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夢の中の君

 私はその日、大人になるという奇妙な夢を見た。

 枕を変え、首から上を包むこの世のものとは思えないほどの心地よさに酔いしれ、そのまますとんと眠りに落ちたその後――正確には目覚める直前である。

 多分おそらくきっと、それは空が明るくなり始めた早朝の頃だったと思う。私は朧気な世界で、色がついているバージョンの夢を見た。忘れたくない内容であったので、これから覚えている限り書き出したい所存である。

 でも夢は夢なので、いささか信憑性には乏しい。

 ご留意頂きたい。


 ■■■


 私は親の事情により、住んでいた田舎町から更に田舎度合いを重ねたド田舎に引っ越すこととなった。友達と離れたり、使い慣れた駅のホームから遠ざかったりするわけなのだが、どういうわけか私の中に悲しいとか嫌だとか、そういったマイナスな感情は巣喰ってはいなかった。何故だろうと疑問に感じたが、今考えてみれば当然である。何せ私は仏の顔も300回は微笑むだろう最高級の枕の上で寝ていたのだ。それほど極上の睡眠環境で悪夢を見る方がおかしい。

 そして、ゆらゆら自動車に揺られ始めて数時間後、私は新境地に降り立つ。多分、私が新しい自宅に到着した頃は夜だったのだろう。すぐに私は自分のベッドで眠っていた。夢の中で眠るとは何とも形容しがたい不思議な感覚だが、夢の方では私の枕は最高級ではなかった。いつも通りの、ぺったんこ激安枕である。

 こうして一睡する毎に、私の背は0.1センチほど伸びる。と、信じたいのは思春期の子供をして必然であろう。1ミリではない。あくまでも0.1センチである。これは気持ち的な問題だ、いちいち「細かいなぁ」と言われてはこちらも返答に困ってしまう。

 165センチ。私の身長だ。19歳をしてこの身長では……一向にモテないではないか。男として、この背丈で納得出来るほど人生諦めてもいないし、希望も捨てていない。

 そんなことをうだうだ徒然だらだらと考えているうちに普段は眠りにつくのだ。夢の中でも、そうだったのか。わからない。眠る自分を俯瞰的に見つめた後、一気に場面は飛ぶ。

 夢の展開はいつも唐突だ。

 私の背も唐突に182センチになったりしないのだろうか。


 ■■■


 しとしとと、雨が降り注いでいた。

 場所は多分新しく通うことになった高校(私は大学生であるのに)で、私はグラウンドのど真ん中でずぶ濡れになっていた。傘は持たず、かといって何か雨避けのグッズを身につけているわけでもなく、ただ、普段は天気予報の台風みたいにくるくるの天パが今だけはストレートになっていて、目の前を水滴が滴り落ちている。

 唐突に私はこう思った。


「授業に遅刻してしまう! 急がねば!」


 唐突だなぁ、と、私を見ていた私も思った。

 高校生の私は大学生の私を置き去りにして、何故か靴を履かずに泥まみれのグラウンドを校舎に向かって走っていった。真っ白の靴下がみるみる内に汚れていく。まるで『泥だらけの水溜まりの中で雄ウシと戦っている』かのような有り様だ。これは英語の授業で習った英文の和訳である。夢だから何でもアリなのだ。

 グラウンドを抜けると校舎の前はアスファルトで舗装されていて、ここまでは泥や砂は入ってきていなかった。もう元からそんな色であったかのように、私の靴下は枯れ葉のような色をしている。

 校舎前には、何故か屋外にあって水浸しになっている靴箱があった。その『23』とプレートの入った一つのロッカーを開けて、中を見る。上靴と、置き勉した教科書と、友人からの手紙とポテトチップスの袋、それから青いハンカチ。

 何の因果かは知らないが、それはかつて私が高校生の頃使用していたロッカーの中身そっくりであった。

 懐かしい、と大学生の私はふわふわりと感じた。上靴には印象的な赤いラインが入っているし、教科書の表紙に描かれているイラストはどこか不細工だ。手紙の中身は確か『ラブレターかと思ったか?ざんねーん!!』だったと思う。ポテトチップスは賞味期限が切れたから何となく捨てられず置いてあるだけだ。ハンカチが青いのは私が絵の具を溢したからである。

