5:事故敷地――これまでの曰く その弐『ワンルーム』(1/2)
【文字数】5323字 【推定読了時間】約11分
以下に書き起こすのは、ある怪談師が深夜のラジオ放送にて語った“実話怪談”である。
『このお話をしてくださったのは、二十代後半の、会社員の男性です。
彼を仮に、Kさんとします。
つい数年前に事故物件に住んだことがあって、そこで不思議な体験をしたから聞いてほしい……。そう言って、Kさんは話しはじめました。
この部屋があるのは……詳しい場所は伏せますが、○○県の都市部にある大きなワンルームマンションです。
Kさんが賃貸の仲介業者からこの部屋を紹介されたとき、事故物件だとか、心理的瑕疵だとか、そういう話はまったく出なかったそうです。
内見に行ってみるとベランダに接したガラス戸から日光が入っていて、部屋全体がパーっと明るく照らされていて、Kさんも不気味な感じはしなかったと言っていました。
築年数はかなり経っていたので建物は古かったのですが、その分この土地にしては家賃が安い……。前の住人が出て行ってすぐの内見だったから部屋には汚れたところもあったけど、まぁ清掃が入ればもうすこしまともになるだろう。なにより仕事が忙しい、寝るためだけに帰る部屋なんだから充分だ……。
そう思ってKさんはこの部屋を借りることにしました。
仮契約を結んで数日後、本契約を結ぶために仲介業者の事務所に再度訪ねることになったんですが、……そのとき、すこし気にかかることを言われたそうです。
『もし三ヶ月以上住むのなら最初の三ヶ月分の家賃は不要。ただし三ヶ月以内に出ていくのなら、住んだ期間の家賃と違約金を払ってもらう。』
あまり聞かない話ですから、お得だ、なんていう嬉しさよりも、まず不審に感じました。
それで理由を訊いてみると担当者は、物件の管理会社がそう言ってきただけで理由は知らない、とあっさりと答えたそうです。ラッキーですね、と。
担当者の態度に、こういうことはよくあるのかなと思ってKさんは部屋を借りることにした……んですが、……。
住みはじめてすぐに、やはりところどころ汚いのが目につきました。内見したときと様子が変わっていないような……。とにかく管理や清掃が杜撰に感じた。とくに浴室は酷いもので、カビはあちこちに残ったまま、排水溝を掃除してみると、長い…おそらくは女性の髪が出てきたんです。
まともな清掃業者を入れなかったのか…、それをケチって、だから家賃を浮かせたのか……そう、Kさんは納得したそうです。
いま思えば、夜にこの部屋に帰ってくるたびに感じる、……空気が重いような、蛍光灯がついているのに明るくなりきらないような、言いようのない違和感から気をそらすためにそんなふうに結論づけるしかなかったんでしょう……と、Kさんは言っていました。
そうやって気をそらしていたのを後悔することになった、……と。
Kさんがここで暮らしはじめて半年が経とうという冬の、ある夜のことです。
その日も夜の遅い時間に帰宅したKさんは、食事をし風呂に入って、というような生活の色々を済ませてしまうと、ベッドに入ってすぐに、それこそ沈み込むようにすとんと眠りに落ちました。
ですが数時間もしないうちに、妙な起き方をしたんだそうです。
バサバサッという音が、頭のすぐ横で聞こえた……。
Kさんはそのとき仰向けに眠っていて、そうすると頭の真上に壁があって、右側にはベランダがあって行き来する都合なにも置いていませんでしたが、ベッドの左側には壁に接して……つまり頭のすぐ左側に棚を置いていました。
左の棚の上からなにか落ちてきたんだな……。Kさんは起き抜けの、まだはっきりしない頭でそう直感していました。
ですがもちろん、この部屋にはKさんのほかに誰もいません。誰かが落としたわけではない。……なら、どうして?
