出会いと別れと出会いの季節
春は出会いと別れの季節。
別れに涙を滲ませる人も、出会いに心弾ませる人もいるだろう。僕は後者だった。今の今までは。
目の前に不動産屋のおじいさん、隣には名も知らぬイケメン。
「いやあ、申し訳ない。こちらのミスで、二人とも同じ部屋に入居することになっていて…」
おじいさんは心底申し訳ないというように、肩をすぼめている。
「嘘だろじーさん…! じゃあなに、俺らに同居しろってのか?」
「物件が見つかる数日でいい! 同じ条件で、家賃も同じかそれよりも低いかで見つけるから、それまで勘弁してくれんかね」
はああ、とイケメンが深いため息を吐く。
部屋は二つあるんだ、お互いプライバシーは守られるだろう。
おじいさんのミスではあるのだが、なんだかいたたまれなくなって、僕は言った。
「いいですよ、そんな何ヶ月も一緒の部屋ってわけでもないですし…。子供じゃないんですから、上手くやりますって、ねえ?」
同意を求めるように、イケメンの方を向く。
イケメンはもう一度、深いため息を吐いた。
「じーさん、その間の家賃ってどうなるの?」
「なに、こちらのミスだ。払わせるようなことはしないよ」
「ふーん…。ならまあ、いいか」
イケメンはニヤッと笑って、こちらに手を差し出してきた。
「数日間の同棲、よろしく」
不動産屋から歩く帰り道、僕はもう一度同棲相手(仮)を眺める。
スラッと細長い手足に、整った顔立ち。緩くパーマのかけられた髪は、明るい茶色をしていた。
「とんだ災難だったな。陰キャくん」
しばらくして、振り向きざまにそう声をかけられた。
僕は少しムッとして言った。
「水野です、水野楓!」
「えー、おこなの? 悪かったって、仲良くしようぜ楓ちゃん!」
「楓ちゃんって……僕、男ですけど」
「んー、でもほら女顔だし」
僕の顔にピントを合わせるように、イケメンは片目をつむった。
僕は反射的にそっぽを向く。
「あれ女顔、気にしてた? ごめんね?」
「別に。夕飯どうしますか、陽キャさん」
図星を突かれて、ぶっきらぼうに答える。
イケメンは楽しそうな、本当に愉快そうな笑い声をあげた。
「確かに陽キャだけど、環って呼べよ。夕飯はコンビニ弁当で良くね?」
環はヒラヒラと手を振って、ニヤッと笑った。
「ダメだよ…! そんなんじゃいつか身体壊すよ?」
コンビニに歩いて行こうとする環を引っ張ってスーパーを探す。
荷物持ちが増えたから、重い物いっぱい買ってやろう。そんなことを思いながら。
引っ越してから数日。
昨日も一昨日も、その前も。ここ毎日、家に帰って来ると、甲高い鳴き声がする。
原因はもちろんあの男、環だ。
盗み聞きは野暮だろうし、なにより恋人なんていない僕が悲しくなるので、近所のファミレスで時間を潰すわけだが、こう毎日だとそろそろ怒りたくもなってくる。
今日こそひとこと言ってやろうと、僕はアパートの扉を開いた。
「ただいま……」
「おかえりー。お前最近帰り遅いな?」
「誰のせいだと!」
僕はふるふると肩を震わせた。それからひと息に言ってやる。
「あの! 恋人さんと仲が良いのは羨ましいけど! ヤるならホテルとかで……あの……」
勢いに任せて言い出したものの、だんだん声が小さくなる自分が情けない。
チラッと環を見ると、なんだか寂しそうな横顔をしていた。
「環……?」
「あ、うん、ごめんな。そうだよな、俺だけが住んでるんじゃないもんな」
必死に何かを取り繕うように、知らないフリをするように。
ふっと見えた影が、思ったよりも暗い気がして、僕はそっと目をつむった。
ぶーっ。
古いアパート特有の呼び鈴が鳴る。
一瞬ハッとした環は、慌てて玄関に駆けて行った。
「あっ、環ぃ。リナぁ、忘れ物しちゃったみたいぃ」
「え。今ちょっと人いるし、明日渡すんじゃダメか?」
間延びした、鼻が詰まったような女の声が聞こえる。