 高校生の私は上靴以外には目もくれなかった。

 高校生の私は上靴に履き替え、水浸しの下靴は友人からのイタズラの上に雑に放り投げられた。

 じわりとイタズラは枯れ葉色に染まった。

 上靴に履き替えた私の靴下はどういうわけか真っ白に戻っていた。


 ■■■


「兵庫県の神山高校から来ました! 竹垣真二です! 今から一発ギャグやりまーすっ! はい、そんなのかんけーねぇ!」


 教室を失笑と失望が支配した。私が恥じらいという訳のわからない感情をかなぐり捨ててようやく実行したギャグは失敗に終わった。そしておそらくだが、これから始まるであろう二年間の新しい高校生活も終わったんじゃないだろうか、なんてぼんやり思っていたと思う気がすると思う。

 そこらへんは曖昧だった、夢だから。

 ともかく私は、転校先の高校の自己紹介で大失敗を成功させたのだ。笑いたくば笑え、私はそれだけの人間だった。

 あぁ恥ずかしい。人間と仲良く出来るかどうかは初対面の印象に引っ張られるのが常というのに。

 高校生の私も大学生の私もそう思って、赤面する。前者は担任と思われる人物に勧められた席に着席し、後者はそのすぐ後ろに立った。空いていた席は教卓の真ん前の列、前から三番目である。教室を全体的に見て、丁度真ん中辺りだ。

 そして何か別のことを考えていて全く頭に内容が入ってこなかったショートホームルームが終幕し、休み時間。周りの生徒は私を見て移動教室の準備を整えつつ、笑っていた。そんなに笑いたいか。なんて、さっき笑わば笑えと思っていた二人の私は怒りすら混じった感情をもって心の中で叫ぶ。


「や。転校生くん」


 とは、彼女の第一声だった。私は思わず声がした方向を見る。

 左斜め前の席から、透き通ったガラス玉みたいな声が聞こえる。輝く水飴のようでもあったし、無色透明な酸素のようでもあった――その声。

 その声は、担任の戯れ言じみた業務連絡をまるで受け付けなかった私の耳にするりと入り込んで、大脳辺縁形、さらには大脳新皮質にまで到達。

 まるで産声を聞いたかのような心地に駆られた。

 それは高級枕を頭に据えて十時間爆睡して目覚めた時の感覚に似ている。気がしたのだった。

 私は笑わされてしまった。彼女は一発ギャグをしたわけでもないのに。いや、ある意味一発ギャグだった。それほど、彼女から声をかけられるなど突飛なことだったからだ。


「ええっと……はは。恥ずかしいな、なんか」


「やーやー、面白かったよ。きみは才能があるね」


「え? ……いや、まさか。ホントに?」


「うん。黒歴史を生み出す才能だよね」


「……」


「ははははっ! いや、ゴメンゴメン。でもあたしは、そーゆー才能、嫌いじゃないよ。転校生くん」


 彼女の目は真っ直ぐ私を見ていた。何故だか、高校生の私の後ろにいる大学生の私の目を見ているような気がして、まさかと思い目を擦る。

 そうだよな、そうだった。彼女は高校生の私しか見ていない。びっくりした。

 しかし擦ったところで、目は覚めなかった。早朝の夢は続くのだ。彼女の目のように、真っ直ぐ真っ直ぐ、今の私にまで続いていくのである。


「――100万人がいるとしたら、きっとその中のただ一人、私だけがきみを歓迎するよ。ようこそ!」


 ちょっと意味がわからないのだった。

 夢だから、しかたないか?


 ■■■


 結局のところ、私の友人と言えるのは彼女だけのようだった。他の生徒は登場人物としてカウントされていない。どうやら、この夢の中の重要人物は彼女しかいないらしい。

 彼女の外観について記そう。

 はっきり言って覚えていない。大学生の私は彼女を見ているはずなのに、「彼女である」という認識しか起こらないのだ。でも髪が風に揺れていたから、ロングヘアーなのは確定である。私はどちらかと言うならショートの方が好みだったのだが……彼女は、端的に言えば私のドストライクのようだった。

 めちゃくちゃ可愛かった。

 新天地で心もとない私。新学校で緊張してしまった私。自己紹介で滑ってしまった私。その全ての私を救ってくれたのが彼女だったのである。おまけにストライクとなれば、惚れるのに時間はかからなかった。

 ついでに言えば大学生の私も彼女の仕草には思わずキュンとする。もはやキュンを通り越してズキュンだ。更にはズキュンを飛び越えてメガキュンである。その名の通り目がキュンキュンとハートマークに染まりそうなほど、彼女と親しく会話したりお弁当を食べたり、忘れた教科書を貸してもらう度に何度も私は彼女に惚れ直していった。

