はるねえ
「ナツちゃん!」
メールで呼び出された橋のうえ、笑顔で大きく手を振っている、小柄で細身の、短髪の女。ショートパンツに、白に英語のロゴが入ったTシャツ。その上に、夏だというのに長袖の上着をはおって。
「はるねえ」
菜月は、めずらしく甘えたような声をだして、かけよっていく。今日はさすがに、半袖。スカートはいつもどおり長いが、薄い、やわらかい生地のもの。眼鏡のまわりに、じんわりと汗がにじんでいる。
古いかけ橋は細く、人がすれ違えば袖が触れるほど。しぜん、距離は近くなる。それなのに、立ち止まった菜月にさらに一歩、近づいて、遥はわらった。
菜月は一瞬、気圧されたように目をしばたいてから、笑いかえした。
「おかえり!」
「ただいま」
遥がにいっと笑うと、奥歯まではっきり見える。鼻は低く、まつげがやけに長い。けして美人ではないが、菜月はその笑顔が好きだった。
「ずっといるの?」
「まさか。でも、一週間くらいは暇だから。」
「そうなの? じゃ、今週いっぱいはいられるんだ。やったあ」
へへ、と屈託なく笑って、菜月は錆びた欄干に手をかけた。なんとなく遥の顔から目をそらして、川のほうを見る。蝉の音。川の流れる音。一瞬だけ耳をかたむけて、それから、すっと息をこめて。
「……はるねえ、じつはあたしさあ、」
いいかける。
「ちょっと、下に降りてみようか。」
遥は遮るようにそういって、歩きだした。橋のたもとから、河原へ降りられるようになっている。
川は比較的浅く、夏になると、近所の子どもがよく水遊びをしに来る。今はまだ6月の初めなので、誰もいないが。7、8年ほど前は、年長の遥につれられて、菜月と妹、ときには幼い美羽も一緒に、よく川遊びにきていた。
「さっすが、こっちは涼しいねえ! 橋の上はもう、暑くって。」
そういいながら、上着は脱ごうとしない。ふらふらと、河ぎしの岩のうえをわざわざ選ぶように歩いて、手で顔をあおいでいる。
「……はるねえ、ちょっと聞きたいんだけど。」
「ん、なあに?」
あのさ、とひと呼吸おいて、菜月は切り出した。
「あたしの持ってる、ダースっていうぬいぐるみ、覚えてる? あれさ、」
「おぼえてる! 懐かしいなァ。……まだ、持ってるよ。」
「え?」
噛み合わない。菜月は眉をひそめて、遥の顔をじっと見た。遥は、川ぎしの岩に腰かけて、サンダルの足を水で濡らしながら、
「あとで、私の家にきなよ。ゆっくり話そう」
「うん……、」
菜月は釈然としないまま、遥のとなりに座った。灰色のスカートの裾をまくり、スニーカーと白い靴下を脱いで、同じように水につけてみる。冷たい。ひんやりと、心臓が冷えるようだ。
つまさきに、蟹の鋏が触れた。
「……ナツちゃん、ねえ、」
ふいに、遥がいった。菜月はおどろいて、顔をあげた。
「なにか、あったの?」
しずかな、やさしい声で。
「はるねえ、」
菜月は、ちいさくその名をよんで、
ぽろぽろと、涙をこぼして、泣いた。
嗚呼、ここにいたのだ。




