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【江戸時代小説/仇討ち編】

【江戸時代小説/仇討ち編】背紋の刀創

作者: 穂高

 あるところに、剣之(けんの)(すけ)という若侍がいた。

 彼は次期将軍候補、(わか)富士(ふじ)の剣術指南役を(おお)せつかっており、ふたりは日夜稽古に(いそ)しんでいた。

「遠慮なくぶつかって参られよ、若富士殿」

 剣之助が若富士の前に仁王立ちになる。

 剣之助の(まなこ)の鋭さに殿はごくりと生唾(なまつば)を飲み込んだ。

「ゆくしかあるまいて!」

 若富士は大きく声を上げ、覚悟を持って床を蹴った。

 しかしあえなくその振りはかわされ、それどころか、剣之助は、刀の柄頭(つかがしら)にあたる部分を殿の武道着の背紋に向けトンと軽く当ててみせた。

 殿の額に冷や汗が流れる。

 背後を取られたということは若富士殿にとって死を意味する。白刃(しらは)ならばその体は真っ二つであったろう。それだけ剣之助の腕はその道に秀でているのだ。

「み……見事な身のかわし……」

 あまりのあっけなさに、そして剣術の腕の力の差に若富士はその場にへたり込んだ。

「恐れ多き言葉にて。しばし休憩にいたしましょう」

 剣之助も木刀を脇に置くと、手拭いで額に流れる汗をぬぐった。

 *

 事件は、三月のある日の未明に起こった。

 剣之助が身に覚えのないことで牢に入れられたのである。

「これはなにかの間違いだ。その時刻、その場所に拙者(せっしゃ)は行っておらぬ」

 剣之助は町奉行の石川(いしかわ)高佐(たかざ)衛門(えもん)業平(なりひら)にそう(うった)えた。

「そうは申すが、目撃者がおる」

「いったい誰が」

「軽々しくはとても申せぬ名前の相手よ」

 このとき剣之助はなにやら不穏な気配をその身に感じた。

「もしや……」

 思い当たったのは、いくら次期将軍候補の剣術指南役といえども、容易には口にできぬ官位の相手であった。

 *

 将軍候補にはふたりの少年がいた。ひとりは現将軍の正妻、()(ふじ)御前(ごぜん)の独り子、若富士。何事もなければ彼が次期将軍であったのだが、母親である美藤御前が病弱で、(やまい)に伏せることも多かった。

 そして、若富士が二歳になる頃、美藤御前がとうとう亡くなると、その日を境に将軍家は一変する。

 将軍の正妻という後ろ盾を失った若富士の前に、側妻(そばめ)(側室)の一人が産んだとされる(だん)藤丸(どうまる)が立ちはだかったのだ。

 また、團藤丸には驚異的な補佐役がついていた。大奥総取締役の陽々(ひよう)御前(ごぜん)である。

 陽々御前は将軍の正妻であった美藤御前と仲が悪く、美藤御前が亡くなるこのときを待っていたかのように将軍に詰め寄ると、裏で手を回し、團藤丸の実母を押し退け自分が團藤丸の母親に成り代わった。陽々御前は團藤丸を次期将軍の座に()かせ、裏で(まつりごと)(政治)を操ろうと目論(もくろ)んでいるである。