 と、いう事実が高校生の私の記憶に残っている。

 ハッキリと場面は浮かび上がらないけど、何故か心に、そんなことがあったなという気持ちが蔓延していた。夢だから、それは高校生の私を見ている大学生の私にも伝わって、気付くことがあった。


「そうだ、私は高校生の頃……誰かに恋をしていたのだっけ」


 朧気な記憶だった。高校生の頃の話なのに、もう片想いの相手を忘れてしまったのかと自分で自分に呆れてしまいそうになる。

 でも多分、夢から覚めたところで朧気な記憶は朧気な記憶のままであろうと思う。

 夢とは忘れるものであるし、記憶も忘れるものだからだ。

 いらない記憶なら消すだけなのである、人間の脳は。


 ■■■


 彼女は名前を頑なに教えてくれなかった。

 こちらはあれほど勇気を振り絞って自己紹介したというのに、私は彼女の上も下も、名前を知らない。だから私は基本彼女を『才能さん』と呼んでいた。彼女もまた私を『転校生くん』と呼んでいて、本名の方は忘れてしまっているのかもしれなかった。

 私の名は竹垣真二である。好きな人から名前を覚えてもらえないというのは中々ショックだった。……しかし、不思議と違和感はない。クラスメイトの彼女はただ『才能さん』であったし、高校生の私は普通に『転校生くん』だった。摂理、物理、論理の三種は夢でボコボコに蹂躙される三大要素である。これもその一つのようだった。

 大学生の私は、教室の窓際で向かい合って昼食を食べている二人を見つめている。


「ねぇ転校生くん。その唐揚げちょーだいよ。一回食べてみたかったんだー」


「……才能さん、唐揚げ食べたことないの?」


「その呼び方止めてってー」


「え? じゃあ名前教えろよ。呼んでやるから」


「あたしは■■■だよ」


「……? なんて?」


「ん? ■■■。なになにー、難聴の才能でもあるのかい転校生くん?」


 彼女はとても不思議な人だ。

 不思議すぎて、私の理解の範囲には及ばない。

 私の脳内で形作られた存在だというのに、彼女は……ちょっとばかし自由過ぎる。

 そもそも夢の中だというのならさっさと彼女と付き合うなり一緒に映画に行くなりしろよと、高校生の私を眺める大学生の私は500回ほど念じた。しかし転校から数週間経っても、高校生の私と彼女はお昼に二人でお弁当を食べる関係止まり。

 今すぐその弁当箱を窓から放り投げて早退届を職員室に提出し彼女を喫茶店へ連行しろ、と大学生の私は念じた。じれったくていよいよ我慢の限界だったのだ。

 これを念じたのはさすがに1回目である。


 ■■■


 また場面が変わった。

 今度は、学校から近い駅のホーム。暗めなので、多分時間帯は夜だ。

 どうやらまだ雨が降り続いているようだったが、私たちはやはり雨具など装備しておらず、色褪せたベンチに座って電車を待っていた。雨避けの屋根がショボいので、目の前を水滴が滴り落ちている。それはさっき見た光景に似ていた――私の前髪は雨避けだったのである。降り注ぐ危機を、いや、自分の方を世界から切り離して、それで心の安定を保つための装置。私が嫌なことから逃げるための仕組み。


「明日、っていうかもうあとちょっとしたら転校生くんの誕生日っしょ?」


 彼女は突発的にそんなことを言ってきた。脈絡がないにもほどがある。


「そうだな。才能さん、プレゼントくれる?」


「いいよー。はい、腕時計」


「サンキュ。かっけー」


 …………。

 さすがに進展しすぎである。

 お弁当のシーンからどれくらい経ったのだろうか……。


「あー、そうだ。言っておきたいことがあるの」


「ん?」


「多分明日、あたし、もういないからさ。消えちゃうんだー」


「そうか。消えるか」


 彼らを見守る大学生の私は雨避けの屋根の下に入れてもらえず、びしょ濡れになりながら絶句した。

 いない? 消える? 彼女が? 明日には?

 一体どういうことなのか、おい、高校生の私よ、彼女に説明するように求めるのだ。いや、そんな軽く流してる場合ではないだろう。今ここに未来のお前がいるというのに、何だその能天気でムカつく顔は。明らかに浮かれているだろう。まさか、私が見物するシーンを間違えたがために決定的な瞬間を見逃してしまったというのか? ちょっと待て、だとしたら「今」はいつだ。そもそも私はいつ転校生になったのだ?