きっと環の恋人さんだろう。そう思って、僕は玄関に顔を覗かせた。
「忘れ物したんなら、どうぞ。それくらいなら別にいいよ」
そう言うと、女はひどく驚いたような顔をした。環が部屋の事情を話してなかったのだろうか。
「ありがとぉございまぁすぅ! 環って男の子もいけるんだねぇ」
ニヨニヨしながら靴を脱ぐ女。その後ろで環は居心地悪そうに立っているだけ。
迷いなく環の部屋に入って行った女は、すぐに戻ってきた。
「じゃあ、環。お取り込み中ごめんねぇ。また私で遊んでねぇ」
ばちこんとウィンクをかまし、女は去って行った。嵐のような子だ。
彼女が去った玄関には「男の子もいける」「また私で遊んで」の文字が漂っている。
いくら疎い僕とて、気付かないわけがなかった。
「あ、環……」
「ごめん、ちょっと今日は他泊まってくる」
それだけ言って、環は出て行ってしまった。カンカンと外の階段を下る音がする。
それほどあの子に「男もいける」と思われたのが嫌だったのか。
たった数日同じ屋根の下にいただけなのに、壁越しにひとりを感じた。
俺はなにから逃げ出したのか、自分でもさっぱりだった。
ただやるせないような、うんざりするような、そんなだるさだけが付きまとってくる。
「あれぇ? 環じゃん、どぉしたのぉ?」
さっきまで聞いていた声が、後ろから聞こえる。
振り返るとリナが気怠げに佇んでいた。
「ああ、ちょっと……」
「フラれたん?」
「いや違くて……」
そこまで言って、ハッとリナの方を見る。
しまった、と思ったがもう遅い。リナの目はキラキラと輝いていた。
「……そこのファミレスでなんか食おうぜ」
俺の口から、深いため息が飛び出た。
どうしてこうも女の子というのは恋愛の匂い漂ういざこざが好きなのか。
「でぇ、環は本当になんで逃げたか分かんないのぉ?」
「分かんないから困ってるんだよ…」
ざっと事情を話すと、リナはゆるゆると首を振った。
「きっと環はぁ、同居人君にぃ、遊んでるって思われたくないんだよぉ」
「なんで?」
俺が聞き返すと、リナはわざとらしくため息をついた。
本当に心当たりのない俺は、首を傾げるしかない。
「無自覚って怖いねぇ。とりあえず遊びの女の子たちを切ればいいと思うよぉ。そういう事なら私もバイバイするしぃ」
「は? なんでだよ、それとこれとは…」
「関係あるったらあるの!!」
いつになく強い調子で言い切るリナに、俺は意味もなく仰け反る。
リナは取り乱したと言うように咳払いをして、続けた。
「別に今の子たち切ってもぉ、環ならまたすぐ遊べる子見つかるでしょぉ?」
「まあ……多分……」
「だからぁ、一回切ってみてぇ、同居人君と向き合うことをオススメするよぉ?」
何を言いたいのかはさっぱりだが、普段おっとりしているリナがこんなに強く言うんだから、と頷く。
「うん、じゃあリナとも切れなきゃねぇ。ただで切るのも癪だから一発失礼するけどぉ」
パチンと左の頬から音が鳴る。
やがてヒリヒリと冷たいような熱いような痛みがやってきた。
「んふふ、綺麗に紅葉になったぁ。まぁ、またもし遊ぶ子を集めるようなら、リナのこと呼んでいいよぉ」
ひらひらっと手を振って、リナは去っていった。
左頬の痛みが正解を知っている気がして、俺は片っ端から女の子に電話をかけた。
昨日出て行ったきり、環は本当に一晩帰ってこなかった。
昼頃、そろそろと帰ってきた環の頬には、湿布が貼られている。
「あれ、環……? 今日は他に泊まるんじゃなかったの?」
「起きてたのか」
「なんか眠れなくて」
目線を手元の本から環に移した僕は、痛々しい環の顔に驚く。
「どしたの、それ」
「んー、女の子たちにもう会えないって連絡したら怒られちゃった」
「なんで急に……」
どうしてそんな連絡を入れたかは分からなかったが、なんだか安心して、僕はホッと肩をなでおろした。
あれ、なんで僕、安心してるんだ……?
