道標
他人を信用できない人がいる。
他人を疑うことを知らない人がいる。
兄は前者。俺は後者。そして世の中の大半の人々は、そのどちらでもないだろう。
市営住宅の一角の、一際古いアパート。俺の家は、右端の鉄骨の階段を上った先にある。
学校から帰った俺はいつものように階段を上り、ドアノブに手をかけた。しかし、扉の向こうから漏れてきた声に思わず手をとめる。
女性の声がした。母さんではない。もっと若い、同年代くらいの女子のようだった。
躊躇ったが、ここは自分の家だ。何も遠慮する必要なない。少しだけ勢いをつけてドアノブを引いた。建て付けの悪い扉はギイィと軋み音を立てた。
「ただいま。……何してるの、兄貴」
三つ歳上で高校三年生の兄、慶人は、入ってすぐの廊下にしゃがんでいた。小学校でアサガオを育てていた鉢植えや数種類の土、何やら緑の葉っぱが覗いている袋などをごちゃごちゃと並べている。
「秀哉、おかえり。そのまま扉開けておいて」
言われた通り扉は開けっ放しにして兄貴の行動を見守る。家庭菜園でもやるつもりか。
「弟さん? お帰りなさい。お邪魔してます」
兄貴の後ろに、兄貴と同じ高山高校の制服を着た女子高生がいた。さっき聞こえた声は、どうやら彼女のもののようだ。胸まである髪を左耳の下で束ね、童顔で俺より頭一つ小さい彼女は、正直同い年くらいに見えた。
「ども。兄貴の彼女ですか?」
尋ねると、兄貴は慌てたようにガバリと顔を上げた。
「違うよ、バカ」
顔を赤くして否定する兄貴。彼女は少しだけ寂しそうな表情で笑っていた。「同じクラスの、川本」と、兄貴は小さく付け足した。
「兄貴が誰か連れてくるなんて珍しいじゃん。初めてじゃないの?」
兄貴はこの家に友達を連れてきたことは一度もなかったはずだ。まぁ、本当にボロくて狭い部屋だから、わざわざうちで遊ぶなんて考えに至らないのが当然だけど。でもそれだけでなく、兄貴は同級生に自分の家を知られるのを怖れていた。貧乏であることを、やけに気にしていた。……いや、そもそも兄貴には、放課後や休日に一緒に遊ぶような友達はいなかったかもしれない。俺は彼が同年代の男子生徒と戯れているところを一度も目にしたことがないのだ。
「買い物に付き合ってもらってたんだよ。俺一人じゃ、よくわからないから」
「へー。……それ何? 何かの苗?」
「トマトだよ。ちゃんと育てば、六月から七月には実がなるはずだよ」
俺の質問に答えたのは川本さんだった。彼女は袋の中を覗き、苗の葉を愛おしげに指で撫でている。
「本当は、花を買いたかったんだけど……」
兄貴は言葉を切ると、奥の部屋にちらりと視線を送った。
「でも、食べられる方がお得かなと思って。トマトだって、花をつけることに変わりはないし」
扉を開け放した玄関先で、兄貴と川本さんは土や肥料を配合しながら苗を植え始めた。
「もう少し大きくなったら支柱で支えてあげるといいよ」
「添え木のこと?」
「そうそう。何か、棒ある?」
「えっと……。ないかも」
「じゃあ今度うちから持ってくるよ。たくさんあるから」
「ありがとう。助かるよ」
二人のやり取りを聞き流しながら、コップに水を汲んで奥の部屋に向かう。この部屋は、母さんの寝室になっている。
扉を開けると、むわっとした空気に押し返されそうになる。蛋白質が腐敗したような悪臭に思わず息を止め、部屋の中に踏みいる。
「母さん、ただいま」
畳の四畳半の部屋、その端っこに、頭まで布団を被って横になっている母さんがいた。枕元のお盆に、持ってきたコップを置く。
「母さん、ちょっと窓開けるよ」
返事はないが、勝手にカーテンと窓を半分程開けると、西日に照らされたひんやりした空気が流れ込んできた。
布団がもぞりと動く。部屋の外からは、川本さんの笑い声が聞こえた。
「誰か、来てるの?」
母さんの声は、怯えているようだった。
川本さんは、母さんに挨拶してないのかな。……するわけ、ないか。兄貴がわざわざ母さんに彼女を紹介しようとするはずがない。
母さんの枕元に腰を下ろす。
「兄貴の友達が来てるよ。なんか、トマトの苗を植えてるみたい」
「トマト……」
「うん。うちで育てる気らしいよ。母さん、トマト好きだよね」
あぁ、そうか。自分で言いながら、なぜ兄貴がトマトの苗を買ってきたのかわかった。
植物で、母さんの気分転換を図ろうとしているのだ。だから本当は見た目が綺麗な花を選ぼうとしたが、貧乏性な兄貴である。つい食べ物を選んでしまったのだろう。母さんの好物であるトマトを。
つい数ヵ月前まで、母さんは規則正しい生活をして、ご飯を作り、仕事に行っていた。それが徐々に笑顔が減り、家事の手が動かなくなり、玄関の扉を開けられなくなり、起きられなくなった。
一日のほとんどを布団の中で過ごしているが、睡眠が取れているのかはわからない。いつ見ても顔色は悪く、目の下のクマが消えることはなかった。
うつ病だ。兄貴は言う。兄貴は母さんに病院に行くよう勧めているが、母さんが家から出られたことは一度もない。
俺は、そんな母さんへの接し方がずっとわからないままでいる。本当にうつ病だとして、うつ病の知識も曖昧だ。気分がとても落ち込んでしまう、その程度のイメージしかない。兄貴から『頑張れ』の励ましは禁忌だと言われたが、ではどう声をかければいいというのだ。明らかに今までと違う母さんに、今までどおり接しろと? そんなの、不自然でしかないではないか。
実のところ、俺は変わっていく母さんが不気味でしかたがない。なんで前みたいに家事や仕事ができないの。なんで笑わないの。学校に行っている間に自殺してしまうんじゃないかと不安になることもある。兄貴も自殺は心配なようで、家中の刃物や紐状の物など、自傷の危険性がある物は母さんの目に入らない場所に隠していた。
得体の知れなくなってしまった母さんだが、それでも彼女が苦しんでいることだけは俺にもわかる。布団の中で泣きながら「ごめんね、ごめんね」と何度も繰り返す母さんを見ている。怠けているわけじゃない。気持ちと身体が上手く動かせないんだよな。保護下の二人の息子を抱え、何もできず長男に頼りきってしまうのは、きっと、母親として苦しい状況であると思う。
父さんは、俺が小学校に上がって間もない頃にいなくなった。大量の借金を母さんと俺たち兄弟に押し付けて姿を消した。当時まだ幼かったから、詳しいことは知らない。母さんも教えてくれないし、俺も聞き出そうとしたことはない。それまでの生活を失った俺たち家族は、家賃五千円の市営住宅に移り住み細々と暮らしていた。
母さんの支えになりたい。そう思えるのはきっと、高校に通いながらバイトを頑張ってる兄貴を間近で見ているから。兄貴がいなければ、どうしたらいいかわからず逃げ出したくなっていたかもしれない。だけど俺だってもう今年で十五歳になる。来年は高校生だ。何かできることがきっとある。そう、思いたい。
しばらく母さんに話しかけて部屋を出ると、ちょうど川本さんが帰るところだった。
「お邪魔しました。所くん、また明日ね」
「ああ、今日はありがとう。気をつけてな」
玄関の中から呑気に手を振る兄貴に、思わずちょっと待てとツッコミを入れる。
「いやいやいや、兄貴、『気をつけて』じゃないでしょ。送っていきなよ」
「えっ」
「え、じゃない」
「いいよ、いいよ! 家まで二十分くらいかかるから、そんな、申し訳ないから!」
困惑する兄貴と、慌てる川本さん。川本さんの謙虚さはいいとして、兄貴、お前は男としてどうなんだ。
「じゃあ俺が送って行くから。兄貴は母さん見てて」
川本さんの手を引いて、「あ、おい!」と後ろで呼び止めようとする兄貴を無視して玄関を出る。てっきりすぐに追いかけて出てくるかと思ったが、扉の向こうは静かだった。まったく、これだから兄貴は。
「秀哉くん、本当にいいよ。もう暗くなっちゃう」
「だからこそ送るんじゃないですか。もし川本さんに何かあったら、兄貴一生後悔しますよ。ヘタレな兄貴のためにも送らせてください」
「……ありがとう。じゃあお願いしようかな」
川本さんはちょっと照れたように小さく笑った。控えめで地味な感じだけど、笑うと結構かわいいじゃないか。なるほど、兄貴はこういう子が好みなのか?