 考えろ!

 頭をフル回転させるのだ私よ! 二人ともだ!


「あんまり驚かないね?」


「うーん。だって考えてもしょうがないしな。そういうもんなんだもんな」


「そうだね。そういうもんだね」


 高校生の私に諭されてしまった。

 大は小を兼ねる。私がこの人生で唯一と言っていいほど信仰してきた諺だったが、私はふと、これに疑問を感じてしまう。

 彼ら、つまり夢を見ている私は大学生だ。学力も思考も運動能力もモテ度も身長も、高校生の頃の未熟な私からは格段にパワーアップ、もといバージョンアップしているはずであって、こんなことになっていいはずがないのである。

 私は高校生の160センチから165センチに大きくなって、それでいて……何か一つでも昔の私に諭されてしまうなど。負けてしまうなど。

 認めない、こんなもの認めないぞ。そうだ、私は負けたのではない。ここは熱くなるのが普通だ。当然の摂理だ。私の好きな人が消えるなど、それこそあってはならないのだから。

 ただし、ここは夢の中なので摂理も物理も論理もあったものではない、という事実を私は忘れていたのである。


「じゃあ、今から家来る? ご褒美あげる!」


「おお、気になるな、行こうか」


 ずぶ濡れの私をガン無視し、彼らはちんけなホームから陳腐な改札を逆流して駅から退場していった。

 遠目に見ると、高校生の私も彼女も、全く濡れていない。むしろ晴れていた。彼らの周りだけ、明るい光で満ちている。

 いや……今は夜のはずで……雨がそんなピンポイントで止むわけ……。

 その時私は思い出した。そう、ここは夢の中。

 何でもアリ。

 私があのパクり滑り最悪ギャグをかました後に、おそらくは物の見事に同じクラスの恋人をゲットしたとしても、不思議なことではない。

 大学生の私は、気が付けば泣いていた。なかなかに悔しかったのである。私は夢の中で、昔の私に負けた。私はあの頃からまるで成長していなかった。むしろ退化していた。どうしてこうなってしまったのかと、多分目覚めた時に思うだろう。

 次に瞬きをすると、もうそこは駅のホームではなく、彼女の家、彼女の部屋だった。涙は止まっていて、泣いた跡すら残っていない。夢は便利なものだったが、胸に蔓延るこの切なさだけはどうしようもなかった。


 ■■■


 高校生の私は彼女の部屋で、これはこれはご立派だと言わざるを得ないほどの質量を持ったケーキを前に座っていた。

 如何にもシンプルでスタンダード、オーソドックスな生クリームケーキ。上には12個ほどのイチゴが得意気にトッピングされている。強いて特筆すべき点を挙げるとすれば、ブスブスと無遠慮にホールケーキの屋上に刺さっている20本丁度の蝋燭と、まるでミステリーサークルのようにでかでかとチョコペンで書かれた『20』の数字。

 私はそれを見て、宇宙人が地球人に対して抱いている気持ちが少し解ったような気がした。もし私が宇宙人で、地球の表面に『20』と大きく描かれていて、その側で必死に宇宙人との交信を試みている地球人が12人いたとすれば、もう呆れるしかないであろう。こいつら何アホなことしてんだろう、と。


「ハッピバースデートューユー」


 彼女はたった一人で、高校生の私を祝福していた。

 せっかくなので私は昔の私のすぐ隣に座り、彼女の祝福を受けている気分に浸ることにした。


「ハッピバースデートューユー」


 彼女は一人ながらも手を叩き、笑顔で、照れつつも真っ直ぐに私の目を見て、誕生日を祝ってくれている。


「ハッピバースデーディーアテンコセくーん」


 高校生の私はここで吹き出してしまった。ついでに言えば大学生の私も吹き出した。それを確認すると、彼女はしたり顔でニヤつく。私はテンコセという謎の人物になってしまったのだ。

 テンコセと化した高校生の私は、待ってましたとばかりに空気を吸い込み、20の蝋燭を消火する準備に掛かる。

 そして……。


「ハッピバースデートゥ――――――――」


「……! ……!!」


 彼女は不思議な人であると同時に、とても意地悪な人のようだった。何時まで経ってもロングトーンを切り上げない。

 はっきり申し上げよう、これは緊急事態である。

 彼女は愉快犯で、この状況に内心ほくそ笑む。

 私はなにぶんプライドが高いので、彼女の前で吸い込んだ息を無様に吐き出したくはない。

 もしここで息止めを我慢出来なくなり、火を吹き消してしまえば彼女はこう言うんじゃないだろうか。


「ははははっ! えー? まだ言い終わってないよぉ? 何の才能なのさそれー! ぷ……確かに! 確かに才能だこれ! あ、ゴメンゴメン、笑わないって……くく……っ!」


 ――そんなもの、断じて認めん!

