樹海のその先へ
改行、訂正等しました。
深夜の交差点に響き渡る救急サイレンの音。どうやら交通事故らしい。
車に乗った一人の男がトラックとぶつかったと近くに居た警察官は言っていた。その様子をどことなく眺めていた景子は不意に我に返った。見たことも無く、会ったことないまさに赤の他人の事故に彼女は涙を流していたのだ。
その時、自分が誰なのか分からなかった。名前はなんだ?性別は?職業、年齢、人間関係、その全てが記憶から消えていた。深夜にも関わらず人どうりの多い交差点。すれ違う人々が景子を見ては首を傾げて、その場を離れていく。
「ああああ!!」
目を覚ました景子はあたりを見渡す。
見慣れた目覚まし時計。たった一人の男ですら寝たことがないベット。それらが置かれている小さなアパートの一室。
しばらく時間が経ってから景子はここが自分の家であることが分かった。
今日は平日だが仕事は休み。彼女は週に四度の出勤で生活を送っている。内容は雑誌の表紙を作る事だった。そこそこの文系大学を出てすぐに定職についたので両親は安心してくれたのだが25を過ぎても男を連れてこないので結果心配されている次第だ。
あの事故の事は全く覚えていない。そればかりか昨夜のことなのか一ヶ月前のことなのか?あるいは一年前の事か、なぜ自分はそこに居たのか。それすら記憶になかった。
ひとつだけ覚えていることはバケツが溢れる程の量の涙を流していたことだけだった。まるで樹海をさまよう様に景子は記憶を辿り続けた。しかし一向に出てくる気配は無くただ彼女を急かしただけだった。
冷蔵庫に入っていたヨーグルトとフルーツを口に入れ、身支度をして家を出た。何かに吸い寄せられるように彼女はあの事故が起こった現場を探し始めた。大勢の野次馬が居たことを思い出し、人が多い都会なのではないかと考えた彼女はアパートのある神奈川県から大都会である東京まで足を運んだ。
人混みに慣れていない景子は東京の街をおたおたしながら歩いていた。渋谷という大きな交差点がある街まで来ると周りを見渡した。微かな記憶から脳に来る電波は感じられなかった。
近くの店で一番安いランチメニューを食べ終えた後、交番へ行き事故について警官に尋ねた。
「すいません。渋谷の交差点で最近交通事故ってありました?」
「ん〜、最近は無いね〜。というのもあの交差点は歩行者天国になってて車があまり通らないんだよ。だからその分事故も少ないんだ。」
多少、良い答えは返ってこないだろうと思ってはいたがあまりにも手がかりが無いのでお礼を言って景子は帰りの電車に乗る為に駅まで歩いた。途中、交差点を見つけては足を止めて確認したがピンとくるような場所はなかった。
道中のコンビニにてコーヒーを買い、駅までの道を歩いていると
「すいません。落としましたよ。」
という男性の声が聞こえた。景子が振り向くとそこには男性が景子の財布を持って近付いてきていた。年齢は推定だが景子と変わらないように見えた。
「あ、ありがとうございます。」
「いえいえ。」
景子の無愛想な礼にも親切に答えてくれた男性に彼女は今までに感じた事のない気持ちを得た。
「あの…凄く優しいですね。」
景子は先程までの無愛想な口調ではなく、男性に対してまるで好意を抱いてるかのような声に変わった。
「え?あ、ありがとうございます。」
突然、景子の表情と声が変わったことに驚きつつも男性は変わらず優しい声で礼を言った。
「良ければお茶でもどうですか?近くに美味しいケーキがある店を知ってるんです。」
「あ、行きます!」
予想外の誘いに驚いたが悪そうな人には見えなかったので景子は男性のあとをついて行った。
街はまだ発展中のビル街。新しいビルやまだ建設中の建物を横切っているうちに景子は不意に時計を見た。
予約した電車の出発時間まで30分もないことに気づいた。
「すいません。私神奈川から来てて…。電車の時間が…。」
途中まで話したところで男性が
「あ!そうだったんですね。でもせっかく店の近くまで来たんだからご馳走したいなぁ…。そうだ!帰りは僕の車で送りますよ。っていきなりすいません。自分だけ乗っちゃって…。名前も知らない男の車なんて乗りませんよね。」
「乗せてもらっていいんですか?」
「僕は構いませんが…。」
「では、お言葉に甘えてそうさせていもらいます。」
景子はこの男性に対して何の不信感も抱
かなかった。
男性の目からはやましい気待ちなど一切感じられず、景子にケーキをご馳走し、家まで送ってあげるという親切さだけが感じられた。
「僕、町田悠介と言います。失礼ですがお名前は…。」
恐る恐る尋ねる悠介に景子は
「上村景子といいます。職業は雑誌の表紙とかを作ってます。町田さんは…。」
「僕はA放送局で番組ディレクターをしてます。ええと、最近の番組でいうとおしゃべりナインっていうゴールデンのバラエティを担当しているんですけど…。」
「あ!その番組夕食の時に観てます!町田さんが作られてたんですね。」
「まだ5年ほどしか勤めてないんですけど早速仕事を頂いて…。そう言って頂けると凄く嬉しいです。」
仕事や趣味の話に弾んでいると
「着きました。この店です。」
まるで自分の店を紹介するかのように自慢げに話していた悠介に景子は口元が緩んだ。
悠介の言っていたケーキの美味しい店は渋谷から少し離れた静かな街にある喫茶店だった。
聞けば仕事の打ち合わせでよく通っているそうで中に入るとマスターが、
「いらっしゃい。町田さんいつもありがとうね。」
