令嬢の秘密
「マオ。君との婚約を破棄することになった」
一週間ぶりとなる殿下との逢瀬。今の今まで浮かれ気分だった私は、その言葉を聞いて、頭を思い切り殴られたような気分になった。彼は痺れるほどに澄んだ声で、あくまで穏やかに私を突き放す。お父様やお母様になんと報告すればいいのだろう。
「そんな、で……殿下。私のことを、お嫌いになられたのですか?」
私は息も絶え絶えになりながら尋ねる。殿下の美しいお顔も、今は溢れる涙で滲んでしまっている。お庭でお茶をいただいたことや、舞踏会で私をダンスのお相手に選んでくださったこと。そんな殿下との日々は私にとってかけがえのない思い出。だというのに、殿下にとってはそうではなかったらしい。体に力が入らなくなって、その場にへたり込んだ。
「どうか泣かないで聞いてくれ、マオ。君のことは愛しているとも。だからこそだ」
愛しているのに婚約を破棄する? 殿下の言葉の意味がわからない。お優しい殿下のこと、私を気づかって本音を隠しているのは明らかだ。
「でしたら……せめて、せめて理由をお尋ねしても……?」
私は殿下の足元に縋りついた。殿下は私ごときのために膝を折り、耳元で囁く。それが愛ならばどんなに良かっただろう。告げられたのは、残酷な現実だった。
「俺は君の秘密、ついていた嘘を……知ってしまった」
「まさか……!」
心臓が飛び出しそうになった。もはや、息をするのも忘れていた。私には、他の誰にも秘密にしていることがある。生涯、絶対に隠し通さなければならない、私の一番柔らかいところ。万が一、本当にそれがバレたのであれば……。
「だから……君との婚約も今日限りだ」
めまいがする。吐きそうだ。そんな最悪のコンディションの中、かろうじて思い当たった出来事がある。
あれは、一週間前のことだ。
――――
「殿下は本当に猫がお好きなのですね」
今日は殿下が私の屋敷においでになっていた。政務中は凛々しいお顔も今だけは蕩けさせて、猫たちにおやつを食べさせている。隣で見ている私は、なんだか微笑ましくて頬を緩ませたまま話しかけた。
「そうだね。諸侯たちも下らない権力争いなどやめて、猫を飼えばいいのに。この子らの魅力を知れば、たちまちこの国は平和になるだろうな」
「おっしゃる通りですわ、殿下」
殿下の空いた手が、食事を終えた猫の頭に触れる。猫の方も気持ちよさそうに喉を鳴らし、もっと撫でろとねだるように殿下の手を頭で押し返していた。
「ずいぶん甘え上手だ」
「この子たちも寂しいのかもしれません」
無意識にそう言った直後、殿下の表情が曇った。私はしまったと思い、慌てて口をつぐむ。
「申し訳ありません、殿下」
「謝るのはこちらだ、マオ。俺が無神経だった」
「そのようなことは……」
私が身をすくめていると、殿下は立ち上がってこちらへ歩み寄り、私のことを力強く抱き寄せてくださった。
「で、殿下っ?」
「この子たち"も"と、マオはそう言っただろう? 俺にできることは、このくらいだから」
「も、勿体ないお言葉です……」
そうして殿下は、私の頭も撫でてくださった。
「マオは可愛いね」
私の大切な人は、いつもこうして私の頭を撫でてくれる。父上にしても、殿下にしても。私はそう思いながら、目を閉じて殿下の手のぬくもりを感じていた。ずっとこうしていられたらどんなにいいだろう。決して叶わないと知りながら、私はそう願わずにはいられなかった。むしろ、私の方が恩返しをするために秘密を抱えてでも近づいたというのに。
その夜。殿下がお帰りになってからしばらく後のこと。
「お父様、お母様……私は、もうすぐ殿下と結婚します」
私は一人、絵画の前で呟いた。立派な額に入れられた大きなそれには、両親と私が三人で笑っている。お父様の足元には、小さくあくびをする猫も描き込まれていた。殿下も猫好きで、よくこの屋敷に遊びに来ていた。私と知り合ったのは必然で、大げさに言えば運命とも呼べるかもしれない。
「旦那様も奥様もきっと、天国でお喜びになっておられますよ」
後ろには、いつの間にかメイドが立っていた。私は絵画を見上げたまま、不安を口にする。
「そうだといいのだけれど……」
「まだ、血縁がないことを気にされているのですか? それとも、治癒の魔法が間に合わなかったことを?」
彼女の問いはどちらも正解で、だけど少しだけ足りない。
「養子にしてくれたことは感謝してる。でも、二人とも私が恩を返す前に死んでしまって……なんだか、私が男爵家を乗っ取ったみたいじゃない」
メイドがドアを開けっ放しにしたのか、私の足元には猫が集まってきていた。
「貴族連中の間でそういう声があることは否定しません。ですが、お二人は家の事よりも、お嬢様の幸せを第一に願っておりました」
「私、幸せよ。お父様にも、お母様にも、それだけは胸を張って言えるわ」
「家を存続させようという考えも薄い人でした。マオ様が現れなければ、旦那様はただの猫好き男爵として末代まで語り継がれたでしょう」
好き勝手に言うメイドだが、確信をついてはいる。
「……そうね」
