8 取引なんて聞いてない
「あれ? ジル、こっちにいたの? 見張りは大丈夫?」
書類から顔を上げた視線の先、開けたままのドアの向こうを通過するジルに声をかけた。
第3・4倉庫の見張りにまだ人手が足りなくて、今日も昼から彼はそっちに行っていたはずなのに。
一瞬通り過ぎたジルは、後ろ歩きで部屋の前まで戻ってくると「大丈夫っす」と親指を立ててみせた。
「今は交代で他のヤツが見張ってるんで問題ないっす!」
「そっか、ご苦労様。遅くなったけど、明日には倉庫番がもうふたり来てくれることになったから、そうしたらジルもちゃんと細工の仕事に戻ってね」
「ありがたい。お嬢さんが材料仕入れてきてくれたんで、早いとこ落ち着いて仕上げちゃいたいんすけどねー……あ、そういや例の大判レースどうなったっすか? あれ、ちょっと見つからないヤツでしょ? 代替え案もまとまってないみたいだし、結局どうするんすか?」
皆が気にしている最後のパーツ。仕上げには絶対必要だったので無理もない。
ふふん、でもノープロブレムよ。
「アテがあるから大丈夫。今日これから仕入れに行ってくるね」
「仕入れっすか? なんかめかし込んでると思ったら、デートじゃなくてやっぱり仕入れなんすね?」
「やっぱりってセリフは、さりげなく失礼よジル」
「すんませ~ん」
ケラケラと笑うと、ジルは行ってしまった。
倉庫荒らしがあってから4日目。
みんな見た目の上ではすっかり元気になって、自分の仕事をこなしてくれている。
私も頑張らなくちゃ。
壁に掛かっている時計を見上げて「そろそろ行く時間ね」と呟いた。
ハンスが紹介してくれるのは大店だというから、あまりカジュアルな格好ではいけないだろう。
そう思って今日はセミフォーマルなクラシックワンピースを身につけている。この冬新作の上品な雪華柄のシリーズは、もちろんうちの商品だ。
上着は初秋のアウターにふさわしい、薄くて軽いボレロ風コート。靴は足首にリボンのついた高めのパンプス。
ゆるふわのブロンドはサイドを編み上げて堅すぎず甘すぎず、バッグと同色のバレッタで留めた。
うん、我ながら良いコーディネートだと思う。
玄関を出たところで、ルーシーを撫でているリリーに会った。
今日の装いを褒められ、当然「どちらへ行かれるんですか?」と聞かれる。
「ちょっと手芸の大店にね。例のレースを仕入れられそうなお店を紹介してもらえることになったのよ」
「まぁ、本当ですか? 良かった、私は正直見つからないんじゃと思っていたので……なんていうお店なんですか?」
「あー……っと、それはちょっと約束があって言えないのよね」
というか、よくよく考えたら私も知らない。
「……? そうなんですか?」
「ごめんね、でもそこでダメだったらもう他にアテもないし、必ず使えそうなものを見つけてくるから!」
リリーに手を振って私はハンスのお店に向かった。
家からは少し距離があるけれど、足取りも軽くしばらく歩けばダークトーンの四角い屋根が見えてくる。
到着してみれば昨日よりも周囲が静かだ。今日はカフェがお休みなのだと気が付いた。ハンスの店も『臨時休業』の看板が出ている。
少しためらった後、ドアノブを引くと鍵はかかっておらず扉は開いた。
チリン――。
「こんにちはー……」
時間はぴったりなはずだ。
昨日より少し暗い感じの店内に、私は声を投げた。
「ああ、お待ちしていましたよヒスイさん」
笑顔のハンスが、店の奥から姿を現す。
昨日とは違ったスーツに身を包んだ彼は、まさしくThe 礼儀正しい紳士だ。
「ハンスさん、今日はお世話になります」
「ええ、早速ですが行きましょうか。裏に馬車を用意してありますので」
店の裏口から出ると、目の前に中型の綺麗な馬車が止まっていた。
御者が入口を開けたところに、ハンスがエスコートしてくれる。
「何から何まですみません」
恐縮するとハンスは「いえいえ」と笑顔で答えた。