 何が才能だ、何の才能なのだ、何にも役立たない才能ではないか!

 ただ、我慢すればするほど私の肉体が悲鳴をあげるのも時間の問題である。自分のことだからわかる。そろそろ限界が近い頃であろう。


「……っ!」


 しかし私は負けなかった。負けることが出来なかった。

 私は肺に残った僅かな空気から取り入れた酸素を精一杯脳に送り、一つの攻撃を彼女に仕掛けることにしたのだ。今の私ができる最大限の精一杯、これ以上などない手を打つのである。それは見たもの全てを歓喜の空気に満たし、幸福の感情を呼び起こさせ、口角を無理やり吊り上げさせる効果を持つ禁断の魔法。世界で一番素晴らしい奇術。

 まあ有り体に言えば変顔である。


「――! ……っ! …………ユー……」


「――ふうううううう!! はぁ苦しっ!」


 果たして、高校生の私が繰り出した渾身の一撃は上手くいったようである。彼女はとうとう意地悪を諦め、私のギャグに陥落した。

 彼女はとても可愛らしくツボに入っていて、高校生の私の前で回復体位状態となり床を叩いてのたうち回る始末である。二人の私はそれぞれ、そんな彼女のあられもない姿を見て、ぼんやりとした、不思議な気持ちに包まれた。まるで夢を見ているかのような、無重力が辺りを支配しているかのような――さっきまであれほど酸素を摂取できずぷるぷるしていたというのに、私は呼吸をすることすら忘れていた。


「……才能さん、もしかして俺のギャグで笑ったくれた?」


 ――俺?


「……ん。そーだね。転校生くん、普段は全然面白くないんだけどねえ。面白くない才能があったんだけどねえ」


「おいおい」


「でも、今のは良かったよ。面白かった。これなら、クラスのみんなにも汚名返上待ったなし」


 蝋燭は消えて、部屋の中は真っ暗になっていた。あの火を吹き消した瞬間の独特の香りがカーペットに染み入る。窓のカーテンがきっちり閉まっているからか、自分の腕すら見えなかった。

 ただ一つだけ分かるのは、息遣いが教えてくれる彼女の位置。


「――ぐすっ」


「才能さん?」


「……う、ううん。ゴメンゴメン。何か、さ。泣けてきちゃって…………ぐすっ」


 大学生の私はその暗闇と静寂の部屋で、彼女が泣いている最中も、高校生の私が彼女をあやしている状況でも、ずっと考え事をしていた。

 俺? 俺とは、私が言ったのか?

 私の一人称だというのか? おかしい、私の一人称は、私のはずで……俺? 高校生の頃、私は俺と言っていて……?

 そうだったのだろうか。夢だからなのか、どうなのか。

 私は何故――俺だなんて。

 彼女は涙を拭いて、か細い声で喋り始める。私と違って、彼女の目尻はきちんと赤くなっていた。そんな表情も可愛いと思った。


「――成長したね」


「成長だって?」


「転校生くん。きみの真の才能を、この才能さん自ら教えてあげよう」


「言ってくれる?」


「成長する、才能さ」


 成長する才能。

 私は昨日の私を越える。

 負けてはならない。

 成長する私。

 俺と、私。

 高校生と大学生。

 転校生くんと才能さん。

 色々違う。

 けど――同じもの。


「そうさ。今はまだ俺俺言ってトゲトゲしてる転校生くんも、いずれ大人になる。つまらなかったギャグが劇的に面白くなるかもしれない。実らなかった恋は忘れるかもしれない。高校の頃の思い出も、色褪せるかもしれない」


「才能さん」


「きみは成長する。……昨日の自分を、一週間の自分を、一ヶ月前の自分を、一年前の自分を、全部背負って、成長する。それって、きっと世界で一番素晴らしい才能なんだよ」


 その瞬間、大学生の私は高校生の私の姿がないことに気がついた。彼女の目は、いつかと同じように真っ直ぐ大学生の私の目を見つめている。気がした、だって真っ暗なんだもの。

