10 彼女との出会い ☆ジェイド視点
今から10年以上前のこと――。
王都大学付属学園初等部を卒業した私を呼んで、祖父は言った。
「ジェイド、お前にこれを預けよう」
手渡されたのは代々伝わるノースバーグ家当主の証、翡翠のブローチだった。
当時12歳であった私は困惑した。60歳を過ぎた祖父が隠居の体を見せていたことは知っていたが、まだまだ現役であった上、次代は息子である父が継ぐものと思っていたからだ。
「お爺様、これは一体……?」
「あれはダメだ。私の跡はお前が継げ」
「あれとは……」
「他ならぬお前の父のことだ。可愛い息子ではあるが商才がない。更に気が優しすぎて愚かだ」
「はあ……」
祖父が幼い頃から私の教育を一手に引き受け、商売人として育てているのは理解していた。
しかしこれはあまりにも、突然の継承宣言だった。
翡翠のブローチを手のひらに乗せたまま、言葉もなく立ち尽くす私の肩を、祖父は大きな手で励ますように叩いた。
「よいかジェイド、代々続いた『ブランズハック』の名を地に貶めて終わらせるようなことだけは、どうかしないでくれ」
「はあ……」
「お前だけが私の希望だ。頼んだぞ」
そんな祖父との会話があった数週間後。
隣国への仕入れの帰り、馬車が谷へと転落する事故に見舞われ、祖父はあっけなく逝ってしまった。
いつ自分がいなくなってもいいようにと手を回していたのだろう。
祖父のこなしていた日々の仕事は、それ程混乱もなく引き継がれた。
落胆する間もなくブランズハックの中心には父が立ち、従業員らに支えられながら月日が過ぎていき、何かがおかしいと気付いた頃。
家業の経営は、私の知る限り過去に例を見ないほど悪化していた。
会計報告書類の束を手に、私は屋敷内の廊下を全力で走っていた。
「父上!!」
ノックも無しに扉を開け放つと、目を丸くしている父の書斎に押し入り、デスクの前に仁王立ちになった。
「ジェイド、今日はまた一段と怖い顔をして……何かあったのかい?」
「何かあったのか、ではありません! これを見てください!」
バン! とデスクの上に叩きつけた数字を見て、父は顎を撫でると首を傾げた。
「会計報告かな?」
「この赤線のところです!」
「先月の鉱物系の仕入れ報告だねぇ」
「何故一番グレードの低い時期に採集したマルタン鉱石の単価がこんなに高いのですか? こちらのブリフィクス鉱石もです! これは厳冬期の最高グレードの2倍の価格ですよ?!」
「そうなのかい?」
「更に全体報告の収支もおかしいです! ここの2,580,320リルという数字は何ですか?!」
「全体の支出額じゃないのかい?」
「あなたの目は節穴ですか?! 項目の桁からしておかしい! どこをどうしたらこんな計算になるのですか……ぼられてますよ、完全に!!」
「ぼられているだなんて、穏やかでないなぁ……」
何を言っても困った笑顔の父をもう一度真剣に怒鳴りつけようとした時、デスクの上の書類に目が留まった。
従業員からの賃金アップに関する嘆願書のようだった。
一枚取り上げて、目を通す。何か実績があったわけではない。単純に「もう少し賃金を上げて欲しい」という内容で、父は既に承諾の押印をしていた。
「父上……何故彼の賃金を1.3倍にすることに……?」
「あー、彼ねー。4番目の子供がこの間生まれたんだよねー。色々入り用で大変だって言うから、少し上げてあげてもいいんじゃないかなーって」
「そんな理由でホイホイ賃金を上げていたら、うちが潰れますよ!」
「ええ? だってかわいそうじゃないか。ジェイド、ひどいなぁ」
父の態度に私は祖父の判断が正しかったことを知った。
それはもう、嫌と言うほどにだ。
私は胸元に留めていた翡翠のブローチを掴んで、苦々しく言葉を絞り出した。
「父上」
「ん?」
「今すぐ隠居ください」
母は母でおっとりし過ぎた人だ。私が全権を握る話をすると「さすがは私達の息子ねぇ、ジェイドったら本当に頼もしいわぁ」と明後日な承認をくれた。
正規従業員37名。非正規に雇っている従業員86名。
ブランズハックが潰れれば彼らは路頭に迷う。ここで廃業などするわけにはいかない。
そして私は祖父の遺志に従う義務がある。
その日から私は若すぎるオーナーとして家業の全権を握ることになった。
無論まだ未成年であったため、表向きは父を立て影で組織を動かす役目だったが、あれこれ手探りで数ヶ月が経った頃、何とか事業を立て直すことに成功した。
中等部に上がった私は、学業と事業の二足のわらじを履きながら忙しない日々を送っていた。
同じ年頃の子供がする遊びとは無縁だった。
ただひたすらに働き、勉強し、また働いた。
私を動かしているのは祖父の遺言とも言える「ブランズハックを無様に潰さない」ことへの執心と、従業員や取引先や祖先に対する責任感だけだった。
自分が子供であることを忘れかけていたある日のこと。
秘書兼執事のフレデリックが来て言った。「14歳のお誕生日が近いのですが、まだ役所に赴かれていないようです」と。
「魔力鑑定?」
「はい、ジェイド様も当該の年齢でいらっしゃいますので」
魔力鑑定とは期間中、宮廷に出向いて行う子供の身体測定のようなものだ。
6歳、9歳、13歳、16歳の年に鑑定が行われ、その子供がどれほどの魔力を有しているかを判別するためにある。
国民の大半は魔力を持たないが、いわゆる「魔法使い」の素質を持つ子供も少数いる。魔法は国家にとっても貴重な能力なので、国民は4段階の評価を受けることが義務づけられていた。
