9 私達のお嬢さま ☆リリー視点
リックコルドン家は、市街地の中心から少し外れた閑静な居住区にあります。
落ち着いた緑と栗色の塗り壁が美しい、大きなお屋敷です。
古くから王都に栄えた商家だけあって、敷地面積はとても広く、貴族であれば侯爵家と同じくらいの規模でしょう。
敷地内には工房も併設していて、住み込みの従業員用に別棟も備えています。
工房からは外を通らずに屋敷の1階へ行き来できるので、雨の日などは大変便利です。
私生活と仕事は常に隣り合わせ。
『ピース』を経営するそんな一家のお屋敷は、デザイナーズブランドとしてはとても珍しい造りなのでしょう。
旦那様や奥様、お嬢さまは私達従業員をまるで家族のように扱ってくださいます。
時に頑固で厳しいところもある旦那様ですが、横暴なところはなくお優しい方であるのを皆がよく知っています。
そんな旦那様を支える奥様は、40歳を過ぎてなおとてもお美しい方で、何かにつけて気さくに声をかけて、皆をいたわってくださいます。
会計を任されている奥様と経営全般を取り仕切っている旦那様は、大変な時をいつも支え合って来たのだと一目で分かる、それは素敵なご夫婦なのです。
そして、そんなご夫婦に育てられたお嬢さま。
奥様によく似たふわふわの金髪に、お名前の通り翡翠の宝石によく似た深緑の瞳。旦那様によく似たお優しくて真っ直ぐな気質。
最初にお会いした時はまだ14歳で中等部に通われていましたが、今は成人されてすっかりお美しい女性になられました。
いつも明るく前向きで、内気なところも多い職人達を元気づけてくれる、私達のアイドルです。
今日はお嬢さまが外出されるところに出くわしました。
正装とはいかないまでも、いつもよりお洒落に磨きがかかっています。
お年頃で大変素敵なお嬢さまですのに、浮いた話のひとつも無いものですから、今日こそはもしやと思いましたが……
「必ず使えそうなものを見つけてくるから!」
どうやら仕入れだったようです。
メルトンに出品するドレスの、最後のパーツであるチュールレース。
アテが見つかったと、お嬢さまは意気込んで出かけられて行きました。
先日荒らされた倉庫を見て、お嬢さまがどれ程落胆されていたか私達は分かっています。
自分たちの作った物や、材料を踏み荒らされたのは許せませんでしたし、ショックでした。
でもそれ以上に心が痛かったのは、いつもは元気なお嬢さまが赤い目をして唇を引き結んでいたからです。
口数も少なく片付けながら時折目元を拭っているのを、皆見ないふりをしていましたが、ひどく心配に思えました。
次の日になって、お嬢さまが気丈に笑ってくださったのを見て、私達は自分も頑張っている姿を見せなくてはという気になりました。
お優しいお嬢さまに、早く心から元気になって欲しい。
そのために自分たちが出来ることをやろうと、誰から言わずとも皆同じ気持ちでいるのです。
私達は一枚岩。その要は旦那様でも奥様でもなく、お嬢さまなのです。
工房に向かおうと、屋敷の書類部屋の前を通りかかったとき、勢いよくドアが開きました。
いつもは冷静な旦那様が、珍しく慌てた様子で出てこられます。
「リリー、ヒスイを見なかったかい?」
私を見ると、早口に尋ねられます。
「お嬢さまでしたら……例のチュールレースを仕入れに行くと、お出かけになられましたが……」
「出かけたか、そうか……どこへ行ったか分かるかい? いつ頃戻ると?」
「いえ、聞いておりません。お急ぎのご用でしたか?」
「ああ……急ぎというか、困ったことになった」
旦那様の後ろ、書類部屋から針子がふたり、困惑した顔で出て来ます。
振り返ると、旦那様はふたりに向かって尋ねました。
「納品報告書は、もう届いている頃だと思うかい?」
「おそらく……一昨日には届いているかと……」
「なんてことだ……サインの前に私が鑑るべきだった」
深刻そうな雰囲気でしたが、話の内容が分かりません。
「あの、何があったんですか?」
「リリーは、アクアマリンが納品されたのは知っていたかい?」
「あ、はい。確かお嬢さまが仰っておりました」
「私は昨日の夜ヒスイから聞いてね、見ておいて欲しいと言われたんだ」
「はい」
「そうしたら……」
旦那様はふい、と書類部屋の中に戻ります。
私と針子のふたりもその後を追いました。
デスクの上に置かれた、木の箱と包み。
その中からガサガサと水色に光る大きなアクアマリンを取り出した旦那様は、懐から出した宝石鑑定用ルーペをあてて、水色の光を透かし見ます。
「これほどの大きさになって、濁りがまるでない」
「素晴らしい品質なのですね」
「いや……綺麗すぎて不自然だ。おそらく人工的に造られた水晶に着色したものだろう」
「えっ……?」
それは、まさか……
「――偽物だ」
ため息交じりの旦那様の言葉に「そんなまさか」と思わず呟いてしまいました。
熟練の鑑定士である旦那様が、目利きを誤るわけがないと知っているのに。
アクアマリンはれっきとした宝石商から仕入れた品物だったはずです。
それが偽物?