「夜は冷えます。そろそろ部屋にお戻りください」
廊下を歩いていると、玄関の方が騒がしいことに気づく。
「夜分に失礼いたします! マオ様はいらっしゃいますか!?」
突然の訪問だった。声から察するに、その男は殿下の付け人の一人のようだ。よほど急いで来たのか、肩で息をしながらドアを叩いている。
「緊急事態なのです! このままでは殿下の命が危ない。急ぎマオ様に取次ぎをお願いしたい」
殿下の身に何かあったのだろうか。私は慌てて階段を降り、玄関に向かった。
「どうかしたのですか?」
「ああ、マオ様! 殿下が事故で重傷を負ってしまい、治癒をお願いしたく……」
「わかりました。殿下はどちらに?」
「今、こちらに向かわせております。もうすぐ着く頃合いかと」
その言葉の通り、ほどなくして殿下が運ばれてきた。ひどい傷で体力の低下も激しい。日中に見た凛々しいお顔は苦しそうに歪んでいて、血の気がなく真っ青だった。
「すぐに部屋へ運んで」
私は人よりも上手に治癒の魔法が使える。だからこそ殿下に見初められたともいえる。そして、殿下を死なせてしまえば、もはや私に価値がなくなってしまうようにも思えた。
「お父様、お母様。見ていてください」
傷は思ったよりも大きかった。運ばれてきた殿下はすでに意識がなく、真っ青な顔をしている。全ての魔力を使っても、治癒しきれるかどうか。覚悟を決めなければ。
「これだけの傷、治癒にはかなりの集中力が必要です。私が良いというまで部屋には誰も近づけないことを約束してください」
メイドや殿下の付け人に念押しをして、なかば強引に同意を得る。私は深呼吸をして治癒に取りかかった。
「絶対に助けます。殿下」
傷口に魔力を注ぐ。こちらの内臓がひっくり返るかと思うほど、私の魔力はみるみる奪われていった。それでも殿下の命をつなぎとめるには足りない。
「これ以上魔力を使ったら……」
魔力を使い果たしてしまったら、私の秘密がバレるかもしれない。それでも、やるしかない。そのために人払いをしたのだ。
「はあぁっ!」
体を維持できない。耳が頭の先から顔を出す。尻尾がネグリジェの下でもそもそと居心地悪そうにしている。そんなすべてを無視して、治癒に全力を注いだ。
頭に優しいぬくもりを感じて目を覚ますと、朝になっていた。殿下の手が私の頭に乗っている。どうやら、私は力を使い果たして、殿下のお腹の上で眠ってしまったようだ。殿下の傷はすっかり塞がっている。ほっと一安心している間に、殿下が小さく呻いた。
「にゃっ!?」
私は驚いて小さい悲鳴を上げた。今、目を覚まされるのは非常にまずい。幸い魔力が少し回復していたので、爪を立てないようにそっと殿下から降りて、私は慌てて元の姿に戻った。
「あれ、マオ……」
「おはようございます、殿下。良い朝ですね」
目を覚ました殿下に、私は淡々と挨拶をする。まるで何事もなかったかのように。けれど、本当は声を聞けることがとても嬉しかった。
「俺……どうしたんだっけ」
殿下は上体を起こしながら質問をする。彼の痺れるような甘い声は、寝起きで少しだけかすれていた。それもまた愛おしくて、でもそんなことは言えなくて。
「ここは私の屋敷ですよ。ゆうべ事故に遭ったとか。ひどい傷で運ばれてきたんです」
「君が助けてくれたんだね。ありがとう、マオ」
感謝の言葉で私は顔が熱くなってしまい、立ち上がってそっぽを向いた。
「別に、婚約者ですから……当然です」
「そうか」
殿下はふふっと笑い、それだけ言うと、また仰向けに寝転がった。
「ところで殿下。その……見ましたか?」
「何を?」
横目でちらと見たが、殿下はきょとんとした顔で目を丸くしている。私は安堵してそのままドアの方へと向かった。
「いえ、見てないならいいんです。私、殿下の無事を皆に伝えてきますね」
――――
きっとあの時だ。殿下は気付かないふりをしたけれど、あの日以来、私に隠れて婚約破棄の段取りを進めていたのだ。
「――マオ? 話は最後まで聞いてくれ」
「うぐっ……えぐっ……」
「婚約は破棄する。その代わりと言ってはなんだが……ウチに来ないか?」
「……え?」
もう何が何だかわからない。でも、こんな私にも少しばかり希望があるらしい。混乱した頭のまま、殿下を見やる。
「君の正体を知った以上は、そのまま結婚するわけにはいかないだろう。だから、人としてではなく、君本来の姿で俺と暮らさないか?」
「どうして……?」
「マオを愛しているから。そう言っただろう?」
それから数年が経った。殿下は王位を次いで陛下となり、玉座で訪れた者と謁見をしている。彼の隣に座るのは私ではない。私なんかよりもよっぽど美しい女性が王妃となった。けれど、私は今の生活にとても満足している。
「ありがとうございました、陛下」
来訪者が頭を下げ、謁見の間を出ていった。陛下は一息つくと、私の頭を愛おしげに撫でてくれた。隣よりもずっと近く。私は今日も、陛下の膝の上で喉を鳴らしている。
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