19 意外だわ
「な゛――!」
煙に巻かれる中、何か聞こえた気がした。
気のせい、だろうか……
「な゛――――!!」
気のせいじゃない。やっぱり聞こえる。
間違いない、あのダミ声は……
「……ルーシー!」
大きなクリーム色の毛玉が、鉄格子の向こうでブレーキをかけるのが見えた。勢いを殺せなかった爪が、油の床を滑って止まる。
「な゛ーっ!」
煙越しに私を見つけたつり目の三日月が、嬉しそうに弧を描いた。
ルーシーだった。
何故ここに、と考える前にホッとし過ぎて泣きそうになる。
立ち上がって駆け寄ろうとしたけれど、出入口付近は獣油のせいで炎の勢いが強い。
熱い。近づけない。
「な゛ー!」
ルーシーは叫ぶと、なんの躊躇もなく焼けた鉄格子に噛みついた。
ジュワッとその口から蒸気が上がったことに、めまいを覚えた。
ルーシーの短い足周りだけじゃない、体の半分くらいが火に飲み込まれてしまっている。
「ルーシ……ゲホッ! いくら、あんたが、熱に強いからって……!」
耐火性のある毛も、チリチリと音を立てて少しずつ燃えていってる。
無茶だ。火の上に立つなんて。
ルーシーの牙と鉄格子がこすれる金属音が牢屋内に響く。だけど固い棒はびくともしない。
「グルルル……!」
ルーシーは呼吸を荒げながら何度も鉄格子に噛みついた。
噛み砕こうとしているのだろうけれど、元々愛玩用で乗用の幻獣だ。破壊活動には向かない。
鉄格子はわずかに曲がったくらいで壊れそうには見えなかった。
「ルーシー……! もういいよ……!」
近付きたいのに熱くて近付くことも出来ない。
必死で私を助けようと、鉄格子に噛みついている姿に涙が溢れてきた。
「やめて……! もう、いいから、ルーシーは逃げて……!!」
叫んだ瞬間に煙を吸い込んでしまって、吐きそうなほど咳き込んだ。
もうダメだ。頭を低くしても苦しい。
高温の空気を吸い込んだ胸の中まで熱い。
「ルー、シー……」
頭がぼんやりしてきて、意識が遠のきそうになる。力の抜けたひざが床についた。
熱い。苦しい……その場に崩れ落ちながら、もう一度ルーシーを見上げた。
フーッ、フーッと息を吐きながら鉄格子に噛みついているクリーム色が、涙でにじんだ。
このままじゃルーシーまで死んじゃう。
「やだ……」
そんなの、絶対に嫌だ……!
誰か……誰でもいいから、ルーシーを助けて!!
私は床についた両手を、血が出そうな程強く握りしめた。
刹那。
目を疑うようなことが起こった。
地上に続く階段から瞬きする間に押し寄せてきたのが、魔力の波だということは分かった。
全てを凍てつかせるような絶対零度。
私の力とは真逆の、氷の魔力。
それに飲み込まれた瞬間、赤い炎はおろか、黒い煙までもが一瞬にして氷の結晶に変化した。
ルーシーに燃え移っていた火の粉も、ピキピキッと音を立てて凍り付く。
三日月の目が、まん丸になった。
「……え?」
気付けば、ルーシーと私を避けて視界の全てが冷たい氷に覆われていた。
あれほど燃えさかっていた火が一瞬で消えて、凍てつく世界に変わってしまった。
嘘のようにひんやりとした空気の中、呆然としてルーシーと視線を交わす。
「……助かっ……た、の?」
「な゛ー……」
ルーシーは大きな口を開けると、もう一度凍った鉄格子に噛みついた。
今度はガラスが割れるような高い音と共に、金属の棒が砕け散った。
向こうから足音が駆けてくる。その持ち主を、ところどころ焦げているルーシーが振り返った。
「な゛ー」
呼びかけるように鳴いたルーシーの側に飛び込んできたのは、兵士でも、城の魔法士でもなかった。
「――ヒスイさん!!」
ガシャン! と拳を叩きつけて氷の鉄格子を砕いた彼は、濃紺の綺麗な髪が乱れるのも構わずに牢の中に飛び込んできた。
その顔はいつものポーカーフェイスではなくて。
表情ひとつでどれだけ私の身を案じていたのかが、分かってしまった。
あれ? おかしいな。
私の中のこの人は、いつも無表情か、余裕で笑っている商売敵だったはずなのに。
あんなに冷静に嫌味ばかりな男も、こんな風に取り乱したりするのね。
――なんだか、意外だわ。
暗くなっていく視界の中、最後にそれだけ思った。
◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆
あれは確か……今と同じ季節。1年くらい前だったろうか。
良いサテン生地が入荷すると聞いて、なじみの織物問屋に出向いた時のこと。
店の中にはいつもの店員と、顔の見知った男がいた。
ブランズハックのオーナー。
無駄に長身で顔がいいのでどこにいても目立つ彼だけれど、まさかこんな小さな店の中で出くわすとは思わなかった。
何故ここに、と思ったけれど無視だ。
彼と特別に話をしたことがあるわけじゃない。
でも私はこの男が好きじゃなかった。
だって、パパが何かにつけて言うのだ。
「今日は服飾協会の会合でブランズハックのオーナーと同席したんだが、彼の市場調査の腕前には恐れ入るね。服飾以外にも手を伸ばしているようだが、あの若さで完璧な経営術を持っているんだ。うちも見習わなければ」
そんな風にことあるごとに彼を褒め称えるので、私は気にくわない。
私のことはたまにしか褒めてくれないのに、歳もそれほど変わらないライバルブランドのオーナーを褒めるなんてあんまりじゃないだろうか。
だから私はジェイド・ノースバーグが好きじゃない。
いつか「やはりうちの娘が一番すごいな」と、パパに言わせてやろうと密かに心に誓っているのだ。
「いらっしゃいませヒスイお嬢さま」
いつもの店員さんが私の来店に気付いて、やって来てくれた。
「おはようございます、今日入荷すると聞いていたサテンを見に来ました」
「え……ええ、そうですよね。申し訳ございません」
「?」
いきなり詫びられて、私は首を傾げた。
「数はそれなりに揃えていたのですが、開店と同時にいらしたあちらのお客様がどうしても入り用だからと、入荷した商品の全てを一括でお買い上げくださって」
「え? じゃあまさか……」
「大変申し訳ございませんが、入荷した分の生地は完売でして……」
完売?!
私も開店してからすぐに来たと思ったのに……え? もうないの?
「そんな……」
「次回は3ヶ月後に、また似たようなグレードが入荷しますので」
「3ヶ月後……」
良質なサテンを手に入れる気満々でいたため、ショックは大きかった。
どこの馬鹿がそんな大量に一気買いするのよ! 信じられない!!
ぎっと睨んだ先、艶のある藍色の髪がさらりと揺れて、当該の人物が振り向いた。
ブランズハックのオーナー、ジェイド。
「すみません、どうしてもまとまった数が欲しかったもので」
「……」
おのれ、商売敵。
ちょっと顔がいいからって、微笑んでも許さないわよ。
「私も1ヶ月前から入荷待ってて、すごく欲しかったんですよね、今日のサテン」
ふくれっ面でそう返したら、ジェイドは少し考えるような仕草の後、信じられないことをのたまわった。
「どうしてもということでしたら、購入した金額の5割増しでお譲りできますが」
――5割増し?
「あっ、足下見すぎじゃない?!」
「商売とは時に非情なものですよ。こちらはヒスイさんに買っていただかなくとも困らないので、お好きにご検討ください」
何その嫌味な言い方! しかも私の名前もちゃっかり知ってるじゃない!
ムカムカっときたところで、涼しい顔の男は続けた。
「良い材料を仕入れるのに誰に遠慮も要りません。競合ブランドは常にトップブランドを蹴落とすことを考えているのですから、この位は当たり前のことです。本当に欲しい材料なら、手段を選ばず手に入れるべきだったのでは? 開店した後にのんびりとやってくるなどという甘い姿勢は、十分に反省すべき点かと思いますよ」
ちょっと待って。なんで私説教されてるわけ?
この上なく不愉快なんですけど?!
「……最悪っ」
「おや……そんなに眉間に皺を寄せると、可愛らしい顔が台無しですよ」
「余計なお世話よ!!」
何この男! 本気でムカつく!
そしてこの後も、いたるところにジェイドは姿を現すようになった。
いつもいつもいつも、なんだかんだと説教みたいなことを並べ、私の邪魔をして楽しんでいるように見えた。
くっそ性格悪い……!
そういうわけで、私はジェイド・ノースバーグが心底嫌いなのだった。