太陽が山に隠れ、薄暗くなってきた道を二人で並んで歩く。川本さんの歩幅は小さく、俺はゆっくり歩を進めた。
「ねぇ……もしかしてさっき、おうちにお母さんいたの?」
肩に書けたスクールバッグの柄を両手でぎゅっと握り、川本さんは上目遣いにそう尋ねた。
「いましたよ。母さん今、仕事休んでずっと家にいるんで」
「そうなんだ……。どうしよう、わたし、挨拶もしないで……」
川本さんは申し訳なさそうに俯いた。
「気にしないでくださいよ。兄貴が会わせなかったんでしょ? 母さん今体調あんまり良くないから、あえて川本さんのこと紹介しなかったんだと思いますよ」
挨拶しなかったことに関しては川本さんに非は全くない。だから気にかけないでほしいのに、彼女はさらに顔を曇らせた。
「やっぱりわたし、所くんに信用されてないのかな……」
「え? いやいや、そんなことないですよ。信用してなければ、家にあげたりもしないでしょ。本当に、川本さんは何も悪くないですってば」
「でも、だとしても最初にお母さんがいるって教えてくれてもいいじゃない。何も知らなかったからわたし、うるさくしちゃったし……」
「……兄貴が母さんのこと話さなかったのは、誰が相手でも同じですよ。川本さんのこと信用してないとか関係ないです」
「そう、かな」
「そうですよ。それに兄貴が誰か連れてくるの本当に初めて見たし、ちゃんと友達いたんだってすげぇ安心しましたもん」
「……そっか。秀哉くんと話せてわたしもちょっと安心した。……ありがとね」
川本さんは、やっと顔を上げて笑ってくれた。うむ、やっぱりかわいい。
それにしても兄貴のやつ、家に人を上げるなら母さんのことも話しておけよな。母さんの今の状況を知られたくない気持ちも、川本さんに余計な気を遣わせたくない気持ちもわかる。だけどそれを川本さんは悪い方へ解釈し傷つき、母さんは家で一人で怯えていた。なにも詳しく話さなくたって、一言声をかけるだけでいいのに。それだけでも違うのに。
川本さんの家は、中学への通学路の途中にあった。彼女は二十分と言ったが、俺の足なら十五分もかからないだろう。
「家まで送ってくれてありがとう」
「いえいえ。それより兄貴のこと、これからもよろしくしてやってください」
「ふふっ、なんだか秀哉くんの方がお兄さんみたい。じゃあね、気をつけて帰ってね」
確かに兄貴は子どもっぽいとこあるよな、なんて川本さんと別れてから考える。父さんがいなくなって、母さんが働けなくなって、家族の先頭に立って支えなきゃという責任感はビシビシと伝わってくる。かなり気を張りつめている。しかし彼は視野が狭い部分もあって、今日のように他者への配慮が足りなかったりする。人付き合いも苦手で、世渡り下手だ。
未成年の俺たちは、他人を頼らなければ生きていくのは難しい現状にある。しかし兄貴は頼ろうとしない。なかなか人に心を開かず、友達だって少ない。俺はそんな兄貴がどうにも危なっかしくて心配なのだ。
「あら、秀哉くん! いいところに!」
帰り道、『あかまる精肉店』の前を通りかかると、顔馴染みの店主のおばちゃんに手招きをされた。揚げ物の香りが食欲を刺激する。
「もう店仕舞いなのよ。残り物もったいないからもらってちょうだい」
「えーっ、いいんですか? うわ、めっちゃ美味しそう!」
おばちゃんはタッパーにコロッケなどの揚げ物を詰め出した。
「トンカツは一枚しかないのよ、ごめんね。三人で分けて食べてちょうだい」
「いえそんな、一枚あるだけでご馳走ですよ!」
「あとね、牛肉コロッケはたくさん余っちゃったからいっぱい食べてね」
「ちょ、おばちゃん、そんなに食べらんないって」
「何言ってんの! 秀哉くんは食べ盛りでしょ、そんな大きな身体して! 慶人くんはいつ見ても細いし、あの子にも食べさせてやって」
「おばちゃん……ありがとう」
「お互い様よ!……それより、お母さん最近どう? 全然うちに来ないし、身体壊したって聞いたけど……」
おばちゃんから受け取ったビニール袋は、ずしりと重みがあった。
田舎は噂が駆け巡るのが速い。父さんがいなくなってから、俺たち家族は噂される側にずっと晒されてきた。野次馬根性で話のネタを求めてくる人間を何人も見てきた。
「……まだ、全然働ける感じじゃないんですよね。ずっと寝込んじゃって」
「そう……」
でも、あかまるのおばちゃんは違う。前から母さんと仲良しで、母さんのことを本当に心配してくれている。
「体調が戻ったら、今までのとこ復帰できそうなの?」
「いや、もう仕事は完全に辞めちゃったみたいで」
辞めたのか、辞めさせられたのか。
「あら、そうなの……。ねぇ、もしよければ、お母さんに体調が良くなったらうちで一緒に働かないかって聞いてみてよ」
「え? あかまるで?」
「この前までお手伝いしてくれてた子が辞めちゃってね。お父さんも腰が悪くて今すごく人手が欲しい状況なのよ」
窓のない暗い部屋に、光が射し込んだような気がした。
救いの手だ。行き詰まった俺たち家族を良い方向へ導いてくれる光だ。
この手は絶対に離してはいけない。
「おばちゃん、ありがとうございます! 母さんに話してみます! きっとおばちゃんとなら、母さんも働けると思う!」
「うん、いつでも待ってるからお母さんによろしくね」
今度はお金持って買いに来ますと頭を下げ、早足に家に向かう。ビニール袋の中身は温かい。冷めないうちに、早く、早く……。
「ただいま!」
「お帰り。早かったな」
家に着くと、兄貴は炊飯器のスイッチを入れたところだった。よし、おかずの準備はまだのようだ。
「なぁ、」
「兄貴、」
二人同時に喋り出してしまい、お互い口をつぐむ。兄貴に先に喋らせたくて、話を促す。
「あぁ、いや……、川本と何話したのかなと思って……」
気まずげに顔をそらして、ぼそぼそと喋る兄貴。そんなこと気にするくらいなら、自分で送っていけばよかったのに。
「別に、世間話くらい。……あ、母さんのこともちょっと話した」
「え、どこまで話したんだよ?」
「家で寝込んでるってことだけ。兄貴さ、母さんが家にいるってことくらい言っておけよ。川本さん、挨拶せずにうるさくしちゃったって気にしてたぜ?」
「……気を遣わせたくなかったんだよ」
「知られたくなかっただけじゃなくて?」
「…………」
「こんな狭い家なんだからさ、隠したってどうせバレるよ。母さんもあんなだから、お互い顔は合わせない方がいいかもしれないけど、存在くらい知らせといてやりなよ」
「……わかったよ」
珍しく兄貴は俺の言葉に素直に頷いた。
「それより兄貴、これを見ろ!」
ちょっと雰囲気悪くしちゃったなと思い、わざと明るい声を出す。そしてテーブルの上に、ビニール袋の中身を取り出して並べる。