 *

 陽々御前は呟いた。

「なかなか難儀(なんぎ)(面倒)じゃの」

「しかし事は順調に進んでおります(ゆえ)、ご安心くだされ」

 今や権力は若富士を支持する正統派と團藤丸を押し上げる下剋上派の二つに分かれていた。それは将軍家内部も例外ではなかった。

「将軍家剣術指南役が次期将軍候補に狼藉(ろうぜき)を働いたと知れ渡っては、取り返しがつくまいて」

 陽々御前は不敵な笑みを浮かべた。

()富士(やつ)の泣き顔を、(はよ)(わらわ)に見せるのじゃ。(あざけ)りや笑ってから、とどめを刺してやるからのぉ」

 *

 剣之助が牢に入れられてから、数日が経った。

 未だ犯人扱い。

 若富士からは音沙汰なく、ただ時間だけが過ぎていった。

「罪状を言い渡す」

 ついにそのときが来た。

 剣之助はやってもいないことで死罪を言い渡された。

 誰も味方してはくれなかった。だが、不思議と誰も恨んではいなかった。これが運命だと受け入れていたのである。

「なにか言い残すことはあるか」

「では——……」

 *

「うちにいた元剣術指南役の罪人ですがね、処刑される直前、悔い改めたそうですよ。“すまぬ”と、それだけ言葉を残して」

「なにっ」

 その言葉の意味、若富士にだけはわかった。おそらく理解できるのは若富士だけである。

 なぜならば約束していたからだ。生前の剣之助と。

 *

「エイッ——ヤッ!」

 活気にあふれた城下町の道場で、一人の青年が木刀を振り、一心に剣術の稽古に打ち込んでいるのを若富士は隠れて見た。

 人間(ひと)が眩しく見えたのは初めてだった。

「城を抜け出してきたのは正解だったな……こんなにも……」

 こんなにも心躍る光景があったのだから——……。

「なに奴」

 青年が大きく振りかぶったと思えば、次の瞬間にはその切っ先が若富士の(のど)元にあった。

「は、早い……」

 青年は木刀を肩に担ぐと若富士を見下ろした。

「なにかと思えば、小童(こわっぱ)ではないか。危うく咽喉(いんこう)を突くところだったぞ」

 青年は(あき)れたようにそういうとまた稽古に戻ってゆく。

「あっ、そなたの名は——」

 青年は再び木刀を振り始める。

「人様に名を(たず)ねるときは、まず自分から名乗るものだ」

 青年が最もなことを言ったので、若富士は我に返ったように、青年の鍛錬の声に負けないくらい大声で名乗った。

「わたしは次期将軍、若富士! そなたに惚れ申した!」

 若富士は純粋な好意を青年にぶつけたが、青年はよほど驚いたのか、青年の両手から木刀がすり抜け、若富士に向かって飛んだ。

 一瞬、身を(こわ)ばらせ、まぶたを閉じた若富士が次に見たのは、己を(かば)うようにして立つ青年の姿だった。

 その青年の額が切れているのを見て、若富士は言葉を失った。血を見るのは珍しかったからである。

 だが、青年の顔は別の意味で血の気を失っていた。

「……次期、将軍……だと……」

 青年は額の痛みなど感じぬかのように、すぐさまその場に土下座した。

「も、申し訳ありませぬっ!」

 青年は額が床についてしまうほど頭を下げた。見ると、手は震えている。

「そなたの、名前を教えてほしい」

 若富士がそう言うと青年の肩がびくっと震えた。

「処すのではない。知りたいだけだ」

沖津(おきつ)藩勘定方(かんじょうがた)(いち)ノ(の)(みや)常之(じょうの)(すけ)が次男、一ノ宮剣之助でござります」

「ふむ。剣之助とやら、先の剣術、しかと見た。素晴らしく洗練された動きでござった」

「もったいなきお言葉。恐れ入りまする」

「そなたに専属の剣術指南役を頼みたい!」

「とんでもござりませぬ。わたくしめがそのような——……」

「では、致し方あるまい。先の無礼、その両腕と引き換えに——」

「お待ちくだされっ! 腕は侍の命。刀を握れずなにが武士か、父の名誉だけでなく家名まで汚れてしまいまする。それだけは、どうか……」

「ならぬ。できぬことではあるまい。引き受けるか否かじゃ」

 断れぬと悟った剣之助に、もはや選択の余地はなかったのだ。

「ならば、わたしから一本……一本でも取ってみせられませい。目隠しをしたわたしから一本でも取れた(あかつき)には、この命、死ぬまであなたさまだけに(おん)御仕(おつか)え申し上げまする」

 剣之助はその小さき御身に、御家とこの国を背負わるるのであらば、その覚悟と強さ、しかと己が目で見てみたかった。

 これが剣之助と若富士の最初の交わりであった——……。

 *

 一方、若富士の御部屋。

 剣之助が己の手の届かぬところで処されたことを聞いた若富士は、裏で糸を引く人物が誰か見当はついていた。その夜からある策を練り動き出すことにした。

(べに)(まる)