まぁ…棚の上には物を山積みにしていたから……。ファイルとか雑誌とか、ゲームセンターで取ったはいいが置き場所に困った小振りのぬいぐるみなんかをなおざりに積み重ねていた。だから不安定になっていて、ちょっとした振動で崩れることもあるだろう……。
そう納得してしまうと、明日片づければいいんだからと瞼を開ける気にはなりませんでした。眠気が勝ったんです。それにもし目を開けて、棚から物を落としたなにかを目撃でもしてしまったら……という考えが、さっと頭によぎったのもありました。
努めて考えを振り払って、完全に目覚めてしまう前にまた寝てしまおうとしたんですが、……今度は逆のほう、右側、すぐそこから音が聞こえた。
ミシミシミシミシミシ――と軋むような音と、スーーーとこするような音が重なって聞こえたんです。
反射的にそちらを向いて、見てしまった。
ベッドの右側、ベランダを隔てたガラス戸にはカーテンがかかっていて、街明かりに照らされてぼんやりと光って部屋を仄明るく照らしていました。だから、そのカーテンを背景にしていたから、はっきり見えたんです。
人影でした。
それが壁に凭れる格好で下に落ちていく。
視界に入っていたのは一瞬のことで、すぐにベッドの縁の、その下へと落ちていって見えなくなりました。
……なんだいまのは……!
Kさんはゾッとしました。
身動きがとれなかった。
ただ、たったいま見た光景が残像のように視界に貼りついていて、……肩の細さや髪の長さからしてそれが女だとわかったんですが、でも、……いやに首が長い。細身の割に顔が膨れたように、丸く大きい。
落ちていく様も、これがまた奇妙な動きでした。まるで真下へと、ゆっくり落下しているような……まるで床がないような……。
呆然としたままKさんは無意識に、いま見たモノの正体を探るでもするように、一連の出来事を何度も何度も思い返していたそうです。
部屋の仄暗い色合い、女の黒いシルエット、その動き、スーーーという音、ミシミシミシという音……。
このときふと、なにもかも思い出したんです。
……Kさんはそう言ってから、口早にこう続けました。
こんな夢を、数週間おきに、この半年間、何度も見ていたんです。
あの、ミシミシミシミシミシ――、という音。
壁に強い圧力をかけるような音。
この音を聞いたあと、いつも必ずハッと目を覚ましていました。
最初に聞こえたときは隣の部屋からだと思いました。それほどささやかな音でした。夢なのか、夢に紛れ込んだ現実の音なのか、判断できないくらいの……。でもそれがだんだん、鳴るたびにはっきり聞こえるようになっていったんです。これがもし現実に鳴っている音なら…妙な家鳴りだな、温度の変化で、ミシ、…ミシ、くらいに鳴ることはあっても、こうも連続して鳴るものだろうか、そう…家鳴りに違いないんだろうが……くらいに思っていました。
それである日……明るい朝でした。なんでもないふうを装って、壁に手をついてみたんです。そうして体重をかけてみた。それから肩をぐっと押しつけてみて、結局……音はならなかったんです。当然ですよね。ここは木造じゃない。鉄筋コンクリート造りなんですから。壁が軋むなんてそもそもありえなかったんです。
だから夢だと思うことにしたんです。だってもし現実だったら……嫌でしょう?
夢なんだからほっておいてもいい、いつかこんな夢見なくなるだろう……と思っていましたが、むしろ、音はだんだん大きくなっていきました。
……近くなってきた。
だんだん、なにかが、……その気配が、近づいてきていた。
もうただの音ではなかったんです。
なにかの、気配が、たしかにあったんです。
恐ろしくなって同僚に話した記憶もあります。
引っ越そうと悩んで物件紹介サイトで探して、目星も点けていた。
そうだ二時二十分……決まってこの時間に聞こえるから、部屋を明るくして、絶対に眠らないようにしていたのに……。
こういうことすべて、どうして忘れてしまっていたのか…?
なぜその夜、こういう記憶をすっぽり失くしていたんでしょうか……?
これも夢?