「え、すげぇ量。あかまるか? 買ってきたの?」
「いや、もらった。残り物もったいないから持っていってくれって」
兄貴は眉をしかめた。彼のその反応は予想していた。プライドだかなんだか知らないけど、彼は他人の親切を素直に受け取ろうとしない。
兄貴のそんなところは、正直好きじゃない。
「人からの厚意を無下にするのが一番最低だからな。兄貴も食えよ。母さんにも食べさせよう」
兄貴に小言を言われる前に、強めに言っておく。
「まあ、もらったもんはもったいないから食べるけど……」
「それでよし。それからさ、あかまるのおばちゃんに母さんもうちで働かないかって誘われたよ」
「……母さんが、あかまるでか?」
「うん。今人手不足で大変なんだって。母さんおばちゃんと仲いいし、あかまるでなら働けると思わない?」
「……やめた方がいい。母さんにはそのこと言うなよ」
兄貴は首を振った。彼が反対することもなんとなく予想できていた。だけど、ここで素直に彼に従うのは嫌だった。
「すぐに答えを出すなよ。母さんの歳を考えても、新しい仕事見つけるのも簡単じゃないだろ?」
「来年からは俺が働ける。今よりはちょっとはマシになるはずだから」
「俺も来年になったらバイトするけどさ。お金の話だけじゃなくて、もっと母さんに前みたいな生活させてやりたいんだよ。近所に買い物出かけて、あかまるのおばちゃんと世間話して。そういう元の生活に戻してやりたいんだよ」
お金はなくて生活は苦しかった。でも人との関わりは捨てていなかった。影でコソコソ噂されることはあっても、あかまるのおばちゃんみたいに変わらず笑顔で話しかけてくれる人もいて、母さんだって笑っていた。
兄貴はテーブルの上のコロッケを睨み付けた。
「もし、あかまるのおばちゃんにまで裏切られたらどうすんだよ。それこそ、母さんはもう二度と立ち直れなくなっちまうかもしれないだろ」
「裏切るってなんだよ。おばちゃんは母さんのこと心配して声かけてくれたんだろ」
「今はそうでも、この先どうなるかわからないだろ」
「そんなのなんだってそうだろ。やってみなきゃわかんないよ」
「そんな不安定なもの、母さんに押し付けるな!」
兄貴は語勢を荒げた。なぜ兄貴はそこまで守りの姿勢に入って小さくなっているんだ。顔を上げて立ち向かわなきゃ、何も見えてこないではないか。
「貧乏人は信用されないんだよ。その証拠に、クレジットカードだって作れない。信用されないから、下等に扱われる。馬鹿にされる。……秀哉は、なんで母さんが働けなくなったか知ってるか?」
「……いや、」
「俺は母さんから少し聞いたよ。……上司に裏切られたんだ」
「え……」
「辞めさせるのは簡単だって脅されて、低賃金でいいようにされたんだ。酷いこともいっぱいされて、いっぱい言われたって泣いてた……。でも俺たちがいるから辞めるわけにはいかなくて、ギリギリまで頑張ろうとして、ギリギリの線を越えちゃったんだよ」
「…………」
「貧乏だから、足元を見られたんだ。貧乏人は金のある奴と対等になんて扱ってもらえないんだよ。おばちゃんだって今は純粋な優しさのつもりかもしれないけど、そのうち『金のないかわいそうな友人を雇ってあげてる』って思い始める。今なら友人でいられても、一緒に働きだしたら上下関係に変わる。……そしたら、苦しいのは母さんだろ」
俺は、何も言い返せなかった。「それは違う!」って反論したいことはたくさんある。だけど、兄貴があまりにも苦しそうだったんだ。兄貴の抱えている思いを、俺はどこまでわかっているんだろう。俺が見ている兄貴は、彼の何パーセントだろうか。
「父さんも、秀哉みたいに他人を疑わない人間だったよ。何でも信じて、お人好しで。だから友人の借金の連帯保証人なんかになって、裏切られたんだ」
「え、そうだったの」
「……やっぱり、知らなかったのか?」
「うん」
うちの借金は父さんが作ったものという認識はあったが、なんで借金なんてしたのかは聞いたことがなかった。そこにはあまり興味もなかった。
「……父さんのこと、いい奴だとか思うなよ」
「え……」
ドキッとした。図星だったから。
だって、友達が困ってるときに放っておけない気持ちはよくわかる。自分を頼って来られたら、突き放すことなんて難しいよ。
「父さんはな、人を信じて裏切られ、どうしようもなくなった挙げ句自分の信用を潰したような人間なんだ。誰かを信じるって、賭けみたいなもんだよ。リスクと背中合わせだ。……秀哉は、自分が傷つくようなことにはなるなよ」
兄貴は背を向けて、冷蔵庫からキャベツを取り出した。
こんなこと兄貴には言えないけれど、俺は父さんのことも憎めずにいる。彼は妻子に借金を押し付けて逃げ出した酷い人間だ。客観的にそれは理解している。でも父さんとの楽しい思い出はたくさんある。たくさんの愛情を貰ったし、俺も大好きだった。父さんが出て行って間もない頃、彼に会いたくて泣いていた俺に兄貴は言った。「父さんのことなんて忘れなよ。きっと今頃、父さんは笑ってるよ」と。でもわからないじゃないか。父さんはとてもとても苦しんで、やむを得ずこの決断をしたのかもしれない。俺たちには想像つかないような、何か理由があったのかもしれない。もし今父さんが突然帰って来て過去のことを頭を下げて謝ったら、俺は許してしまうかもしれないな。兄貴には、言えないけれど。
川本さんは、あれから何度か家に来た。トマトの成長を確認して、少しだけ兄貴と二人で勉強して、あまり長居はせずに帰っていく。今度はちゃんと兄貴が家まで送ってあげていた。やればできるじゃないか、兄貴。
彼女は俺がいない時間にも来ていたらしく、家に帰ると見慣れない洋菓子がテーブルに置いてあることがあった。「断ったんだけど、どうしてもって……。秀哉、食べていいよ」と兄貴は俺にくれた。彼は頑なに食べようとしなかった。
そんなところは相変わらずだけど、それでも兄貴は川本さんといるとき確実に表情が柔らかくなっていた。穏やかな顔つきで、笑顔も増えた。変な言い方かもしれないが、隙が生まれた。
トマトの苗が最初の倍くらいの高さになった頃のある土曜日、川本さんは緑の添え木を持ってやってきた。初めて私服を見せた彼女は、シンプルな黒いTシャツにカーキのハーフパンツを穿いていた。
昼過ぎに来た彼女は、まだ日の高いうちに帰ろうとした。いつものように兄貴が送ろうとすると、川本さんは「今日はまだ明るいからいいよ」と断り、ヘタレ兄貴は「あ、そうか……」と一歩下がった。いやいや、そうかじゃないだろ。納得してどうする。夜道が危ないから送っていくんじゃなくて、もっと一緒にいる時間を大切にしてだなぁ……!
