3 それより美味しいランチよね
「マスグレイヴ?」
会計報告をチェックする手を止めて、私は顔を上げた。
どこかで聞いたような名だ。
「なんだっけ、それ」
「これだからお嬢さんは……東方から来た新進のブランドっすよ。王都にすでに3店舗出店していて、今ものすごい勢力を伸ばしてきてるやつじゃないすか。そういう情報も頭に入れておいて欲しいっす」
デスクの前に立った従業員のジルが、短髪の頭をぐしゃぐしゃとかき回しながらため息をつく。
デザイナー兼細工師としては、情報通の彼だ。
しかしその話の中身は役に立つものと立たないものがある。
少なくともこの間紹介された鍋焼きうどんの店は、期待に反してイマイチだった。
「名前は聞いたことあるわよ。でもあれ、トップブランドの廉価版的な若者狙いでしょ? 棲み分け出来るのなら、うちとは競合しないと思うけど」
大して興味もない話題だと、私は再び会計の表計算に視線を戻した。
「まぁ、見た目はそうなんすけど。やり方が汚いって、別の工房にいる細工師仲間がこぼしてたのが気になって。王都に来てからあちこちの大店と接触したり、アングラな営業で貴族を後ろ盾にしてるって話っす」
「だからと言ってうちに何か出来ることもないでしょ? 営業の方向性について、他ブランドに意見できるわけじゃなし」
「それはそうかもしれないっすけど。きな臭い噂が多いブランドなんで、動向にはチェック入れておいた方がいいっすよ。メルトンも近いことだし」
「メルトンが近いんだから、そんな二流ブランドの動向チェックに労力費やしてる場合じゃないのよ。大体そんなうさんくさいところ、一次審査も通ってないでしょ」
祭典には数多くのブランドが出店するけれど、宮廷で行われるメインイベントのファッションショーに参加出来るのはわずか10組。
うちのピースや、ジェイドのところのブランズハックは長年の歴史から一次審査は免除されている。
無条件で舞台に立てることが決まっているけれど、他のメーカーはそうはいかない。厳しい書類審査があるのだ。
トップブランドの模倣廉価版で、こそこそ営業している怪しい二流ブランドなんて、一次の書類選考あたりで落とされるに決まっている。
「それが、通ったらしいっすよ。一次」
「えっ? そうなの?」
「あの品質で一次に通るくらいなら、他にもっと力のあるブランドがあるのに……よほど汚い手を使ったんじゃないかって、陰で噂になってるっす」
「へぇ……」
でもその『マスグレイヴ』とかいうところが、裏で汚い手を使ってよしんば舞台にたどり着いたとしても、舞台上ではそうはいかないだろう。
なんせ審査員は宮廷のアーティスト達。審美眼にかなう実力がなければ、あっさり脱落するに決まっている。
「まあ、そんなに気にしなくていいと思うわよ」
「お嬢さんは呑気なんだから……」
「呑気なんじゃないの。みんなの腕を信じてるのよ」
私がムッとして言うと、ジルは「敵わねえなあ」と苦笑いで鼻の頭をかいた。
「まぁ、それだけ耳に入れておきたかったっす。お邪魔しました」
軽く礼をしてジルが書類部屋を出て行くと、しーんとなった空間に、ぐぅ、とお腹が鳴った。
「ああ……もうすぐお昼ご飯の時間かぁ」
壁の時計を見上げて、独り呟く。
今日はパパとママが揃って出かけているので、お昼ご飯は「外で食べてね」と言われていたのを思い出した。
何となく集中力も途切れてしまったし、私は白いスプリングコートを羽織ると、お財布の入った小さいショルダーバッグを取り上げた。
少し考えて、バッグと一緒に置いてあったオリーブ色の軽いブランケットも手に取る。
「ちょっとシャクだけど……返さないとね」
言い訳がましく声に出すと、家を出た。
「な゛ー」
地の底から響くようなダミ声に振り返ると、玄関横の日だまりにルーシーが座り込んでいる。
巨体に見合わない短い足は、座ってしまえばないに等しい。ただの丸い毛玉の山にしか見えない。
ルーシーは乗用と荷物運び兼ペットとして、古くから人に飼われている愛玩幻獣だ。
私が物心ついた頃にはもうここにいて、何歳なのかもよく分からないけれどうちの看板娘である。
ちなみに飼育にはかなりの食費がかかるので、富裕層以上でないと飼えないペットなのは確かだと思う。
もふもふのクリーム毛玉はピクピクとひげを動かして、ない首を傾げた。
「どこに行くんだ?」と言われている気がした。
「お昼ご飯食べてくるわね。お土産はお魚バケツでいい?」
「な゛ー」
満足そうに答えながらも、ルーシーは私の持っているブランケットをじーっと見ている。
「い、一方的に置いていっただけだから返さなくてもいいかと思ったんだけど、やっぱり気になるから置いてくるわ」
「な゛ー」
「置いてくるだけだからね?!」
力一杯そう言い残して、私は市場の方へ足を向けた。
なんだかソワソワしてしまう。
(――美味しい。君の家の商品と、どこか似ていますね)
シチューを食べながらそう微笑んだ顔を思い出して、動揺している私がいる。
「ほ……ほだされないからねっ?! あいつは敵!」
ぺちんと自分の頬を叩きながら、良い匂いの漂ってくる市場の屋台を通り過ぎて、足早にノースバーグ家へと向かった。
街の中心街から少し離れた、小高くなった丘の上にノースバーグ家はある。
門番に押し付けてさっさと帰ろうと思ったのに、名乗った瞬間に連絡用通信機で屋敷の中と連絡を取られてしまった。
「すぐにお見えになるそうです」
「はあ……どうも」
げんなりしていると、庭の向こう、屋敷の大きな玄関が開いて当該の人物が出て来た。
「ヒスイさん、ものすごく珍しいですね。うちを訪ねてくるなんて」
そうね、珍しいっていうか、初だと思う。
数日ぶりに見たジェイドはうれしそうな声で「どうぞ、お茶でも召し上がっていって下さい」と屋敷の方を示した。
ブランケットのことといい、これは敵に塩を送るスタイルか?
