6 夢を見たくて ☆ティルトレット視点→ヒスイ視点
私の部屋がある王宮の3階からは、中央広場の一部が見える。
毎年、楽しそうな風景を遠くから眺めていた。
「私、一度でいいから民に混ざってこのイベントを楽しんでみたかったのです」
そう語りかけたら、銀色の瞳に哀れむような色が宿った。
何に同情されているのかしら。生まれながらに王宮の籠の鳥であったことを? それとも恋愛すら望むとおりに出来ず、これが最後の悪あがきであることを?
「ジェイド様のおかげで、夢が叶いましたわ」
「いえ、そのようなことは仰らないでいただきたい……私がして差し上げられることなど、何もないのですから」
すまないと書いてある顔でそんなセリフを口にするしかない彼を、とても誠実な人だと思う。
淡々とした口調やあまり感情を表に出さないところを、冷たいと思う人もいるかもしれないけれど。
この人の不器用な優しさに、私はずっと惹かれてきた。
「ジェイド様」
「ティルトレット様、私に敬称は不要です」
「私がそのように呼びたいのです」
「ですが……」
「良いのです。今日だけ……最後ですから、そう呼ばせてください」
少しの沈黙が流れる。本当に言いたいことは言えないと分かっていても、私は今日彼とこうしてこの場所を歩いてみたかった。
私達を見た人が、恋人同士だと思ってくれるかもしれないから。
嘘でも、錯覚でも、今だけ夢を見てみたかった。
「本当にたくさんの人が集まるのですね……聖ギビングデーがこんなに賑やかな催しだとは知りませんでした」
「この規模は貴方の資金援助があったからこそですよ。大通りまで装飾を延ばして、各商店にも協力を仰いで店を出してもらっています。お祭りとあって来場者の財布の紐も緩いですから、経済効果は高いと思います。今年はじめての試みにしては上手くいったかと」
「服飾協会には優秀な企画者がいらっしゃるものね」
服飾協会の重役達の間で決まったこのイベントを、誰が押し付けられて先導したかを私は知っている。だからこそ、資金面で援助を申し出た。
目的もなく歩いていたらいつの間にか中央広場から遠ざかってしまっていた。
大通りの並木道に飾られたイルミネーションが、真っ直ぐな光の道を作っているように見える。
こんなに大勢の民の中を歩くのは新鮮だった。夢見心地で踏みしめるレンガ敷きの道を、彼の腕にエスコートされて進む。
「ご結婚、されるのですね」
私の左手に光る真新しい指輪に視線を留めて、感情の乗らない声が言う。
今ここを歩いている時くらい、夢を見させてくれてもいいのに。ひどい人だわ。
「ええ、お兄様がたくさんの候補の中から選び抜いてくださったのですわ」
「そうでしたか……では、安心ですね」
「ええ」
そのホッとしたような表情は何に対して?
そんな言葉を聞きたい訳ではないの。
あなたから何かを言って欲しい訳ではないの。
ただ最後にこうして隣り合う時を過ごして、気持ちの整理をつけたかっただけなのに。
「……ジェイド様」
右を見ても左を見ても、幸せそうな恋人達の姿が目についた。
辛くなるために来たのではなかったはず。ほんの少しの夢を見て、最後に……言わなければならないことがあった。
「私……」
喉元まで上がってきた言葉は、それとは違う、本当なら口にしてはならないことで。
「あなたが――」
「ティル! ジェイド!」
人混みの向こうから飛んできた声に、我に返った。
お兄様が慌てたような顔で、ぶつかった人に謝りながら歩いてくる。
「ふたりとも、こんな大通りの端まで来ていたのか」
目の前まで来て困ったように微笑むお兄様に、何故だか無性に縋りたくなった。
「ああ、そろそろ引き返そうかと思っていたところだ。捜したか?」
「いやかまわない、それよりすまない、ジェイド」
お兄様が手を合わせてそう言った瞬間、ジェイド様の表情がわずかに強ばった。
何に対しての謝罪なのか、察したのだと思う。