「俺も一応色々考えてるんだからな! 疲れたから俺ちょっと寝ていい?」
「あ、うん。 今日夕方、部屋が見つかったから来いって不動産屋さんに言われたけど……」
「それまでには起きるよ。あと、昨日は悪かった。おやすみ」
環は早口で照れくさそうにそう言うと、そそくさと部屋に引っ込んでしまった。
「いやあ、待たせてしまって申し訳ない。 して、どっちが新しい部屋に行く?」
「んー、環が行った方が良くない? 僕の荷物けっこう多いし……」
「そうだなあ。 じゃあ俺が引っ越します」
にこにこと笑う環に、僕は少し寂しい気がした。
ほんの数日なのに。あんまり家が離れてないといいな、だなんて思った。
「君たち、なんかあったのかい。随分仲が良さそうじゃないか」
おじいさんが微笑ましいと言うように、目を細める。
「このまま家賃折半で二人で住むかい?」
「え、いや、それは……」
おじいさんの急な提案に、僕は苦笑いを浮かべた。隣を見ると、環も同じような顔でこちらを見ている。
環の瞳に映る僕が、あまりにも間抜けな顔をしていて、僕は吹き出した。
なぜか環はすぐに顔を逸らしてしまった。
「いいねえ、私にもそんな時期があったよ。さ、じゃあ引っ越しをする君だけ残ってくれるかな。詳しい話をしよう」
すぐに入れる物件だからと、環の引越しはすぐ明日に決まったらしい。
引越し業者さんも、おじいさんが手配してくれたようで、なんとも手早い対応だった。
「で、引越し先どこなの?」
「んー、ちょっと距離がなあ……」
離れているのか。
数日だとしても、同じ家で過ごした仲だ。無性に悲しくなった。
「うわ、なんて顔してんだよお前。ガキじゃあるまいし」
「だって……」
だって、なんだか喉の奥がクッて締まるんだ。
寂しいとも、悲しいともつかない、僕の知らない喪失感。
「ん、まあほら、大学に行く通り道だからさ。たまに飯食いに来たいなあ、とか思ってる」
環はぼそぼそと照れ臭そうにそう言う。
「コンビニ弁当ばっか食べてたらダメだからな! 美味しいもの作ってあげるから来いよ!」
「通い婚かな?」
からかうような環の言葉に、浮遊するような感覚に陥る。
さっきからなんだ、これ。妙に耳も熱いし、風邪だろうか。
「……押せばイケそう」
「なにが?」
「ああ、いや、なんでも。俺荷造りもあるし、そろそろ引っ込むわ」
嬉しそうな顔で環は部屋に入って行った。
僕も風邪が本格化しないうちに寝てしまおう。
とろとろと砂に沈むように、眠気が襲ってきた。
朝早いうちに環の荷物を引き払ってしまったら、妙に家が広い気がした。
「うわ、めっちゃ広く感じるな」
「本当に。寂しくなるな」
改めて少ししょげた俺に、環はなんだかニヤニヤしている。
「なんだよ?」
「多分今日の午後辺り良いことあるから、そんなしょげんなって」
「なにそれ」
「あれぇ、知らなかった? 俺予言出来るんだぜ?」
「はいはい」
おどける環に、少しだけ笑ってしまった。
環なりに気を使ってくれたのだろうか。イケメンが気を回し始めたら、僕らフツメンは居場所がないなあ、だなんてぼんやりと思う。
「っていうか僕、結局環の家どこか聞いてないんだけど」
「それは心配ご無用だよ。多分すぐバレるし、分かんなかったら連絡くれりゃ地図送ってやるから」
「ふーん……」
多分すぐバレる、というのが少し引っ掛かったが、もう環が出る時間だ。あまり引き留めても良くないだろう。
「じゃあ、俺そろそろ行くから」
「うん。じゃあ、また」
玄関を出る環に、僕の喉がまた少し締まった。
環が出て行ってしまって、一部屋空いたので、僕は本格的に荷解きを始めた。
どうせすぐどちらかが出ることになるからと、僕も環も最低限の物しか出さなかった。
あらかた片付け終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
ぶーっ。
呼び鈴が鳴った。
「はーい?」
『すみません、今日隣に引っ越してきた者なんですが……。ご挨拶に伺いました』
ぼそぼそと男の声が聞こえる。
出たり入ったり、今日はこのアパートも忙しい日だと思った。
ドアを開ける。
そこには。
間違えて二人分炊いてしまったご飯は、無駄にはならなそうだ。