あんたがこの1年ほどの間に、うちに何してきたか忘れちゃいないわよ。
何故私が敵地であるノースバーグ家でお茶飲まなきゃいけないのよ?
「お気遣い結構です。これを返しに来ただけだから」
むすっとした顔で私はブランケットを差し出した。
わずかに目を細めてそれを受け取ると、ジェイドは「返さなくても良かったんですよ」と笑った。
くぅ……イケメンめ。無駄に微笑むな。
「一応お礼を言っておくわ。どうもありがとう」
「上がっていかれませんか?」
「結構よ。私はこれからご飯を食べに行くの」
「おひとりで?」
「なんか文句ある?」
「いえ……」
笑みを深めると、ジェイドは門番にブランケットを手渡した。
「これ、預かっておいてくれるかな。ちょっと出てくるから」
あ、嫌な予感。
「まさかとは思うけれど、ついて来る気じゃないわよね?」
「ああ、今日は良い天気ですし、なんだか外に出たくなったのでご一緒しようかと」
「私の都合とか意見とかは聞かないわけ……?!」
「創作料理の美味しいお店がランチ始めたの、知っていますか? ごちそうしますからそこにしましょう」
「とことん人の話を聞かない人ね」
悔しいけれど、創作料理の美味しいランチというワードには心惹かれる。
しかもおごってくれる? くっ、私を餌付けしようって魂胆かしら。
確かにね、うちはこのところ業績も良くないし、贅沢は敵って思ってるし、今日のお昼は屋台ですませる予定だったけど……
いやいや、騙されないわよ!
くるりと方向転換して歩き出すと、半歩遅れてジェイドがついてくる。
「ついてこないでっ!」
「せっかくなので、この間の話の続きでも、と思ったのですが……あの時は話しながら寝てしまわれたので」
「うっ……」
やっぱり睡魔に勝てず、話途中で寝てしまっていたらしい。
「とても可愛かったですよ、ヒスイさんの寝顔」
「ややや、やめて! ていうかそれセクハラだから!」
「意外と寝相が悪いんだな、と……」
「やめてって言ってるでしょ?!」
ああ……敵に無防備な姿をさらすとは、なんたる不覚!
切実に記憶から消去して欲しい。
「今日は先日のシチューのお礼もかねて食事を楽しみましょう。ああ、お酒はやめておきましょうね、まだ昼ですし、ヒスイさんはアルコールに弱いようですから」
「何でそんなことまで知ってるのよ?!」
「何でって……」
そこまで言うと、ジェイドは少し考えたような顔で言葉を切った。
「やはり、覚えていませんか?」
何を。
「ちょうど1年くらい前なのですが……当の本人が覚えていないとなると、私の努力も無駄かな……」
だから何が。
「ひとりで分かった顔してないでよ。いっつもそうやって上から目線だと気分悪いわ。私が何にも分かってないみたいで失礼じゃない!」
「そんなことは言っていませんよ」
思ってもいないことを言われた風に返されて、余計にムッとする。
ちょっと頭がいいからって、そういう態度が腹立つのよ!
「これでも私は私なりに勉強してるのよ! 知識は力なりってちゃんと知ってるもの。これから商法だってもっと勉強するんだから! 目利きだって最近じゃ褒められることが多くなったし、頑張ってるのよ!」
「ヒスイさんが努力家であることは知っていますし、知識は確かに必要ですが……そもそもあなたに必要なのは知識というより情報ですね」
「情報?」
「知識と情報は別物です。商売には情報が欠かせないのですよ」
子供に諭すような言い方に、イライラがつのる。
情報だか何だか知らないけど、私が分かってないことがあるってことね。そう言いたいわけね?
「子供扱いしないでよ?!」
「子供扱いなどしてませんよ。あなたの場合、年齢がどうというより性格の問題ですから」
「訂正されても腹立つわ!」
怒る私を尻目に「まあとにかく」とジェイドは後ろから軽く肩を押した。
「ご飯にしましょう。お腹が空いていると怒りっぽくなりますからね。ほら、そこのお店です。」
歩きながら喋っていて、いつの間にか目的地に誘導されていたらしい。
シックな茶色い看板のお店には、『本日のランチメニュー』と書かれたブラックボードが飾られていた。
・フィレフィレ鳥とキノコのクリームドリア
・古代魚の香草デュグレレ風
・ポワン牛の煮込み赤ワインソース
あ、これ絶対美味しいヤツだ。
しかも高い。
自分の懐事情と相談すれば、結論が出るのは早かった。
「ここの煮込み料理は最高ですよ。さあ、どうぞ」
涼しい笑顔のジェイドに恨めしげな視線を送りつつ、私は開けられたドアに吸い込まれるように入っていった。