内心で全力で訴えるも、兄貴には伝わらず。
「川本さん、俺郵便局に用事あるから一緒に行きましょ! ついでに家まで送りますよ」
ほら兄貴、いつまでもウジウジしてるとこうやって横からかっさらわれるんだぞ。わかったか!?
「あぁ、行ってらっしゃい。……川本、今日はありがとな。また月曜日に」
「うん! またね」
……兄貴はダメだ。ダメだ兄貴は。俺は堪えきれずため息を漏らして玄関を出た。
桜の花びらは木の枝からも地面からも跡形もなく姿を消し、緑の葉を繁らせていた。どこを見渡しても、わさっと緑だ。わさっと。
川本さんが胸元をパタパタと扇ぐ。
「今日は暑いね」
「そうですね~。今からこんなんで、真夏は大丈夫ですかね」
「今年は猛暑になるってテレビで言ってたよ」
「マジっすか。扇風機で乗り切れるかな……」
「そっか、所くんの家クーラーないもんね」
「まあ、昼間は涼しいとこに避難すればいいからいいんですけどね」
そう、俺はいいけど、母さんはどうなるんだろう。熱気のこもった暑い部屋で、換気もせず水分補給もせず布団にくるまって寝ている母さんを想像する。わりとリアルに想像できた。これはヤバい。夏までになんとかしないとなぁ。
「秀哉くんも今年は高校受験だね。志望校はもう決めた?」
「まあ、無難にタカ高です」
「そっか、じゃあわたしたちと入れ替わりで入学だね」
「川本さんは来年卒業したらどうするんですか?」
「わたしは東京の方の大学を受けるつもり」
「東京……」
タカ高は半分以上の卒業生が進学すると聞く。川本さんなんて雰囲気からして成績も良さそうだし、きっと大学に行くんだろうなとは予想していた。でも、東京か……。遠いなぁ。
「兄貴寂しくなるだろうなぁ」
兄貴は進学はしないだろう。そんな経済的な余裕はないから。高卒で就職して働く道しか考えていない。
「えー、所くんは寂しがったりしないよぉ」
下を向いてそう笑う川本さんがなんだか寂しそうで、彼女から視線をそらしてしまう。
「川本さんと兄貴は……本当につき合ってないんですか?」
前から気になっていたことを尋ねてみる。なんとなく、兄貴より川本さんに対しての方がこういう話は聞きやすかった。
「つき合ってないよ。ていうか、わたしにそんな資格ないよ」
俺は小さく首を傾げた。恋愛感情の有無はこの際置いといて。資格って、なんでそんなに謙虚というか自信がないのだろう? 相手はあの兄貴だぞ。
「じゃあ、川本さんにとって兄貴はただの友達としか見れませんか?」
川本さんは困った顔をして首を横に振った。
「……あのね、秀哉くん。わたしはその、所くんを、えっと、慶人くんを、選べるような立場にないんだよ」
「どういう意味ですか?」
「……だってわたし、中学で三年間所くんと同じクラスだったんだよ。それなのに、所くんが一番辛い時、同じ教室にいながら何もしなかったような人間なんだもん」
俺は頭の中で彼女の言葉を一生懸命整理する。中学? 兄貴が一番辛い時?
川本さんは何のことを言っているのだろう。父さんが出て行ったのは、俺も兄貴もまだ小学生だった頃だ。母さんがあんな状態になったのもここ数ヵ月のこと。兄貴が中学生の頃、何か特別なことなんてあったっけ?
「えっと……何の話?」
「だから……、あ……」
川本さんは俺が本当にピンときていないことに気づいたらしい。
「秀哉くんは、知らないか……」
「ええ、たぶん。なんですか、兄貴、中学で虐められでもしてたんですか」
なんだか、嫌な予感がした。否定して欲しいと願いながら、最悪の予想をふっかける。
川本さんは小さく頷き肯定した。背筋に冷たいものが駆け上がったような気がした。
「マジで……ええ、俺全然知らなかった……」
俺は文字通り頭を抱えた。まさか、あの兄貴が虐めなんて、そんな……。いや、それほど意外でもないが……。
「兄貴……何されてたんですか……」
聞いてどうする、とも思った。けど、兄貴の苦しみを少しでも理解できるなら、俺は知っておきたい。川本さんは泣きそうな表情で躊躇いがちに唇を動かした。
「いつも、貧乏なのを理由にからかわれてた。給食の時間とか、『貧乏人はこれで十分だろ』ってあまり盛ってもらえなかったり、わざと床に落としたものを無理やり食べさせられたり……。それから、所くんって一つの物を大切にしてるでしょ? 文房具でも、体操服でも。それを嗤われて、隠されて、壊されたり……。周りの人も、誰も止めなかった。みんな、見て見ぬふりして、関わらないようにしてた。中二の夏休みが明けて、主犯の人たちが自然に飽きるまで……」
言葉が出て来ない。
俺も、貧乏なことは学年中に周知されている。貧乏だから、と笑われることは実際にあった。だけどそこに悪意を感じたことはない。貧乏なんだからもっと食っとけよ、と給食を多めに盛ってもらった。余ったデザートは優先的にゲットできた。俺が今着ている制服も、兄貴のお下がりじゃ小さすぎるため、クラスメートのお兄さんから完全なる厚意でもらったものだ。いろんなところで施しを受けていた。みんな、俺のことを思って親切にしてくれていた。
しかし、兄貴は違った。貧乏だから蔑まれていた。クラスメートの憂さ晴らしの対象にされていた。
当時の兄貴を思い出す。「給食いっぱい食べてるから」と言って家でもあまり食事を口にせず、どんどん痩せ細っていった時期があった。彼は男子高校生にしてはかなり背が低いが、成長期に栄養が足りていなかったからではないか。
周りの人間が違ったのか、それとも俺たちの性格が違ったのか。
「わたし、ずっと所くんの近くでそれを見てたよ。……でも、何もできなかった。何もしなかった」
川本さんの声は震えていた。
「本当は今だって、所くんと一緒にいる資格なんてない。安全圏に入ったの確認して、罪滅ぼしみたいに声かけて……。本当は、もっと堂々と仲良くなりたいのに……対等でいたいのに……」
「でも、中学のことですよね? 兄貴はもう、気にしてないと……」
「無理だよ。だって、あの頃の所くんにとって、クラスメート全員敵だったんだよ。わたしもそう。そんな人間のこと、信用できるわけないじゃん」
