ミトス村
『魔王殺し』のリサイの名言として広く世間に知られているものの一つに、『万の抗者』がある。
魔王城への決戦に赴いた千にも及ぶ精鋭と、その戦いから帰還した百の英雄、更には魔王討伐を見事成し遂げた十の勇者への賛辞への返答として、彼は「この勝利は魔族の猛攻にも折れることなく立ち向かい続けた名もなき万の抗者たちの成果でもある」と語ったと言われている。
しかし、近年では別の誰かの言葉だったとする説が有力だ。
それというのも『千の精鋭・百の英雄・十の勇者』という呼び方が初めてなされたのは決戦から一月以上も経った戦勝記念式典での出来事であり、魔王討伐直後から消息が不明となっていたとされるリサイがそれに出席していたとは考え難いためである。
恐らくは当時政治的な思惑から一部の者たちが大々的に叫んでいた「背後からの不意打ちは卑怯極まりない」とする意見を封じ、彼の人物の名誉を守るためのことだったのだろうと推察される。
他にも、魔王城からの帰還の途上で語った、千の精鋭に選ばれたことで増長した者を諫めた言葉が元になっている等の説もあるが、確固たる証拠は見つかっていない。
そもそもリサイ本人からして謎の多い人物であり、決戦以前の経歴や出身地など不明な点が多いのである。
話を『万の抗者』の方へと戻そう。この最初の抗者として挙げられるのがミトス村の人々である。戦後には復興の中心地となりミトス市として見事再生を果たした訳だが、これは『万の抗者』の言葉が広まって以降の話である。
今日では正体不明の魔族へと果敢に立ち向かい、世界が魔族の存在を知る時間を稼いだと評価されているが、それ以前の特に戦中は『魔族によって最初に滅ぼされた村』という扱いでしかなかった。なんと口さがない者に至っては「魔族を勢い付かせるきっかけになった」と文句を言っていたほどである。
最初の犠牲者は村はずれで花を摘んで遊んでいた少女たちだった。
突如現れた魔族は、そのうちの一人を瞬く間に引き裂いたと伝えられている。目の前で友だちを惨殺された少女たちの悲痛な叫び声は村中に響き渡ったという。
もしも彼女たちが声を上げていなければ、村人たちは何もできないまま何も分からないままに滅ぼされていたかもしれない。そして魔族の侵攻は間違いなく早まっていたことだろう。
ビングレーはその連作絵画『名もなき抵抗』の一枚目としてこのシーンを描いており、そこには一人の少女しか登場していない。が、村の規模やその広さから実際には少なくとも三名以上の少女たちが同時に叫んだのではないかというのが学者たちの共通意見である。
『半鐘の悲鳴』となったそれを聞いた村人たちは、農具を手に取り魔族との戦いに赴いた。
地方領のそのまた外れに位置する寒村であり、自分たちの身は自分たちで守るという意識が根付いていたためである。結果として、魔族の襲来を知らしめる時間が稼がれた半面、領主への報告に向かった一人を除く村人全員が命を落とすという悲劇に繋がることとなってしまう。
滅亡したミトス村の有様は、凄惨の一言に尽きたという。
数日後、唯一の生き残りとなった報告者を道案内役として調査に訪れた一団が目にしたのは、まさに絶望だった。家屋をはじめ建物は柱の一本すら残さぬほどに破壊し尽くさており、麦、野菜を問わず畑は全て焼かれていた。
そして村の入り口には、燃えて判別のつかなくなった大小様々な人型がいくつも並べられていたとされている。
変わり果てた村の跡地に我が物顔で居座っていた魔族たちは、調査団を発見すると同時に襲い掛かってきた。その数は五十だったとも百だったとも言われている。
いずれにせよわずか十数名でしかなかった調査団に対抗できるはずもない。即座に撤退を決めたが魔族の追撃は激しく、逃げ切るまでの間に約半数が犠牲になったと言われている。
その中にはミトス村唯一の生き残りだった男も含まれているのだが、制止の言葉を振り切って怒りの感情に任せて突撃していったとか、逃げ切れないと悟って自ら囮になったなど諸説が入り乱れており、真偽のほどは不明である。
また、辛くも追撃を逃れた者たちに向かって『我らは魔族。お前たちを滅ぼす者だ』と叫んだとされているが、こちらは後世の吟遊詩人による創作であろう。
なぜなら、半壊した調査団の報告を受けた領主は即座に自らの手には負えないと判断し、メッサー国王へと救援の要請を行っているのだが、その際の文書には「狡猾で集団戦闘を行えるだけの知性を持つ新種の魔物」と明記されていたためである。
ミトス村襲撃事件は旅芸人や吟遊詩人、行商人たちによって国を超えて拡散されていくことになるのだが、この時点ではまだ魔族ではなく正体不明の魔物とされていた。隣国ボウコの首都でその話を聞いた商人が、知人の安否を確かめるために書いた手紙にも同じように記されている。
さて、では魔族の存在はいつ明らかになったのか?最も有力なのはミトス村の襲撃から一カ月ほど後の「キョンヘ平原の戦い」である。先頭に立っていた魔王がその名乗りを上げたとされている。
メッサ―側は国軍三千に加えて虎の子の魔導機までもを出撃させて万全の態勢で臨んだつもりだったのだが、先述の通り魔動機を超える大きさの魔王に圧倒され、惨敗を期すこととなる。
メッサ―側の調査不足や慢心が指摘されることが多いキョンヘ平原の戦いだが、魔族側の動きにも不可解な点が見受けられる。
再度の侵略まで一カ月も期間が開いたのはなぜなのか?
そして、どうして魔王自らが先頭に立っていたのか?
この戦いの後メッサー王国はわずか半年で滅亡することとなるのだが、いくら倒されても魔族が怯むことはなく侵略は間断なく続けられている。
その一方で王都が陥落する時ですら魔王が現れることはなかったのである。次に魔王が戦場に姿を現すのはメッサー滅亡から二か月後の『魔王大戦』となる。
その理由として、異端の歴史学者ギリリスは「ミトス村の襲撃において、魔族は想定以上の被害を受けたため」だと提唱している。
そのため「魔族側は侵攻軍の再編成に時間を取られ、魔王自らが先頭に立って戦うことで士気を高める必要があった」というのである。
一見辻褄が合うように思われるこの説だが、魔族に大打撃を与えるだけの戦力が辺境の村にあったというのは考え辛い話である。復興の途上でも魔導機はおろか魔動機の部品や破片すら発見されていない。
魔族によって徹底的に破壊されていたためミトス村での戦いの様子を物語るものは何もなく、謎は深まるばかりである。
現在のミトス市、その中心にある公園には慰霊の碑が建立されているのだが、ここにはこう刻まれている。
『始まりの抗者となった勇敢なるミトス村の人々の魂が安らかなる休息を得ることを切に願う』