全く魔力を持たない最下層から始まり、生活魔法レベルから上級魔法を扱える者まで、上に行けば行くほど人数も少なくなる。
その頂点に近い者は城からスカウトが来たり、就職に有利になったりするため、我が子が少しでも良い認定を受けられるようにと願う親は多かった。
しかし、私の場合は反対だった。
祖父は「お前が人よりも大きな魔力を有していることを知られれば、要らぬ方面から余計なことに巻き込まれかねない。ブランズハック存続のため、魔力は押さえておけ。能ある獣は爪も牙も隠すものだ」と、鑑定の際は私に本来の力を出さないように口酸っぱく言っていた。
「随分前に受けた気がしていたが……もうそんな時期だったか」
面倒以外の何者でもなかったが、国民の義務とあらば仕方ない。私は休日に行われる鑑定式に赴いた。
私以外にも10人ほどの子供がいたが、受付が遅かったのか、私の順番は一番最後になった。
自然、会場の隅に腰掛けて他の子供達の鑑定を見学することになる。
年齢も性別もバラバラな子供達は、3人の鑑定員の前で、魔力を放出したり、適性を見るための魔具に魔力を流してみたり、いくつかの検査を受けていた。
7人は魔力なしだった。1人は生活魔法が使える程度の魔力があると判定され、鑑定札をもらい喜んでいた。
私も前回の鑑定の時にあの緑の札をもらったのを記憶している。なんの感慨も湧かなかったことも。
私の隣には6歳と思われる少女が座っていた。
開始直後からあからさまに緊張した顔でいた彼女は「10番、前に来なさい」と呼ばれると「はひっ」と裏返った声で返事をし、ギクシャクと鑑定員の前に出て行った。
親が期待しすぎるあまり、何が何でも頑張って良い認定を受けねばと思う子供は多い。だが魔力量や魔法使いとしての素質は生まれついて決まっていることが多く、努力で何とかなるようなものではない。
少々憐れに思いながら見ていると、少女はぎこちなく魔具を握り、検査に挑んだ。
(……ん?)
おかしい、と思った。
鑑定員は気付かないようだが、私には分かった。
少女がわざと魔力を押さえこんで、魔具に流す力をセーブしているのを。
そう、彼女は私と同じ方法で鑑定員の目を欺こうとしているのだ。
(何故……?)
緑の札をもらい、ホッとした様子で会場を出て行く少女の後ろ姿を見送った。
自分の番になってもぼんやりしていた私は、うっかり魔力を流しすぎてしまい、緑の札どころか第2階層の青い札をもらうことになってしまったことは、失態と言う他ない。
手続きがどうの、進学に有利になる書類がどうのと説明し出す鑑定員達に必要ないことを告げ、驚きの眼差しを受けながら私は会場を後にした。
宮廷のエントランスホールには、鑑定が終わった子供達とその親がまだ数組残っていた。
その中に、親の迎えを待つあの少女の姿もあった。
私は彼女に近付くと、他に聞こえないくらいの声で「なぁ」と話をふった。
「もっと本気でやれば上の方の認定がもらえただろう? どうしてそうしなかったんだ?」
興味本位から私はそう尋ねた。
少女は大きな目をまん丸くして私を見上げてきた。
「どうして分かったの?」
「……何となくだ。多分、他のヤツは気付いていない」
「そう……良かったぁ」
胸をなで下ろした様子の少女は、人指し指を口の前に持ってきて「内緒にしてね」と言った。
「あのね、わたし魔法がいっぱい使える子はお城に行くことになるって聞いたのよ。大人になったらみんなお城で働くようになるんだって」
「うん? うん、まぁ、そういうことが多いかもな……」
それを目標に、良い認定をもらいたいと思うのが普通だろう。
「わたしはね、家のみんなとお仕事がしたいの。みんなが好きだからみんなとずっと一緒がいいの。だからお城には行かない。魔法なんて使えなくてもいいのよ」
「……家が、商家なのか?」
「そうよ、わたしもパパのお手伝いをするの。大きくなったらみんなと同じお仕事がしたいの」
子供の戯れ言といえばそれまでだ。
だが、少女の言葉は私にとって衝撃的だった。
家の仕事を手伝いたいなどという理由で、城勤めをするという誰もが憧れる華々しい職業を捨てると。自分の意思で商家である家の仕事を選択すると言うのだ。
好きだからそうしたいというだけで。
「愚かしい話だ……城勤めよりも、家業を継ぎたいのか?」
この少女は分かっていない。誰もが大変だと知っている商人の道を、城勤めのチャンスを蹴ってまで進まなくてはいけない理由など、どこにもないのに。
「そうよ! あのね、うちのブランドはすごいの。パパもすごいの。みんなもすごいんだから!」
分かっていないだけだと、頭では理解しているのに。
何も知らない、誇らしげで真っ直ぐな瞳と小さな夢を、眩しいと感じてしまったのは何故だろう。
私にあるのは責任感だけだった。
自分がやらねばという気持ちだけで必死になっていた。
好きだからじゃない。自分以外に誰か代わってくれると言うのなら、今すぐにでも全て投げ出してしまってもいい。
そんな気持ちで、私は商品を売っている。
だがこの少女は……
「ヒスイ、ヒスイ?」
「あっ、パパ!」
ぱあっ、と顔を輝かせると、少女は私の前から走っていってしまった。
飛びついた腕の持ち主を私は知っている。
リックコルドン家当主、『ピース』のオーナー。
うちの競合相手だ。
ちらとこちらを見た彼と目が合った。
私が無表情のまま会釈をすると、やんわりと笑った彼も会釈を返し、娘を抱き上げてエントランスを出て行った。
「ヒスイ……か」
これが、私と彼女との出会いだった。