「さあどうぞ。目的地はそう遠くはありません、すぐに着きますから」
走り出した馬車は王都の中心街を抜け、富裕層や貴族達の屋敷が建ち並ぶ方面へ向かっていく。
緩やかな登り坂を駆け上がり、一軒の大きな屋敷の裏手に回った。
「……?」
客人を招くのに、馬車を裏口に回すことはまずない。
明らかに正面玄関とは反対側。目立たない路地へ入って停車した馬車に、私は首を傾げた。
「今日は非公式な訪問ですので、裏口からなんです。降りましょうか」
ハンスの説明に、やはり何か訳ありなのだろうな、と察して深く追求しないようにする。
紹介してもらえるのだから、あれこれ質問して迷惑がられるわけにはいかない。
裏口とはいえ、それなりに立派な出入口だ。
執事と思われる男が出て来て挨拶すると、中に招き入れてくれる。
しん、とした屋敷の中に入り、階段を上り、2階の応接室に通された。
ここまでで私が分かるのは、どう見ても「お店に来たのではない」ということ。
「旦那様、お客様をお連れしました」
大きな黒いテーブルの向こうに、筋肉質で強そうなオジサマが座っていた。
顔つきも「如何にも軍人」といった強面だ。どこかで見たような顔だが、思い出せない。
私より先に部屋に入ったハンスが、そのオジサマの隣に歩み寄り「閣下、お待たせいたしました」と礼をした。
鋭い目でこちらを見た男性に少し気圧されながらも、ワンピースのスカートをつまんで挨拶する。
「はじめまして、ヒスイ・リックコルドンと申します。本日はお招きいただきまして、心より感謝申し上げます」
「うむ……噂通りの可愛らしいお嬢さんだな。話はハンスから聞いている」
人相と違わないどっしりした低いトーンで、男が答えた。
「私はマスラドール・デュポン公爵だ。まあかけなさい」
……え? 公爵? 大店の主人じゃないんだ……?
名乗られた身分の高さと、思っていたのと違う肩書きに戸惑う。
側にいた執事が、公爵と向かいの席の椅子を引いて座るように促した。
「……失礼いたします」
私、大店の店主に会いに来たはずじゃなかったろうか。
腰掛けながら辺りを窺った。部屋の中には使用人が3人、正面にデュポン公爵、テーブルの横にハンス。
そしてどう見ても普通の応接室。商品が並んでいる店や、倉庫に連れてこられたわけでないことは一目瞭然だった。
ここでレースが選べるとは思えない。
いよいよ不思議に思ったところで、公爵の斜め横からハンスが口を開いた。
「ヒスイさん、あらためまして、今日はご足労いただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそ……」
「既にお気付きかもしれませんが、こうしてわざわざお越しいただいたのはあなたがお探しのレースのためではありません」
「……え?」
一瞬、ハンスが何を言ったのか本当に分からなかった。
レースのためではない、という部分を頭の中で反芻する。
「ちゃんと名乗っておりませんでしたね。私はハンス・グレイヴティと申します。東方の隣国で服飾ブランドを経営しておりました。1年ほど前からこのランヴェルセンに移って、商いをしております。デュポン公爵閣下には大変お世話になっているのですよ」
「ハンスさん……? すみません、仰っていることがよく分からないのですが……レースのためではないって、どういうことですか?」
ハンスの商いについての説明と、公爵と仲が良いことはこの際どうでもいい。
レースのレの字もないこの状況は、一体どういうことなのか。
「あまり頭の回らないお嬢さんなのかな?」
公爵が喉の奥で笑いながら、失礼なセリフを口にした。
「彼女はただ真っ直ぐなのだと思いますよ。人を信じることに慣れているのでしょうね」
「なるほど、商人には向いていないということだな」
なんだろう、すっごく侮辱されている気がする。