「…………」
信用という言葉に、俺は何も言い返せなくなってしまった。兄貴はなかなか他人を信用しない。母さんと仲良しなあかまるのおばちゃんでさえもだ。川本さんは直接兄貴を苦しめていたわけじゃない。だけど、兄貴にとって苦しい環境を作る一部だったわけだ。
川本さんだって苦しんでいた。行動できなかった自分を責め、罪悪感で今でも苦しんでいる。俺は彼女は完全に無罪だと思うし、罪悪感なんて捨てて純粋にこれからも兄貴と仲良くしてもらいたい。でも、事情をかいつまんだだけの俺の意見を兄貴と川本さんに押し付けるのは、なんだか違う気がする。
もう、川本さんの家の前に着いていた。彼女は拳を握って、うつむき奥歯を噛み締めている。
この人は、一生自責の念に苛まれるのだろうか。兄貴だって、心に負った傷は一生癒えないくらい深いものかもしれない。だけど、川本さんに過去に囚われたままでいなくていいと思うのは、俺が被害者の痛みを知らない人間だからだろうか。
ねぇ、顔を上げてよ。自分で自分を傷つけないで。きっと彼女の胸は後悔でいっぱいだろう。でも、それだけ兄貴のことを考えてくれているんでしょう。それで十分だから。
「あの、俺には兄貴の気持ちはわからないけど……、ただの罪滅ぼしで兄貴と仲良くしてるだけなら、もう止めてください。それこそ、兄貴を傷つけると思うから。……でも、過去のこと関係なく川本さんが少しでも兄貴のことを好きでいてくれて、自分で望んで兄貴の近くにいてくれるなら、俺は嬉しいので……」
ぽろぽろと、川本さんの瞳から涙が零れ落ちた。
「うん……ありがとう、秀哉くん」
通り過ぎる人々の視線も気にせず、俺は彼女が泣き止むのをただひたすらに待った。
「……ただいま」
あんな話を聞いた後で、兄貴と顔を合わせづらくこっそり帰るが、なにせ狭い部屋だ。顔を合わせないなんて物理的不可能だ。
「おかえり。……川本のこと、ありがとな」
「あぁ、全然いいけど……」
部屋の段差に躓いて転びそうになる。よろよろしたまま食卓の椅子に腰かけようとして、今度はテーブルの脚に膝を打ち付けた。我ながら挙動不審だ。膝を押さえて悶える俺に、兄貴が眉をひそめる。
「……秀哉、大丈夫?」
「え、あ、いや、あのトマト、ミニトマトなのかなって思って」
「ミニだけど?」
「あ、そうなんだ。俺大きいトマト苦手だからさ、ミニトマトなら嬉しい」
なんだこのめちゃくちゃな会話は。兄貴はクスッと笑った。
「貧乏人が好き嫌いすんなよ」
冗談っぽく言われたその言葉にヒヤッとする。もしかして、兄貴自身言われたことのある言葉なんじゃないか。中学時代に。悪意を込められて。
「今日の夕飯、何が食べたい?」
「あー、夕飯ね……」
ちらりと時計を見る。まだ午後の四時だ。全く食欲はなくて、食べたい物が思い浮かばない。
「兄貴の食べたい物でいいよ」
俺がそう返した時だった。玄関の外から「ごめんくださーい!」と声が聞こえたのは。よく知っている声だった。ガヤガヤと話し声も聞こえる。兄貴が首を傾げる。
「誰?」
「俺の友達」
何の用か知らないが、いいところに来てくれた。早足に玄関へ向かう。
玄関の扉を開くと、階段を上りきった半畳程のスペースに純平と弘樹、聡磨の三人が立っていた。三人とも同じクラスの友人だ。
「なに、どうしたの」
「へへ、ジョージ来週誕生日じゃん。だからケーキ焼いてきた」
純平が紙袋を付き出す。弘樹と聡磨は後ろで関係ない会話をしていた。
「え、手作り!? すげー!」
「弘樹監修のイチゴタルトだぞ」
「マジかよ! 休日に集まってケーキ作りとかお前ら女子か! うわっ、嬉しい! マジでありがとう!」
弘樹は男子中学生にしては珍しくお菓子作りの趣味がある。しかも結構腕が良い。
その弘樹が俺の背後に視線をやって、愛嬌のある笑顔で「こんにちは!」と軽く会釈した。振り返ると、兄貴が顔を覗かせていた。
「初めまして! 僕たちジョージの友達の……」
そこで純平が弘樹を肘でどつく。
「おい弘樹、ジョージはあだ名だろ。僕ら所くんの……」
聡磨が純平の坊主頭をペシンと叩く。
「バカ。所さんに向かって所くんはないだろ。お兄さんすみません、バカばっかりで。俺たち……えーと、ジョージって本名なんだっけ」
本気で困った顔をする聡磨。お前らなぁ……。
コミュ障な兄貴は愛想笑いで「あ、どうも、秀哉をよろしく」と言って奥に戻ろうとした。そんな兄貴を純平が「あ、お兄さん!」と呼び止める。弘樹と聡磨は「秀哉か」「言われてみればそんな名前だったな」とこそこそ喋っていた。お前ら、聞こえてるからな。
「秀哉に渡したのケーキなんですけど、お兄さんとお母さんの分もあるのでぜひみなさんで召し上がってください。それからこっちは、秀哉の家に行くって言ったら母さんが持たせてくれて……。おかず作りすぎたからって。よかったらどうぞ」
弘樹の手に下がっていたビニール袋を取り、純平が兄貴に差し出す。兄貴はそれを見て眉をしかめた。あーあ、不機嫌になったようだ。
「……秀哉の誕生日を祝ってくれてありがとう。それから、俺や母さんにも気を遣ってくれて。……でも、もうこういうのはいらないから」
「え……」
こんなふうに拒絶的な言い方をされるとは思っていなかったのだろう。純平は狼狽えて黒目が泳いでいる。不穏な空気を感じ取ったのか、彼の後ろで弘樹と聡磨も会話を止め気まずげに目を合わせた。
いくら兄貴だって、俺の友達の厚意を無下にして傷つけたりしたら黙っていないからな。
「兄貴、こういう時は『ありがとう』だけでいいんだよ。厚意なんだからさ、素直にありがたく受け取ろうぜ」
純平たちへのフォローも込めて兄貴をたしなめたが、火に油だったようだ。兄貴は俺と、そして純平たちをキッと睨み付けた。
「厚意? ふざけんな! ただの自己満だろ! 俺たちはギリギリまで切り詰めて生活してるんだ。そこに同情で贅沢品を突っ込まないでくれ!」
「おい兄貴!」