 そこでようやく私は理解した。

 高校生も大学生もない。

 俺は俺であり、私は俺であり、俺は私だったのだ。

 二人は同じ人間だったのである。ここに、あの初初しくも恥ずかしい高校時代から成長した私がいる。

 ギャグをつまらないものだったと言い切れるようになったし、友人からのイタズララブレターを懐かしいと思えるようになった。好きな食べ物は唐揚げからカニ味噌になっている。友人から貰ったはずの腕時計はデザインが子供っぽくて、今では箪笥の上で雑に飾られているのみだ。同級生からの冷たい視線も、今ならば凛として無視できるであろう。枕だってちゃんとしたものを使っている。

 その時、不意に頭にかかっていた靄が晴れ、才能さんの顔が鮮明にイメージされた。

 私が高校生の頃告白してフラれた女の子そっくりであった。


「……私、あの時初めてきみの自己紹介を聞いたとき、本気で面白いと思ったんだ。あの頃から、好きだったんだ、真二のこと」


 一瞬だけ、吹き消したはずの蝋燭に、まるで逆再生したみたいに火が灯った。同時に私は「そんなはずはない、あんなもので惚れられるなど逆にゴメンだ」だなんてらしくもなく思ったが、刹那の間に瞳孔に入り込んできた彼女の顔を見て、もうどうでもよくなった。

 彼女は――私が夢の中で作り出した過去そのものは。

 才能さんは、泣きながら、笑っていた。

 これはそういう夢だったのだ。

 これ以上はないし、これ以下もない。


「――お誕生日おめでとうね。成人おめでとう。……さようなら、転校生くん」


 これは私が過去を理解し、揚げて蒸して焼いて煮込んで炒めて、そして飲み込むために見た必然的な記憶整理。

 極上高級枕が見せてくれた、青春の最後の輝き。

 それは他でもない私自身によって吹き消されたのだ。今こそ別れを告げよう。さらば、俺。ようこそ私。あばよ青春、やあ未来。

 さて、ここからは誰も知らない未知の領域だ。私が脳内で作り上げた才能さんも、きっと応援してくれるだろう。

 私は才能の塊なのである、名実共に。

 私はつまりそう、大人になるという奇妙な夢を見たのだった。


 ■■■


 ――今朝目が覚めた瞬間、私はみっともなく泣いていた。少し高い位置にある窓からはオレンジの朝日が私の腰辺りを照らしていた。どうやらカーテンを開けっぱなしにしていたらしい。

 寝転がったまましばらくぼーっとしていたが、いてもたってもいられなくなり、友人からプレゼントされた腕時計が上に置いてある箪笥をあさり、一冊の本を手に取る。

 高校の卒業アルバムである。

 すぐに片思いしていた「才能さん似」の彼女の写真を探す。


「……懐かしいな」


 つい独り言を呟いてしまうほど、彼女は私の中の記憶のまま、可愛らしい笑顔で、大小様々な写真に写り込んでいた。

 ただし、そこまで「才能さんそのもの」ではなかったことは明言しておこう。確かに面影はあるものの――これは、もしや。


「……才能さん。私とこの子に子供がいたなら、あんな感じになるかもしれない」


 なんて、平々凡々な一学生である私が呟いたところで確認しようもない。もう、才能さんの姿を忘れかけている。忘れたくない。私の過去を、ずっと心に留めておきたい。

 そう思い立った私は、この日が休みだったのを思い出して、机に向かった。大学生ではあるものの、別に勉強するわけではない。この夢を出来る限り、覚えている限り鮮明に書き出すのである。私は机の隅っこにゴミのように捨てられていた青いハンカチで涙を拭き、壁にかけてあるカレンダーを確認した。

 窓から入ってくる朝日に照らされて、今日の日付が爛々と輝いている。まるで蝋燭の火だ。


「――六月六日。誕生日おめでとう、私」


 私こと竹垣真二は、本日晴れて誕生日を迎え、二十歳、ハタチとなった。大人になるという夢は、ついさっき叶えられたのだ。

 今年は久し振りに自分にご褒美でもあげてみようかなんて画策しながら、私はノートを開いて夢を書き記す。

 たまに見返して、その時は感傷にでも浸ろう。

 才能さんの言っていた通り、私は成長する。あの夢を思い出す度、私はバージョンアップするのである。

 何だか今朝は非常に爽やかな気分だ。

 この爽やかさの起因するところは、おそらく身長が一センチは伸びて、166センチになっているから。

 であるはずだ。

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