「時間が勿体ない。ハンス、せっかく顔と場所を提供してやったんだ。さっさと本題に入れ」
「はい」
公爵がそう声をかけると、執事がテーブルの上に布でくるんだ包みを置いた。
ハンスが手を伸ばして丁寧に紐を解き、開いていく。
「?!」
出て来たのは、紙幣だった。
束になって留められた紙幣の塊が1、2……6つはあるだろうか。大金だ。
すっと、胸のどこかが寒くなるのと同時に、警戒心が首をもたげた。
「全部で600万リルあります」
「これは……一体何なんですか?」
抑えたトーンで尋ねる。
ハンスはさも当然のように言った。
「取引ですよ」
「取引?」
「今年のメルトリック・メルトンへの参加を、辞退してください」
すぐに意味が飲み込めず、一瞬、静寂が通っていった。
「な……んですって?」
「もうレースを探す必要はありません。これを持ってお帰りいただき、今日か明日にでも参加を取りやめると、服飾協会に連絡を入れていただければそれでよろしいのです」
そこではじめて状況を理解した。
ハンスは元から私の力になる気などなかったのだ。
「冗談……にしては笑えません。本気であれば、お断りいたします」
自分のものではないような、震えた低い声が出た。
「ヒスイさん……よくよくお考え下さい。ここは公爵閣下のご邸宅であり、この場には閣下ご自身がいらっしゃる。すなわち、これは閣下からのお願い事でもあるのです」
「そんなの、私には分かりません」
「分かりませんか? 断る選択肢などないということですよ」
「ピースが参加しないことで、あなた達に何のメリットがあるんですか?」
公爵がつまらなさそうに「私には直接のメリットはないがな」と言った。
ハンスが言葉を引き継ぐように「私のブランドがこの国で盤石の地位を築くため、力のあるトップブランドには消えて欲しいんです」と笑う。
「服飾業界は貴族に顔が利きますからね。端的に言うならば、表舞台の名声が欲しいんですよ。私のブランドをご存じありませんか? 最近では大分有名になってきたと自負しているのですが……」
「存じ上げません」
「この国へ来たときに『マスグレイヴ』と名前を変え売り出しているブランドです。最近では高位の貴族の方にもご贔屓いただいているのですよ」
「マスグレイヴ……」
あれだ、ジルが言っていた……
「公爵閣下に援助いただいて、街では服飾をはじめ様々な分野で事業を展開しています。特に闇の商品を取り扱う店としては、その道でかなり名が知られているのですが」
「じゃあ、裏で商売していればいいじゃないですか……表舞台の名声なんて要らないでしょう?」
「いえいえ、表の顔は大事ですよ。日の当たる場所でも顔が利いた方が、裏の商品を売るときに便利です」
「とにかく、お断りします」
この人達の事情なんてどうでもいい。
話し合うことなんてこれっぽっちもない。
「ピースは予定通りメルトンに参加しますし、トップブランドの座を明け渡す気もありません」
「……どうしてもですか?」
「当たり前です。いくらお金を積まれても、公爵様からのお願いでもお断りよ」
「……それは、残念です」
笑顔を崩さないまま、ハンスが首を横に振る。
公爵が意地悪そうな顔で「おい、お客様がお帰りだ」と執事に声を投げた。
「失礼いたします」
私はそれだけ言って応接室を後にした。
なんなのなんなのなんなのよ? 時間を無駄にした!
辞退しろですって? 馬鹿にしないで欲しい。
本当に頭にきていた。
私はイライラしながら入ってきた裏口から屋敷を出た。
すっかりささくれ立った心を抱えて路地を歩き出したものの、どこを歩いているのか分からない気分だった。
レース……結局手に入らなかった。どうしよう。
手に入らない材料のことや、今し方言われたことを考えながら夕方の道を歩いていた。
注意力はこれ以上ないくらい散漫だったと思う。
だから私は、背後から気配を消した兵士達がつけてくるのに、気付けなかったのだ。