「バカバカしくなるんだよ! スーパーに行ったって十円二十円って単位で安く済ませようとしてんのに、外から平気で何百円って物が突っ込まれる。俺がバイトして稼いだ生活費だって、お前たちにとっちゃ小遣いみたいなもんだろ。そういうの、俺の努力なんて意味がないって嗤われてるような気になるんだよ! 元々金銭感覚が違うんだ。お前たちと同じ基準で考えないでくれ!」
「…………」
兄貴のこんな思い、初めて聞いた。ずっとくだらないプライドを張っているだけだと思っていた。だけど俺が想像していた以上に、兄貴は気を張り詰めていたんだな。
あかまるのおばちゃんからコロッケをもらうのも、川本さんがお菓子を持ってくるのも、兄貴にとっては自分の努力を塗りつぶされるようなものだったんだ。屈辱だったんだ。
両の拳を握りしめ、顔を紅潮させ足元を睨み付ける兄貴は、まるで人を恐れ威嚇する野良猫のようだった。
聡磨が「俺たちの無神経な行動で気分を害してしまい、すみません」と頭を下げた。つられるように弘樹も「すみません」と謝る。しかし純平だけは納得できてなさげな表情で口を開いた。
「同情なんかじゃないです」
聡磨が小声で「やめろよ」と純平の服を引っ張る。しかし純平はその手を振り払った。
「貧乏でかわいそうだから食べ物をわけてるわけじゃないです。友達だから、友達の家族だから、喜んでもらいたいし感謝を伝えたいんです」
後ろで顔を強ばらせていた弘樹が、ハッとしたようにコクコクと頷く。……さっきからこいつはどっちつかずだ。純平はさらに続けた。
「確かに、ジョージと遊ぶ時は正直気を遣います。お金のかかる行楽施設なんか誘えないし、買い食いだってしにくい。お金を肩代わりすることなんて簡単ですよ。そしたらジョージと一緒にお金のかかる遊びもできる。……でも、そんなことしなくたって、俺はジョージと一緒にいて十分楽しいんです。だから、俺はジョージがかわいそうなんて思いません」
「…………」
兄貴は俺以外の人間と言い争いなんてできないから。こんなふうに反論されたら何も言い返せなくなっちまうんだ。
それはそうと、なんだかむず痒い。勝手に口角が上がってしまう。純平は落ち着いて言い返してるように見えるけど、きっとかなり興奮状態だ。そんな状態で「一緒にいるだけで楽しい」だなんて、それがお前の本音かよくそぅ。
「俺たちがいつもジョージと遊べるのは間違いなくお兄さんとお母さんのお陰なんです。感謝の気持ちを形にしちゃいけませんか?」
純平は息をつくと、「ただ……」と視線を足元に落とした。
「自己満って、それは当たってたかもしれないです。お兄さんを嫌な気持ちにさせたのは本当だし……。ジョージが、秀哉がこんな奴だから、家族も喜んでくれるかなって思ってて……」
「こんな奴ってなんだよ」
不満のツッコミを入れるも、華麗にスルーされる。
「勝手なことして、すみませんでした」
野球部の純平は、腰を直角に折り深々と頭を下げた。
「あ……、いや……。俺こそごめん。……それ、もらってもいいかな……」
兄貴が惣菜のタッパーが入った袋を躊躇いがちに指差す。いつの間にか彼の興奮は冷めていたようだ。首筋に汗が伝っている。純平は驚いた表情を見せ、すぐににっこり笑った。
「はい! もちろんです!」
兄貴は、小刻みに震える手で袋を受け取った。
「秀哉のやつ、食う量がどんどん増えてくるから困ってて……。正直、めちゃくちゃ助かる。ありがとう。親御さんにも、お礼伝えてくれるかな」
「はい!」
純平たちと視線を合わせられずうつ向いて、消え入るような声で喋るこの男は我が兄ながらなかなかに情けない。でもまぁ、いいか。不満の気持ちが消えずとも、純平たちの思いを少しでも汲み取ってくれたならそれでいい。俺も、兄貴の思いを少し知ることができたから。
純平たちが帰った後、兄貴は大きく息をついて倒れ込むようにキッチンの椅子へ腰を下ろした。彼のライフはほぼほぼ尽きたようだ。
「さっき、『同情するなら金をくれ』って言い出すんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」
「あー、喉まで出かかったな」
「兄貴がそれ言ってたら、俺たち笑い堪えるのに必死だっただろうな」
「もう、いっそ笑ってくれよ」
兄貴は弱々しい笑みを浮かべた。
「ケーキと惣菜、受け取ってくれてありがとな」
「別に……秀哉の友達だし……」
「なんだそれ」
さっきは三歳も年下の中学生相手に怒鳴り散らしてたくせに。まぁいいけど。
彼の向かいの椅子に座る。兄貴は頬杖をついて俺を見上げた。
「秀哉、友達からジョージって呼ばれてるの?」
「うん。中一でそのあだ名つけられて、もう学年全員からそう呼ばれてるよ。先生もジョージって呼ぶし」
「所だから?」
「そう」
「へぇ。……いいな、俺もそんなあだ名つけてほしかったな」
兄貴は伏し目がちに笑い、テーブルの上で指先をぎゅっと握り込んだ。
「俺……秀哉が羨ましい」
「……そんなにいいかな、ジョージって」
「あだ名のことじゃねぇよ」
うん、それはわかってる。自分で言うのもなんだが、俺は兄貴にないものをたくさん持っている。だから兄貴を見ていると、危なっかしくてイライラしてくることもある。なんでそんなに生きるのが不器用なの。なんでもっと上手くやれないの。ただでさえ貧乏というハンデを背負っているというのに、生きづらさを加速させているのは彼の性格や信条だ。だって、俺は日々楽しいよ。なのになんで兄貴はそんなつらそうな顔して生きてるの。楽しく生きる道があるのに、なんでわざわざつらい方を選ぶの。
「兄貴はさ、気を張りすぎなんじゃない? もっと気楽に生きようよ。別に、誰かの世話になったっていいじゃん。俺たちまだ未成年だぜ? これから大人になって、余裕出て来たら恩返ししていけばいいじゃん」
「……世話になるって、なんでお前はそう簡単に他人を信用できるんだよ。お前だって、散々噂の種にされてきただろ。貧乏ってからかわれたことだってあるだろ」
「そんな不特定多数の人間のことなんて気にしてらんないし」
「……さっきの友達や、あかまるのおばちゃんにもしも裏切られたらって考えないのか?」
「……正直言うと、考えたことないんだよなぁ」
逆になんで兄貴はそんなに他人を信用できないのさ?
