キスは突然に
「えっと……次は水で綺麗にしていくわ」
「水だな」
ボロ布の用意に気を取られていたリリアだが、得意げなエレスの様子に先ほどまでの不思議な光景がよぎった。
次は「水で濡らした布で小屋内を拭いていく」のだがもし、今までの調子で水の力を使うのだとしたら。
リリアがそこまで思い当たった時にはもう遅かった。
「エレス、まっ……!」
リリアが続きを言う前にはもうご機嫌なエレスの指が動き、そして。
バッシャアン!
小屋の中はどこかしこも水浸しになってしまった。
まるで小屋の中で雨が降ったような有様だ。
さきほど埋めた壁の穴は小さく完全に乾いていたからまた泥に戻るという事はなかったが、水浸しの床に、これまた水浸しな天井からポタポタと水滴が落ちる。
「…………」
リリアはあんぐりと口を開け固まっていた。
家具を全て運び出していて良かったと頭の片隅でぼんやり考える。
一方今回もリリアから感謝が返ってくるだろうと得意満面だったエレスだが、黙りこくるリリアに様子がおかしい事に気づいた。
エレスは細く長い指でそっとリリアの手をとってリリアの顔を覗き込むように目を見つめる。
黙っていれば威圧されてしまいそうなほど美しく神秘的な顔が、今はただ戸惑い、リリアの次の言葉を不安そうだった。
「何か間違っていたか?」
エレスの美貌をまともに食らって惚けていたリリアは我に返る。
「ええまあ……。あ、でもちょっと驚いただけなの」
小さな子供みたい、とリリアは思った。
孤児院は小さな子供も自分で出来る事は出来るだけ自分でやるのが基本だ。
それはプライバシーと効率の事もあるが、引き取られた時に自分の事が出来ないようでは困るからだ。
だが最初から何でも完璧に出来る人間はそういない。
だから孤児院での過ごし方などを先にいた人に教えてもらうのだ。
分別のつく年頃の子供には加護の無いリリアは不人気だったが、小さな子供はリリアを異端視せず言う事を素直に聞き入れてくれていた。
懐いていても成長するにつれやはりリリアと距離を取るようになるのは寂しかったが、それは社会生活の中では正しい事だとリリアは納得している。
そして、リリアにとって今のエレスは孤児院で支度や作業を練習してはリリアに見せてくる小さな子供のようだった。
ましてエレスは精霊なのだから、人間の家掃除の仕方など当然知らないはずだ。
リリアはなるべく安心させるように微笑んで、添えられていたエレスの手を逆に包み込む。
「私を助けてくれようとしたんでしょう? 嬉しいわ。それに、お洗濯の時は大助かりしそう」
そう言えばエレスはほっとしたように表情を緩めた。
エレスが詳しく聞きたがるので、リリアは改めて掃除の意義とやり方を詳しく説明する。
「……というわけで、お掃除は基本的に快適に暮らす為のものなの。私がさっき『お水で綺麗にする』って言ったのは、この雑巾に水を含ませて床を拭くって意味よ」
一通り掃除についてを聞き終えたエレスは分かったような分かっていないような、曖昧かつ神妙な顔で頷いた。
そして未だに水滴を落とす天井を見て呟く。
「つまり、今の状況はやりすぎという事だな」
「……」
リリアは沈黙で肯定してしまう。
エレスが溜息をつくと、リリアの瞬きの合間に小屋の中に滴っていた水は綺麗に無くなっていた。
いやただ消えただけではなく、軽い汚れや塵もないようである。
これも精霊の力なのだろうか。
驚いて振り返ると、エレスはそわそわとリリアの反応を待っていた。
ちらちらとリリアの方を見てはどうだろうか、という心の声が全身から漏れ出ている。
「すごいわエレス!あなたって本当に何でも出来るのね」
リリアも今度は手放しで褒める。
今日は掃除だけで終わる……いや、小屋の状態から快適に過ごせるようになるには数日かかるだろうと思っていたのだ。
だが今はまだ昼に差し掛かったくらいの時間にしかなっていない。
リリアはエレスににっこりと微笑み、エレスはほっとしたように笑う。
「あなたのおかげで大助かりよ。ありがとうエレス」
「どうという事はない、乙女」
「でも本当に嬉しいの。お礼をしたいわエレス。何がいいかしら」
「この程度で礼などいらん」
運び出した時と同じようにエレスが家具を風で運び入れる。
全く以て不思議な光景だが、本当にお礼はいらないのだろうか。
口ではいらないと言っていてもその実報酬を目当てにしていたり、本当に何もいらなかったり。
屋根裏で見聞きした人々は難解な反応をしていた。
リリアは遠巻きにされていたのでそれらを見分けるのがあまり得意ではないのだ。
精霊の場合はどうなのだろう。
エレスはさっぱりと綺麗になった小屋に興味が移ったらしく、小屋の中を熱心に見て回っている。
本当にお礼の事はどうでも良さそうだ。
「確かに場が整っているな。なるほど、掃除というものは素晴らしい」
「そうでしょう? 今日のお掃除はこれでおしまい」
「今日の?」
「そうよ。生活していればまた汚れていくもの。出来るだけこの状態を維持していくのが私たちにとってもこの小屋にとっても良い事なのよ」
そういうものか、と精霊の王は素直に頷く。
いずれは暖炉の煙突掃除や屋根の点検も必要になるだろう。
だがそれはもっと生活が落ち着いてからでいいはずだ。
昨日の段階で暖炉は使用されていたから、おそらくまだ使える、とリリアは判断した。
「そういえば腹が減った。そうだな、礼をというのなら人の作る料理を食べてみたい」
そう言ってエレスは優雅に身を屈め、自然な動作でリリアの額にキスをする。
軽く触れるだけのそれは汲みたての井戸水で顔を洗った時のような清らかな気配と新緑の香りがした。
だが触れ合いに慣れていないリリアは、突然のキスにピシリと固まってしまう。
心臓だけがバクバクと動いて、身体がおかしくなってしまったようだ。
原因のエレスはといえば、先ほどのキスの事など全く気にしていないようであっけらかんとしていた。
「リリア? 料理が苦手なら私は果物だけでも全く構わないが」
(キスより果物の話!?)
一度目のキスはうやむやになっていた。
リリアも色々あったのもあり、考えないようにしていたのだ。
もしキスの事を考えてしまうとリリアは冷静でいられなくなる予感があった。
それなのに。
「リリア、またファイアベリーのようになっているぞ」
エレスは面白そうに真っ赤になって固まったリリアの顔を覗き込む。
(だ、誰のせいだと思ってるの!)
とリリアは思ったが上手く頭が働かず叫ぶ気力もない。