ベッドの上でそう、ふと思いつきましたが…本当にそうならどれだけよかったか…ついさっき、…なぜだか棚から物が落ちてきたせいで、すでに起きてしまっている。眠気は完全に吹き飛んでいました。
今晩ついに、あの音は、あと数十センチのところまで来た。とうとうその姿をはっきりと見てしまった。手を伸ばせば届く距離だった。
ですが一方、恐ろしかったがそれで済んだ、ということでもありました。
すくなくとも今夜は済んだんだ。もう大丈夫。今夜はもう安心していい……とKさんは安心する一方、しかし明日以降、どうなってしまうのか……、そういう不安があることにも気づいていました。
これまでにあったことを書きつけておかないと。明日の自分に警告しないといけない。また忘れてしまったら今度こそ危ない……そう考えて、すぐに体を起こそうとしましたが、
……しかし、思うように動かない。
Kさんは焦りながらも、自分の体の状態を確かめようとしました。
まず黒目は動く。
ゆっくりであれば指も握れる。
足も、膝をいくらか曲げて、足掻くように踵を布団にこすることもできる。
ですが肩や首、とくに胸を中心に、びくともしない。
仰向けになっている胸を、強い力で圧迫されているようでした。
その胸へだしぬけに、なにかが、ボトリ、と落ちてきた。
そしてもぞもぞと蠢いている。
肺は縮こまり、空気をうまく吸いこめないから呼吸は浅くなりました。
心臓は激しく拍動し、鼓膜にうるさかった。
苦しい。
……まずい。
全身に力を入れて逃れようとしますが、動けない。
一方それは…その小さななにかは、もぞもぞと這って進んでいる。
ゆっくりと、しかしたしかに、顔へと近づいている……。
恐怖で、ほとんどパニックに陥っていて、考えることもままならず、目を閉じることもできませんでした。
分厚い羽毛布団は顎までかかっていて、その際だけを見ていた。
そこからそれがやってくるのは予想できていながら、目を大きく見開いて、黒目だけを下にやって、視線を外すことはできなかった。
そしてとうとう、ヌ、と姿を現した。
Kさんには最初、その真っ黒い影が、しゃもじに見えたそうです。
でも目が合った。
直感でわかったそうです。
おそらくそれは、本来ならまだ母胎にいるべき、胎児なんだと。
その影が縦ににゅうっと伸びる。
途端、
――ギャアァアァアァアァアァ!!!――
あまりにも小さな、重みのない体が張り裂けんばかりに、Kさんの鼓膜を破るほどの大声で叫びはじめました。
なにかしら不調があって母親を呼ぶのに泣く以外に方法を知らない、というような、おぎゃあおぎゃあだとかいう可愛いものではありませんでした。
断末魔でした。
老若男女の区別さえつかないような、濁声の、最期の悲鳴。
「やめろォ!」
Kさんは叫んでいました。
次にKさんが気づいたのはもう夜明けに近い時間…。カーテン越しに入る光は明るさを増していて、部屋にもう異変はありませんでした。
翌日からKさんはホテル暮らしをはじめ、この部屋はすぐに引き払ったそうです。
Kさんからこの話を聞いたあと、私はこの部屋のことを調べてみました。
すでに有名な事故物件だったようで、ネットには様々な情報が錯綜していました。
共通しているのはその部屋に現れるのは大方が赤ん坊で、ときに女の姿を見る者もいる、ということ。
ですが実際この部屋で亡くなったのは、若い男なんです。
その男が身籠った恋人を無下にした…、だから女は自殺して、生まれることのなかった赤ん坊が恨みを晴らすためにその部屋を訪れ、そしてそのまま住み着いてしまった……という噂がもっぱらですが、真偽を確かめることはできませんでした。
実際にそのマンションを見にいってみました。
歓楽街とオフィス街と住宅地の境の、それらが完全には分かれきらずに混在しているようなところで、行ったのは平日の深夜の、二時から三時くらいだったんですが、あたりは充分に明るく、人も車も往来は絶えませんでした。
向かいのコンビニの駐車場からマンションを見上げて部屋を探してみると、カーテンがかかっているのが見えました。
いまも誰かが住んでいるんです。
きっと事故物件だとは知らされずに、あるいはKさんのように恐ろしい体験をしていながら、その記憶を失って、いまも誰かが住んでいる……。
もしかしたら今この事故物件に住んでいるのは、あなたかもしれません。』
“実話怪談”と銘打たれて語られることが、すなわち“事実”ではない。そこには体験者と、取材者兼話し手と、受け手という、三者の――介入者が多い場合はそれ以上の――主観が混じる。それだけでも事実から遠いものになるのは明らかだろう。しかしそれを虚偽とは呼ばない。あくまで主観なのだ。そういうものこそが“実話怪談”なのであり、主観が混じりあって生じるものこそが、すなわち、この人間社会の“真実”なのである。
だがこの話のなかで怪談師は、ひとつ、あえて誤解を招く言い方をした。
Kは取材の終わりに、怪談師にスマホの画面を見せてこう言ったのだ。
「ほら、この部屋ですよ。この動画見て、初めて自分が事故物件に住んでたって知ったんです。この子オレのあとに越してきたみたいだけど、大丈夫かなぁ?」
と、いうわけで、『――今この事故物件に住んでいるのは、あなた――』ではない。
Aだ。