喉まで出かかった言葉を飲み込む。いや、わかるよ。知っちゃったよ、今日。彼の中学時代の出来事を。それに母さんのことも、俺よりずっと近くで見ていたんだもんな。
ムカつくのは俺の方だよな。同じ境遇で生きてきたのに、片やめちゃくちゃ苦しくて、片やヘラヘラと無責任に笑ってて。
ごめんな、兄貴。つらさだけを背負わせてしまって。兄貴の過去をかいつまんで、少しは兄貴の思いも理解したつもりでいるよ。でもな、それでも俺は、兄貴の意見に賛同はできないんだ。それもそうだなって、他人を信用することをやめて自分達の力だけで生きていこうとは思えないんだ。兄貴の思いを否定したいわけじゃない。兄貴はそういう考え方なんだなってできる限り歩み寄るから、兄貴も俺の考えを聞いてほしい。
「兄貴は心から信用できる人、一人くらいいないの?」
「……わかんねぇよ、誰を信じていいかなんて」
「じゃあ俺のことは?」
「…………」
俺の質問に、兄貴はあからさまに顔をこわばらせた。ちょっと、その反応は心外だ。
「えっ、そこは信じてるって即答するとこでしょ」
「あ、いや、違くて……」
「何が違うんだよ」
「だってお前、高校卒業したら家出ていくだろ?」
「知らねぇけど」
「秀哉なら人望と人脈で収入増やして結婚もしてさ」
「だから知らねえって」
「そしたらもう俺たちのとこになんて戻って来ないじゃん。俺と母さんのことなんて忘れて、新しい家庭築いて幸せに暮らすんだろ?」
「いや、勝手に被害妄想繰り広げないで?」
「悪い……」
兄貴はばつが悪そうに目をそらした。これは本気で俺が兄貴たちを見捨てる未来を想像していたな。ため息が漏れる。
「あのさぁ、俺が兄貴を裏切るとかないからな」
「俺だってそう思いたいよ。協力して借金返して、母さんに楽させて、別々に暮らし始めても兄弟仲良くいたいって思ってる。……でも、わかんねぇじゃん。秀哉に俺や母さんよりずっとずっと大切で優先順位の高い存在ができたら、俺はもう何も口出しできない。でもきっと、秀哉の幸せを純粋に願うこともできない。俺は秀哉のことを妬んで、憎んで、そんで腐っていくんだよ」
兄貴はテーブルに肘をついて、両手で顔を覆った。前髪が小刻みに震えている。
「俺、彼女がいたことすらないんだけどなぁ」
全くこの男は、面倒くさいほどにネガティブな思考しているんだな。彼がこうなってしまったのは、この家庭環境や学校、近所の人々、とにかく周囲の人間のせいだ。兄貴自身は何も悪くない。それはわかる。
俺は椅子から立ち上がると、向かいに座る彼の頭に右手を乗せた。
余計なこと考えてるんじゃねぇよ。目の前のことで一杯一杯なくせに、起こりうるかどうかもわからない未来を愁えるな。
「俺のこと、バカにすんなよ。確かに今は手のかかる弟だろうけど、来年からはバイトもして少しは支えになるから。それに、母さんが心配な気持ちに嘘はない。他に大切なものが増えたって、兄貴たちのことがどうでもよくなるなんてあり得ないし、兄貴がつらければいつでも力になる」
「ははっ、秀哉は、本当真っ直ぐだよな」
手の隙間から漏れたのは、泣き笑いのような声だった。
「何、俺が真っ直ぐすぎて眩しくて直視できないって?」
「うん、そうかも」
茶化したつもりなのにあっさり肯定され、俺は本日何度目かわからないため息をついた。
「兄貴さぁ」
彼の髪をぐちゃぐちゃとかき混ぜる。
あー、もう。兄貴の情けないとこなんていっぱい見ている。でも、口に出してなんて言わねぇけど、兄貴は十分立派だよ。俺が知ってる以上に、これまで頑張ってきただろ。母さんのために、俺のために、大事な高校生活を犠牲にしてきただろ。その重荷を、少しは俺にも担がせろ。一人で全部背負ってるんじゃねぇよ、ばか。じゃなきゃ、俺は口先で正論並べて何も行動に移してない奴になっちまうじゃねぇか。
兄貴は顔から両手を外すと、左手で俺の右手首を制止させるようにつかんだ。その手は確かに男の手だが、細くて小さくて、頼りなげな手だった。こんな手が、今まで必死に俺を守ってきてくれたんだ。彼は泣いてはいなかった。しかし唇を歪ませ、苦しげにぎゅっと目を瞑る彼の心はずっと泣き叫んでいたのだろうか。
「秀哉、俺、怖いよ。将来が不安でしかたない」
「うん」
「来年からはもう完全に『子供』じゃなくなる。誰かに守って欲しいなんて、助けて欲しいなんて、そんな気持ちを持つことも許されなくなる。……」
──母さんがこのまま元気にならなかったらどうしよう。
──俺に、家族を養うなんてできないよ。
──なのに、卒業したらもう『大人』にならなきゃいけないの?
──まだ大人になりたくない。
──まだ働きたくない。
──もっと同年代の人たちと遊びたい。……俺、最近やっと友達って呼べる人できたんだぜ?
──もっと、高校生活楽しみたかった。
──俺も、周りの友達みたいに大学行きたかった。
「特別勉強したいことがあるわけじゃないんだ。成績も良くないし、やりたい仕事もない。お金を稼げればそれでいい。……そうなんだけど、もっと友達作って、毎日会って話して……やっとそういう楽しさに気づけたのに、俺にはもうその時間が一年も残されてないんだって……。進学する人たちが羨ましく思っちゃうんだ」
俺の手首を握る兄貴の左手は、力なく震えていた。
『長男』の鎧の中身は、驚く程に弱々しくて脆かった。大人になりたくないとか、働きたくないとか。そんな誰でも一度は抱く思いを、兄貴も感じていたなんて。そりゃそうだ。家庭の都合で大人の役割を宛がわれていたけど、彼だって一高校生だ。俺と三歳しか違わないんだから。
俺はまだ義務教育中の中学生で、これから高校にも通わせてもらえる。これまで楽しい学校生活を送らせてもらって、これからもまだ楽しむつもりでいる。だけど、兄貴はつらい中学時代を送り、高校だってきっと最近まで友達を作らずに過ごしてきたのだろう。青春とは程遠いところにいて、モラトリアム期も与えられない。そして、弟という俺の存在も、兄貴を縛り付ける要因なんだ。
「兄貴……ごめんな」
兄貴に自由を与えたい。兄貴が大学に行きたいなら行ってほしい。だけど、俺の力ではそれを叶えることができない。兄貴にはもっと好きなことをしてほしいのに、それをしたら俺たち家族三人余計に苦しくなる未来も見えている。俺には、何もできない。俺が高校に行かないで働けば、とは何度か考えたことがある。けどこんなことを言ったら兄貴はきっと怒るし傷つくだろうから、受験勉強を頑張ることにした。
「なんで、秀哉が謝るんだよ」
「だって……、大変なこと、全部兄貴に押し付けてたわけだし。それに、俺がいなければ経済的にも楽だっただろ」
兄貴はキッと俺を睨み付け、手を離した。
「俺に申し訳ないと思うなら、そういうこと言うな、バカ」
「……うん」
いつもの兄貴の調子に戻ったのを確認して、思わず笑みを漏らしてしまう。兄貴もほんの少しだけ笑っていた。
「ね、兄貴。さっきも言ったけど、俺はずっと兄貴の味方でいるからな」
「……わかったよ」
「それじゃあ、俺の信じる人たちのことも信用してよ。これは俺の持論だけど、誰かに信用されたかったら、自分からも信じないと。自分のこと信用されてないなって思う人のこと、信用できないでしょ」
「…………」
「まずあかまるのおばちゃんでしょ。それからさっきの俺の友達、純平と弘樹と聡磨。まぁ純平たちは今日がはじめましてだから、徐々にでいいよ。……あとは、川本さん」
「川本……」