「ヒスイは何故すぐに確認しなかったのだろう……ルーペを使えば、今のあの子なら分かったはずだろうに」
娘の失態に怒ると言うよりは、嘆いているように見えました。
何か言わなければと、私はオロオロと口を開きました。
「あ、あの、お嬢さまはきっと色々あってお疲れで……いつものようにいかなかったのだと思います」
「うむ……」
「宝石は業者に問い合わせて、本物と取り替えてもらえるのですよね?」
私の問いに旦那様は「いや」と首を振りました。
「一度本物であると確認して納品書にサインをしてしまった今となっては……」
受け取ったとサインすることは、「本物であることを確認した」ということにもなります。
その後に「やはり偽物だった」と訴えることは難しいだろうと、旦那様は説明しました。
「そんな……」
「こんなイミテーションを出品して宮廷の鑑定士達に知られれば、ピースの信用は地に落ちるな……危なかった」
危なかった。回避できたということでしょうか。
では、回避できた先はどうなるのでしょう?
偽物の宝石で、衣装が仕上がらないということになれば……
「レースのこともある。皆にはすまないが……今年のメルトンは、辞退するのが良いかもしれない」
旦那様の口から出た信じられない言葉に、私と針子のふたりは声を失いました。
みんなで作り上げてきた衣装が、今も工房に誇らしげに飾られています。
仕上げの装飾を待つばかりの、ほとんど完成された、この何ヶ月もかけて情熱を注いできたただ一点の作品。
「辞退……」
本物の宝石はどうなったのでしょう。
もしかしたら、売って欲しいと言っていた商人の手に渡ってしまったのでしょうか。
いずれにせよ、お嬢さまがこの上なく自分を責めて、落胆されるのは目に見えていました。
「ひとまず、早急にヒスイと連絡を取りたい。向かった場所に心当たりはないかい?」
「あ、あの、お嬢さまは今日行くところを教えられないと仰っていました」
「何だって?」
「レースを仕入れられる大店を紹介してもらえることになったけれど、約束があってどこに行くかは言えないと」
「……馬鹿な、あのチュールレースを取り扱っていそうな大店など、もう当たったはずだ」
「でも、そう仰って出て行かれたんです……」
しん、と静寂が通っていった。
倉庫が荒らされた件。
納品された宝石が偽物だった件。
そして、お嬢さまが言えない仕入れ先。
「……ヒスイが心配だ。私が分かる限りの大店に連絡してみよう」
「わ、私も近くを回ってみます」
「私達も、皆に心当たりがないか聞いてみますね!」
バタバタとその場で別れ、私は屋敷の玄関を飛び出しました。
お嬢さまが出て行かれてから1時間以上が経っています。大通りの方に向かったのは確認していたので、その後を追いました。
行き先も分からずに見つかるわけがない、そう思いながら。
それでも、捜さずにはいられませんでした。
嫌な予感がします……何だか、とても嫌な予感が。
日が暮れるまで方々を探し歩いて、もしかしたらもうお帰りになっているかもしれないと屋敷に戻りましたが、お嬢さまは帰られていませんでした。
そして夕食の時間をとうに過ぎても、お嬢さまは戻られなかったのです。
「ヒスイがこんな時間まで、行き先も告げずに帰ってこないなど……」
夜も遅くなってきた頃。
1階のロビーで話し合われていた旦那様と奥様が、周りに集まっていた私達に向かって言いました。
「皆はもう休んでくれ、私はこれから王都警察に行ってくる」
「あなた」
「何があったか分からない、城の力を借りた方が良いだろう」
「旦那様、俺が御者になるっす。すぐに馬車を用意しますから……」
「ジル、すまない」
バタバタと玄関を出て行くジル。
青い顔の奥様。
私達もお嬢さまにもし何かあったらと思うだけで、いても立ってもいられませんでした。
外に馬車のゴトゴト止まる音がしたところで、旦那様が玄関に向かいます。
「では行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
「あの、俺らはもう少し街を探してみようと思ってるんで!」
「すまない、頼んだ」
住み込みの従業員達に頭を下げた旦那様が、ドアノブに手をかけた時でした。
キンコーン……と、玄関の呼び鈴が鳴ります。
馬車の支度が出来たジルが、呼び鈴を押すわけがありません。
誰かと尋ねるまでもなく、旦那様は重い玄関扉を押し開けました。
「え? 何故……まさか、ヒスイに何かあったのですか?!」
少しうわずった声でそう叫んだ旦那様の背後から、奥様も外をのぞかれます。
扉が大きく開いていくと同時に、そこに立っている人達の姿が見えました。
向こうの方に止まる黒い馬車と、濃いグレーの制服に身を包んだ男達の姿。
王都警察の兵士です。
その姿を見て、最悪な想像がよぎりました。
お嬢さまに何かあって来たのに違いない。そんな思いが全身を凍り付かせました。
息を飲んでふらりとした奥様を、慌てて横から支えます。
「ヒスイ・リックコルドンの家で間違いないか?」
旦那様が「はい」と強ばった声で答えるのが遠く聞こえます。
直立の姿勢で王都警察の兵士が口にしたのは、信じられない言葉でした。
「ヒスイ・リックコルドンは夕刻に三番街の雑貨店で盗みを働いた。現在取り調べのため、身柄を預かっている」