「ヒスイちゃんが来たんだが……帰られてしまった」
「……なんと言って引き留めたんだ?」
「軽い世間話と、君が遅れるとだけ……これを置いて行ってしまったが、間違いなく君宛に作ったものだろう」
そう言ってお兄様が差し出したのはクッキーの詰まった可愛らしい袋だった。
聖ギビングデーの贈り物なのでしょうけれど、羽飾りはついていなかった。
「君とティルの姿をどこかで見たらしくてな。ちゃんと説明する間もなく……面目ない」
「いや」
少し眉をひそめて手の中のそれを確認すると、ジェイド様は首を横に振った。
「君のせいじゃない。私がいても彼女は帰っていただろう。義理で来てくれただけなのだから」
「義理? 君ともあろう男が何故そんな弱気発言なのだ?」
「羽飾りがないのだから、そういうものだということは明白だ」
「馬鹿を言え。僕が見る限り彼女はちゃんと君を慕っているぞ。それに」
「慰めはいらないよ、アルフォンス。どういう理由があろうと今日の時点ではこれが答えだ」
彼の手の中の袋をじっと見ていた私は、気付いてしまった。
気付いたことを伝えてしまえば、きっとこの時間が終わる。
伝えなければ……? もう少し、彼と一緒にいられるだろうか。
(……馬鹿ね)
私がしなくてはいけないことなんて、分かりきっているのに。
「ジェイド様……そのクッキー、開けてみていただけませんか?」
「……? ここで、ですか?」
「ええ」
私が興味半分で言っているわけではないと分かったくれたのでしょう。
少しためらった後、彼は緑色の綺麗なリボンを解いて袋の口を開けた。
「貸していただけますか?」
私が袋の中身をのぞき込んでいる間、ジェイド様もお兄様も無言で待っていてくれた。
どちらも、何をしているのだととがめることもなく。
「ジェイド様、お手を」
袋の中から取りだした目的の一枚を、彼の手のひらの上にそっと載せた。
少し目を瞠った彼の反応に、ちくりと心が痛んだけれど――。
「羽……」
色々な形のクッキーの中に紛れて、羽をかたどったものが一枚。
「想いを伝えられない女の子にとって、これだけするのでも勇気がいるものですよ」
精一杯の笑顔と一緒に、そう教えてあげる。
これを贈った子は、間違いなくあなたのことを想っているのだと。
手の中の羽を見つめたまま、小さく「ヒスイさん」と呟いた声は、聞こえなかったことにしておくから。
「ほら、僕の言ったとおりだろう? 良かったな、ジェイド」
お兄様がそう言って、彼の肩をポンと叩いた。
「君のことだ。彼女が意固地になっている件について、心当たりくらいあるのじゃないか」
「ああ……そう、だな」
壊れ物を扱うように羽のクッキーを袋に戻すと、ジェイド様は真っ直ぐに私を見た。
「ティルトレット様、ありがとうございました」
優しい目で伝えられる、心からの感謝の言葉が胸に痛い。
「こちらこそ、わがままに付き合ってくださってありがとう」
「幸せを、お祈りしております」
「あなたも――」
ジェイド様、私、今日あなたにお別れを言いたかったの。
「さよなら……ジェイド様」
こうして、笑顔でお別れを言いたかった。
その場で深く一礼すると、彼はきびすを返して足早に去っていった。
あなたのいない幸せなんて――。
小さくなっていく背中に、本当はそう叫びたかったけれど。
「……ティル、偉かったな」
お兄様が隣からそっと頭を撫でてくれた。私の体を片手で引き寄せる。
その肩に頭をもたげて、少しだけ甘えることにした。
「僕はふがいのない兄だな……結局、お前の望むことは何もしてやれなかった」
「お兄様、それは違うわ。私、今日ジェイド様に会えて良かった。お兄様が会わせてくれたおかげで、お別れを言えたもの」
「別れ、か……」
「私が想うように、ジェイド様にも想う方がいらっしゃるのよ。その方もジェイド様を想ってらっしゃるのでしょう?」
「ああ、そうだよ」
「なら、これでいいわ」
「ティル……」