身近な人物を指折り数えていくと、五人目で兄貴がぼそっと声を漏らした。
「兄貴、川本さんのことはどう思ってるのさ。まあ、信用してるからうちに上げてるんだろうけど」
「川本は……いいやつだと、思ってる。川本のお陰で友達もできたわけだし……。でも、まだちょっと怖いよ。裏では実は俺のことバカにして嗤ってるんじゃないかって……。優しくして騙してるんじゃないかって……。被害妄想だってわかってるけど、でも、この思考が直せないんだ」
「そっか……」
それは、しかたないかもしれないな。俺が信用しろって言って素直に信用できてたら、兄貴はこんなに苦しまなかったよな。
「わかったよ。兄貴はそれでいいよ。その代わり俺のことくらいは信用してくれよな。さっきみたいにいくらでも弱音吐いていいからさ」
俺の言葉に、兄貴はカーッと顔を紅潮させた。
「もう、絶対言わないから! お前もさっきのは忘れろ!」
「えー、どうしようかなー」
たぶん俺は、悪い顔でニヤニヤ笑っていただろう。兄貴は赤い顔で悔しそうに奥歯を噛み締めていた。
絶対に忘れてやるもんか。もう二度と、兄貴一人に背負い込ませないからな。
性格や身に付いてしまった習慣なんかは簡単に変えられるものじゃない。それに、俺の考えが正しいかどうかもわからない。社会経験のない中学生の考えなんて、言ってしまえば理想論だ。近い将来、自分の考えのなんと甘かったことかと後悔と反省する日が来るかもしれない。だとしても、とりあえずは今自分が信じる道を進みたい。自分を見失わないために。兄貴と母さんが道に迷った時のための道標くらいなら、俺でもなれるだろうか。
俺は俺の信じる道を。兄貴は兄貴の信じる道を。たまには合流して意見をぶつけあって、納得できなきゃとことん話し合おうじゃないか。俺たちは、それができる関係性なんだから。
俺は、勢いよく立ち上がった。
「兄貴、ケーキ食べよう!」
「え……、いいのか? 俺も食べて……」
「当たり前じゃん! 兄貴が食べなかったら、純平たちの思いを裏切ることになるんだからな!」
「あ、あぁ、わかったよ」
お皿とフォークを用意して、ケーキを取り出す。タルトの上に敷き詰められた苺を見て、兄貴は「すげぇ……」と喉を鳴らした。
「苺なんて高いんじゃないの」
「兄貴、下世話な話はしない」
「ごめん」
貰った側の俺が言うことじゃないけれど、これはあいつらの気持ちだ。金額で換算するようなものじゃない。
冷蔵庫から色の薄い麦茶を出し、二つのグラスに注ぐ。冷たければ、水道水だっておいしいさ。
「さ、食べよう」
「あぁ」
一口切り分け口に運ぶ。苺の酸味、カスタードクリームの甘味、タルト台のサクサクとした食感、どれをとっても美味しい。さすが、弘樹監修なだけある。
正面の兄貴を伺えば、彼はフォークでクリームをほんの少しだけ掬い、恐る恐るとなめていた。そんな、毒なんか入っていないんだから。フォークを咥えたまま無表情で数秒固まっていた彼は、今度はもう少し大きな切れ目を口に入れた。じっくりと舌の上で味わい、ゆっくり咀嚼する。そしてコクッと飲み込んだ兄貴は、「甘い……」と呟いた。
「そう? こんなもんじゃないかな。弘樹、甘いの好きだけど自分が糖分取りすぎないようにって、いつも砂糖は控えめにしてるんだけど」
もう一口食べ、首を傾げる。甘ったるい感じはなく、なんなら俺としてはもっと甘くてもいいくらいだ。決して、貰ったケーキにケチをつけるつもりは全くないが。
「甘いよ。すごく、甘い」
兄貴もまた小さな一口を口に含むと、突然に嗚咽を漏らした。ボタボタと、テーブルに、お皿に、涙が零れ落ちる。
「甘い……。こんな、甘いの、俺……」
兄貴の涙を見るなんて、何年ぶりだろう。父さんが出て行くよりも前、本当に幼い頃兄弟喧嘩で俺が兄貴を泣かして以来か。それなのに俺は案外心中落ち着いていた。
「兄貴。ケーキ、美味しい?」
尋ねると、兄貴はうつ向きがちに頷いた。何度も、頷いた。
「美味しい。でも俺、こんな美味しいの、食べちゃいけない……」
「いいんだよ。兄貴の食事を規制する人間は、もういないよ。それでも誰かの許可がほしいなら、俺が許可する。食べろって、命令してやってもいい」
兄貴がこんなに囚われていたなんて、気づかなかったんだ。知ってしまったからには、目をそらしたくない。美味しいものを食べることに罪悪感を抱かないで。兄貴をがんじがらめにしている鎖があるならば、俺が全力で引きちぎってやる。
「兄貴はたくさん頑張ってきたでしょ。ちょっとくらい休んでよ。俺に寄り掛かっていいからさ」
「俺、秀哉が思ってる以上に、秀哉のこと頼ってるよ」
「えー、そうかなぁ?」
「母さんのとこに行くの、正直気が重くて……。秀哉が小まめに様子見てくれてるからいいかって、俺、最近あんまり顔だしてない」
「うん。兄貴がつらくなるなら無理しないでよ」
「それから、ご近所付き合いとかも全部秀哉に任せてる」
「そんなのいいよ。お菓子とか貰えるから、俺が好きでおばさんたちと喋ってるだけだし」
「川本と二人きりになると緊張するから、今日も送りを秀哉に行かせた」
「んー、そこは兄貴もっと頑張ろうか……」
「俺、兄なのに、弟にいろんなこと押し付けて……」
「だから、いいんだって。俺、もう幼い子供と違うんだよ。来年は高校生だぞ」
「うん……。秀哉、ありがとう……」
兄貴は時々しゃくり上げながら何度も手の甲で目元を拭い、しかし拭っても拭っても、涙はとまらない。
溜め込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出す。もっと、その感情を晒け出してよ。全部、受け止めるから。涙でも叫び声でもなんでもいい。つらい気持ちは分かち合いたい。ついでに楽しい思いも共有して、一緒に笑いたい。
「さっきの友達に、ちゃんとありがとうって伝えておいて。すごく美味しかったって。あと、酷いこと言ってごめんって。それから、秀哉のこと、これからもよろしくお願いしますって」
「うん、任せといて。俺のことよろしくって自分で言うよ」
兄貴は頬を濡らしたまま顔を上げて、ふふっと笑った。憑き物が落ちたように柔らかい表情だった。
「母さんにも食べてもらわないとな。俺、ちょっと声かけてくる」
兄貴は立ち上がると、目元を拭いつつ奥の部屋へ向かった。
すぐに戻ってくるかなと思っていたが、兄貴はなかなか部屋から出てこない。話してる内容までは聞き取れないが、聞こえてくる兄貴の声は柔らかくて、少し弾んでいた。
俺にできることがあるだろうか。来週には十五歳になる俺に、家族のために何ができるだろうか。
大丈夫。できることがある。一人で頑張るんじゃない。兄貴と同じ方向を向いて、手を取り合っていくんだから。背中を支えてくれる人も、たくさんいるんだから。
しばらくして、目元を赤くした兄貴が戻ってきた。「母さんも食べるって」と泣き笑いを浮かべながら、再びテーブルに着く。
「美味しいな。本当、すごく美味しい。秀哉の友達、こんなの作れるなんてすげぇな」
そしてまた残りのケーキを食べ、涙を零していた。
「そりゃそうだよ。だって、俺の友達だもん」
信頼のある俺の友達が、俺のために、兄貴と母さんのために作ってくれたケーキだもん。美味しいに決まってるよ。
鼻の奥がツンと痛んだ。だってさ、目の前でこんなボロボロに泣かれちゃ、こっちももらい泣きしちまうよ。
最後の一口を口に含む。苺は酸っぱくて、頬を伝ってきた涙はしょっぱくて、あぁ、でも、やっぱりすごく甘いや。