15 絶体絶命!
ハンスが抱えるタンクは重たそうに見えるのに、その口からとろりとした油を垂れ流すことで重量を減らしていくのが分かった。
冷たい地下の空間には、トポ、トポ、という音だけが響いていた。
向かいの壁際にも流そうとしたところで、油がなくなったらしい。
ハンスは持っていたタンクにもう一度キャップをつけると、元通り袋の中にしまった。
肩口にそれを背負うと、通路の真ん中から私に向き直った。
「さて……今ならまだあなたがお得意の火の魔法で、私を始末することも出来るかもしれませんね? どうなさいますか?」
その平坦な口調から、彼が表情通り笑っているのかどうかは読みとれない。
ただセリフの中身が、今までにないくらい異常なものだということは分かった。
「……始末?」
心臓が嫌な音を立てていた。
これは恐怖だ。何に対して――?
「闇の商人たるもの、いつでも死ぬ覚悟は出来ています。簡単ですよ、私は魔力なしの非力な人間です。青札の魔法使い殿にとっては赤子同然。ひと思いに燃やしてしまわれたらどうですか?」
「ばっ、馬鹿なこと言わないで!」
人を傷つけるために魔法を使ったことなんてない。
そんな怖いこと、出来るわけがない。
でも、もし私がやらなければ……?
「出来ないと? あなたは商人だけでなく、魔法士にも向いていないのですね」
「何、考えてるのよ……あなた」
「そこの兵士。私が上がったら火をつけなさい」
ハンスが投げた言葉は私が考えていたことそのままの答えだったのに、信じられない気持ちでそれを聞いていた。
「え、その女、ここで始末するんですか?」
「このお嬢さんは火の魔法使いなんだよ。囚えられた地下牢から逃げだそうとして、火の魔法を使った。だが、勇敢な兵士がいたため脱獄は叶わず、彼女は辺りに火を放って地下牢もろとも自殺するんだ。悲劇だろう?」
「はぁ、そういう筋書きなんですね、承知しました。でも、ちょっと勿体ないですよね……」
ハンスと話している兵士がこちらへ歩いてくる。
「火をつける前に、少し遊んだらダメですかねぇ……」
兵士の視線から逃れるように、私はじりじりと後退した。
二の腕にも背中にも、ぞわりと鳥肌が立った。もし兵士が牢を開けて入ってきたら……
兵士が鉄格子に手をかけるのが見えた。
どうしよう、やられる前にやらなくてはいけないのに、出来る気がしない。
生身の人に向けて魔法を使わなくてはいけないことを想像しただけで、背筋が寒くなった。鍋に火をつけるのとは訳が違う。
けれど、兵士が扉を開けて入ってくることはなかった。
私を見ていた気味の悪い目が、大きく見開かれる。
「――?」
兵士の胸部分から、おかしなものが突き出ていた。
それが鋭く尖った刃物の先端だと分かったのは、その周りからじわじわと赤い色が広がっていくのが見えたから――。
後ろを振り向こうとした兵士の体が、ガシャンと鉄格子にぶつかって、ずるずると崩れ落ちた。
「……っ!」
何が起きたのかは、兵士の背後に立っていたハンスの表情を見て理解した。
うつぶせに倒れ込んだ兵士の背中には、短剣の柄が突き立っていた。そこから赤黒い液体が油に混ざって広がっていく。
直視してはいけないと思いながら、かすかに痙攣している指先から視線が外せなかった。
あっけなく動かなくなった体を見下ろして、ハンスがため息をつく。
「愚かですね。牢を開けてどうするんですか……シナリオを少し変更して、兵士と相討ち、ということにいたしましょうか」
何事もなかったかのように話すハンスの姿に、唇が震えた。
死んだ? 殺された?
今話していた人が……今、動いていた人が、まるで何かのスイッチを切るような簡単さで、その命を絶たれてしまった。
あまりの恐怖に足に力が入らなくなって、私はその場にぺたんと座り込んだ。
「ほら、人は意外とすぐに死ぬでしょう? あなたならこうやって簡単に私を殺せますよ。油の中心に立つ私に火を付ければ、間違いなく焼き殺せます。やらなくていいのですか?」
「あ……あなたって人は……」
私が、出来ないと分かっているのだ。
出来るわけがない。こんな風に、誰かを殺すなんて――。
「それではヒスイさん……私は急ぎますので、これで失礼いたします」
そう言うと、ハンスはさもおかしそうに笑った。
数歩下がったその手の中には、黒い火付け具が見える。
「や、やめて……」
「もう遅いですよ」
小さい火が、こちらに向かって投げられた。
床に落ちる前に、赤い炎が立ち上る。
瞬時に倒れている男にも飛び火して、勢いを増していった。
「……っ!!」
「さようなら、弱くて勇敢なお嬢さん」
炎が空気を震わす音と、ハンスが響かせる靴音が地下牢に響いた。
どんどん温度を上げていく空気から逃れたくて、私はへたり込んだまま後ずさった。
「いや……!」
赤い炎は嫌いだ。言うことを聞いてくれないから。
私が操れるのは黄色い炎で、これは消せない。ハンスはきっとそこまで調べて、こんな方法を取ったんだ。
燃えてしまえば何色の炎で焼かれたかなんて、判別がつかないから――。
「熱っ……!」
すぐにこちらにも火の粉が襲ってきた。服と肉の焦げた匂いが辺りに立ちこめる。
空っぽの胃から酸っぱい液が上がってきて、あまりの気持ち悪さに涙がにじんだ。
人は意外と簡単に死ぬ。
それはきっと、私も同じだ――。
高さを増していく炎は壁にも乗り移って、天井付近にまで一気に燃え上がった。
赤黒く見えるのは炎なのか、煙なのか、もう判別がつかない。
(パパ! ママ! みんな……!)
石敷の床は燃えずとも、木張りの壁を伝って炎は牢の中にまで侵入してきた。
必死で赤い触手から逃れようとしても、逃げる場所なんてたかが知れていた。
煙を吸い込んでしまい、激しくむせこんだ。
「……誰、か……!」
目の前に迫る熱気。爆ぜる火の粉。
吸い込む空気はそれだけで肺が熱くなるような熱を帯びていた。狭い地下に見る間に満ちていく黒い煙。
このままでは、間違いなく助からない。
「誰か、助けて……!」
私は生まれて初めて、死という恐怖に直面していた。