 紅丸と呼ばれた忍びが殿の脇に控える。

「ここに」

「すぐさま、かの者を呼べ。ここへ連れて(まい)るのじゃ」

「ハッ」

 四半刻(しはんとき)(約三十分)も経たぬうちに柳生新陰流の師範である男が若富士の前に連れてこられた。

 緒方松(まつ)ノ(の)(じょう)一門(いちもん)、彼もまた剣の腕前は軒並み秀でていた。

「よくぞ参った。面を上げよ」

 若富士と緒方はこのときが初の対面であったが、若富士は彼に胸に秘めたただひとつの願いを(たく)すことを考えていた。

 緒方(おがた)を選んだわけは、この流派が今は亡き剣之助が継いだ新陰流の流れをくんでいるからである。

 柳生新陰流は侍でありながら忍びの役割をしていた。師範ともなると刀の技力が一流で、その切先は風をも切り裂き、雀蜂の針よりも鋭く、気配を悟るとき、すなわち死である。

「そなたに頼みがある」

 若富士は事件の経緯を事の起こりから話し、最後に己の内に秘めた思いを吐き出した。

「わたしは悔しくてならんのだ。剣之()()はいい男だった。惜しいことをした。わたしが護ってやるべき者を死なせてしまった……なればこそ、(かたき)を討ちたいのだ」

 仇討ちは本来、子が親や家臣が殿様など下の者が上の者を討つものであり、上の者が下の者を討つことは“上意討ち”という形でしか認められていない。

 上意討ちとは、主君に命じられて罪人を討つことであるが、緒方が若富士に仕えているわけではない今回の場合、それとはいえない。

 つまり、この件は秘密裏に事を進めなければならず、しかも見つかれば本人のみならず関わる者すべて死罪ということになる。

 緒方はおいそれとは出せぬ答えに戸惑ったが、仮にも次期将軍の願いとあらば首を縦に振るしかない。

 緒方は自分がこの場に呼びつけられたと聞いた際にすぐさまそんな気がしていた。

 今は亡き剣之助とは剣に通じるもの同士、親しい仲であったし、彼の性格からしてあのような事件を起こすとは考えられなかった。そのため、誰かもしくはどこかの組織の陰謀と(はな)から疑ってかかっていたのである。

 また、いかに平和な時代とはいえ、跡目争いでのいざこざにおいて、潰し合いになることは珍しいものではなかった。

 緒方は殿の次の言葉を待った。

「わたしにそなたほどの剣の腕があれば自らゆくものを……」

 若富士はそう嘆くと、その頬に涙を流した。それは人前で見せる初めての涙であった。

 *

「緒方、()の腕を以て、次の新月に、陽々御前を討て」

 緒方はたじろがない。そればかりか、こうなることも、わかりきったことと心得ていた。

(めい)はわが命に代えましても必ずや遂げてみせまする」

「うむ。頼んだぞ」

御意(ぎょい)に」

 ()くして、新月の晩の密会は終わったが、若富士の内側はまるで燃えきることを知らない劫火(ごうか)がめらめらと(たぎ)っているままであった。救ってやれなかった剣之助への想い、それだけが若富士を突き動かしているのである。

 *

 夜、新月の夜。それは若富士が待ち望んだ約束の夜であった。

 緒方はこっそりと陽々御前の屋敷に忍び込み、深夜うつらうつらする陽々御前の手下相手に次々と斬り込んだ。

 やがて屋敷が(あわただ)しさに包まれ、物音に起きた陽々御前が姿を見せる。

「なに奴!」

 叫ぶともだれも応えず。陽々御前は緒方が持つ血を含んだ刀に気づいたが時すでに遅し。逃れようとするも、緒方の容赦ない逆袈裟(ぎゃくけさ)を一閃浴び、その場に倒れた。

 陽々御前の寝間(ねま)()には真っ赤な血が飛び散り、明かりのない部屋の中央、華のように広がる寝間着の(すそ)にも陽々御前の体から滴る血の雫が染みる。

 緒方はもはや虫の息で横たわる婦人に最後の言葉を授けた。

「“人を呪わば穴二つ”……」

「莫迦、な……」

 陽々御前の見開かれた瞳には、疑念と悔恨(かいこん)の情とが、まるで底なし井戸のように黒々として映され、(あで)やかな寝間着の、その背紋は真っ二つにされていた——……。


 おわり

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体等とは一切関係ありません。

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