないが、傍若無人な父親の言動におろおろしている。間に入ってきたラートたちのおかげで、アシドの瞳に冷静さが少しだけ戻った。
「…彼らの言う通りです。手合わせする前提で話を進めないでください」
「まぁ、そう言うなって。それとも…怪我を理由に断るのか?」
「あぁ”?」
執事モードのアシドからは想像もできない、ドスのきいた声。全員に緊張が走った。ただ、ホウルだけはニッと口の端の片方を上げている。
「そうだよなぁ~、病み上がりで無茶したら菓子屋のお嬢ちゃんに怒られるもんなぁ」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、分かりやすい挑発をするホウルに呆れてしまった。
菓子屋のお嬢ちゃん、つまりシエルのことだ。確かに、アシドはシエルから無茶をしないようにと警告されている。手合せで怪我をすれば、彼女の雷が落ちることは間違いない。だが、可憐な少女の怒りに触れるのが怖くて勝負を放棄するなど、大人としてのプライドが傷つくだろう。
相手の神経を逆撫でする作戦としては、ホウルの発言は正解だと思う。しかし、相手はあのアシドというのを忘れている。常に冷静で自他共に認める優秀な執事。そんな彼が、こんなあからさまな挑発に乗るわけがない。
やれやれ、と思いながらアシドを見ると…真っ白の手袋と黒のネクタイを外し、近くにいる騎士に預けていた。
え…? ま、まさか…
「不調を負けた理由にされたら、俺も後味悪いからな…仕方ない、今回の手合わせは中止に―」
「誰がやらない、と言いました?」
芝居じみた動きで肩をすくめるホウルに、アシドが待ったをかける。
「その安い喧嘩、買ってあげますよ」
乗るの!? あんな単純な挑発に!?
ボキボキと、指を鳴らすアシドの笑みはいつもの品のあるものではなく、ヤクザのそれだ。
アシドの瞳に揺れる炎は、闘志なのか怒りなのか分からない。でも、ここまでやる気なアシドを見るのは稀なことなので、制止を躊躇ってしまう。けれど、ここで私が一人になるのは危険でしかないと思い至り、アシドを引き留めるという選択へと瞬時に切り替えた。
「ちょっとアシド! 私を一人にしなむぐっ!?」
アシドから口に何か放り込まれた。反射的に咀嚼すると、口の中に甘みが広がっていく。
サクサクとした触感の中に、ビターな大人の甘みを舌の上に感じる。これは…チョコチップクッキーだ!
思わぬ場面で登場したスイーツは、私の目を輝かせた。
どうしてアシドがチョコチップクッキーを持っているのか、どこから取り出したのか…そういった細かい疑問など吹っ飛ばすほどの甘い幸せが私を包んでくれる。
「それじゃ、アシドを借りてくぞ」
もぐもぐとチョコとクッキー、両方の美味しさを同時に堪能していた私の耳に届いたホウルの宣言。
ハッ! とスイーツの世界から現実に意識を戻す。
「待っ―」
「ケイク、後は頼むぞ~」
気が付いた時には、ホウルとアシドはこちらに背を向けていた。
足早に去っていく彼らに伸ばした私の手は、虚しくも空を掴む。
ひゅ~るり~…と木枯らしが吹くのは、残された訓練場にか、それとも私の心の中か―
返事が返ってこない問いは、ただただ虚しいだけだった…
読んでいただき、ありがとうございます。
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