私が泣いていないのに、なぜお兄様が泣きそうなのかしら。
そんな顔を見てしまったら、私まで泣いてしまうじゃない――。
「お兄様……私、幸せになるわね」
「もちろんだとも。ティルは誰より幸せにならなくちゃいけないよ」
「お兄様が選んでくれた方だもの。きっといい方よね……」
「当たり前だ。それでも万が一お前を泣かすようなことがあったなら、僕が直々に殴り込みに行くさ」
「……ふふ」
私、今日見たこの美しくて悲しい無数の灯りを、きっと一生忘れない。
「帰ろう、ティル」
「はい、お兄様」
お兄様の温かい腕に、私は全部預けて寄りかかった。
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中央広場に向かって走っていた時は、間に合わないかもしれないという焦りだけで頭がいっぱいだった。
息を切らせて辿り着いた広場には、どこからこれだけ集まったのかと思えるほどの人があふれていて。
背の低い私はその人波をかき分けながら、オブジェのところにある道具置き場を目指した。
景色に目をやる余裕なんてなかったはずなのに。その途中、どうしてだか見つけてしまった。
夜色の綺麗な髪を後ろに流した、長身の影を。
彼の差し出した腕に、そっと手を絡ませた金糸の髪の美しい女性を。
恥じらうような仕草と水色の瞳から、彼女が何を想っているのか、その一瞬で分かってしまった――。
ふたりはすぐに人壁の向こうに消えた。
傷ついてなんかいない、と。
モヤモヤの広がった胸を押さえて、「関係ない」と自分に言い聞かせて。
とにかく走った。
遅刻気味に滑り込んだ道具置き場で、黒い箱に向かって一気に光魔法をたたき込んだ。
ホコリを吸い込む掃除用具みたいに、自分の内から魔力が吸い出されていく。
ピーッと、箱から音がした瞬間、広場に明かりが灯った。
あちこちから「わあっ」という歓声が聞こえてくる。
走りすぎて痛む横っ腹を押さえながら、私はなおも魔力を流し続けた。
「ヒスイちゃん、もう大丈夫だよ」
「ご苦労様」
服飾協会のメンバーがかけてくれた声で、やっと黒い箱から手を離した。
緑色のランプが光ってた。
魔力を使いすぎたのか、少しめまいがする。
でもちゃんと役目を果たせたみたいで、ホッとした。
肩の荷が下りたってきっとこういうことをいうのね。
見上げた黒い空には、私の灯したいくつもの明かりがゆっくり瞬いていた。
クッキーの袋が手元でかさりと、音を立てた。
少しだけ、何かに期待していたことは間違いない。
(私は……ピースを継ぐのよ)
それが幼い頃からの夢だ。
それ以外なんて知らない。
でも、少しだけ。
今日だけはほんの少しだけ、別の未来を夢見てもいいかと……思っていたのだ。
先ほど見た光景が頭をよぎった。
見間違いだったらいい。
ためらいながらも、私は待ち合わせの場所に向かった。
「残念ながらジェイドは今ここにはいないのだよ」
私を待っていたのは違う人物だった。
軽口を叩く王子の言葉を、そのまま信じていいものかどうか迷ったけれど。
それでも、私に分かることはひとつだけあった。
ジェイドは、私を待つ気なんてなかったんだということ。
(馬鹿みたい)
クッキーの袋を王子に押し付けて、私はその場から逃げた。
楽しそうに笑い合う恋人達の間を縫って、広場から逃げた。
魔力を一気に消費しすぎたせいか、走る振動で頭がくらくらする。
夜の街にあふれる羽飾りとハートマークに妙に腹が立った。
少しだけ滲んだ視界に唇を噛んで。
最後の方はとぼとぼ歩いて、家に着いた。
今日はもう誰にも会わずに寝てしまえと、玄関をくぐって扉を閉めた。
――はずだった。
閉まりかけた扉をギリギリで押さえた手に、息を飲んで振り返る。
走って追って来たのだろうか。息を切らせたジェイドがそこに立っていた。
「何とか、間に合いましたね……」
そう言って押し開けた隙間から体を滑り込ませた彼を、泣きたい気持ちで見上げている私がいた。