という言っていたのでかなりの常連だそうだ。普段お茶などしない景子は店に入ってから周りの装飾品ばかりを目を回しながら見ていた。
「面白いですか?この店は。」
「え、、」
突然ひょんな事を聞かれた景子は言葉に詰まった。
「いや、装飾品ばかり見てるから。何か気になるのかなぁって。」
「実は慣れてないんです。喫茶店とかあまり来なくて…。」
「そうなんですね。色んなところ連れて行ってあげたいな…。」
景子は悠介が最後に小さな声で言ったことには気づかず相変わらず店の装飾品を見渡していた。
二人で会話しているうちにマスターが二人分のケーキと紅茶とメニューにはないクッキーを運んできた。
「はい。ケーキと紅茶ね。町田さんが初めて女性を連れてきたからサービスでお客さんから頂いたクッキー付けといたよ。」
「ありがとうございます。」
悠介が会釈すると同時に景子も小さく頭を下げた。
「このケーキすごく美味しいです!」
素直な感想を悠介に告げると
「よかった。今飲んでる紅茶が飲み終わったら車で送りますね。」
「ありがとうございます。」
景子は丁寧に礼を言うと悠介は照れ臭そうに
「礼を言うのはこっちのセリフです。」
と言った。
キョトンとした景子に悠介は続けて
「一度のこの店に女性を連れて来たかったんです。あ、別に女性なら誰でもいいって訳じゃなくて…。」
焦る悠介に景子は笑みを浮かべて
「そんなに焦らなくても悠介さんの気持ち、分かります。とても雰囲気がいい店だし、ありがとうございました。」
「ですからそんなにお礼を言わないでください。いきなり連れてきたのは僕なんですから…。」
「でもほんとに美味しくて来て良かったです。そういえば町田さんは今日はお仕事お休みですか?」
「はい休みです。あれ?もしかして上村さんお仕事ありましたか?」
「いえ、私も今日は休みです。お互い休みで良かったですね。」
「いやーよかった。無理矢理仕事をサボらせて来させていたらとんでもない。」
会話に弾んでいるうちにコップ一杯満たんに入っていた紅茶は底をつき、二人は席を立った。
「お会計、済ましときますね。」
「いや悪いですよ。自分の分出しますから!」
「ここは僕に払わせてください。お願いします。」
ここまで懇願されると押しに弱い景子は財布をカバンに直した。
「今日会ったばっかりでご馳走してもらって…。ほんとにありがとうございます。」
「いえいえ。では車まで移動しましょうか。」
「はい。」
近くの駐車場に着いて景子は悠介の車のナンバーが目に入った。
「ゆ 11-08」
「どうしました?」
「偶然なんですけど、11-08って日付にしたら私の誕生日です。」
「え!?ほんとですか、」
驚く悠介に景子は自分の保険証を見せた。
「本当だ…。すごい偶然ですね。」
「私もびっくりしました。こんな事ってあるんですね。」
たわいもない会話をしているうちに時間が過ぎ、車は景子の家に着いた。
「ここで合ってますか?」
「はい。ありがとうございました。」
「こちらこそ。落し物を拾った相手がこんな楽しい人だなんて思ってませんでした。」
車の中でしばらくの沈黙が流れる。
二人は先程までの楽しい会話をせず、ただじっと、時が過ぎるの待っていた。待ったところで何も起きないことは分かってはいたのだが…。
「あの!」
突然、沈黙を破った悠介が景子の方を見た。
真っ直ぐな瞳を景子の目に向けて彼はゆっくりと、
「もし宜しければ、僕と付き合ってください。」
と言った。
「…。」
「今日、いきなり会って、中半無理矢理にお茶に行ってもらって、車の中で沢山会話して、僕はあなたのことが好きになりました。今日、景子さんと過ごした中で僕の気持ちはいっぱいになりました。だから…。」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。」
悠介の告白を遮るように景子はしっかりとした口調で返事をした。二人は単なる他人ではなく、その一つ、いや二つ上の恋人という仲になった。
夕飯を共に食べ、明日悠介の仕事が早いということでお互いの家で寝ることになり、車の中でさよならをした。景子のテンションは今までに無いくらい高く昇っていた…。
「こんなに人生って楽しかったっけ?」
付き合い始めて何日かたった頃のある夜、景子は夢をみた。
夢といっても馬鹿らしいふざけた夢ではなく、妙に現実味のある夢だった。
そこは東京の夜。記憶の片隅にあるがこれでもかというくらい高いビルが多く建つ街で景子は一人の男と歩いていた。それが誰なのか分からない。
横を見ても夢によくある周りが見えない状態になっており、もやもやとした影に覆われている。
特に会話を交わすわけでもなく静かに歩いていると突然、隣の男はいきなり景子の手を離し、前の車に乗り込んだ。咄嗟にナンバーを見ると
ゆ 11-08
景子は夢の中で心臓が物凄く早く動いているのを感じた。恐らく隣に居たのは悠介だった。
「待って!行かないで!私を置いていかないで…!」
景子の脳ではこう呟いたのだがこの声は音とならず当然、悠介には届かなかった。彼は車のドアを強く閉めたあとシートベルトを締めアクセルを踏んだ。
「ブォーン。」
聞き慣れたエンジンの音が小さくなるにつれて車は都会の明るい闇に消え去った。
その直後だった。
「ドン!!!」
鉄がぶつかり合う鈍い音が響いたと思うと辺りにガソリンの匂いが立ち込めた。人々はその音の方に向いた。
「事故!?誰か救急車を呼んでくれ!!」
大勢の人が騒ぐ中、景子はその音と匂いのする方に向いた。
まもなく救急車とパトカーが来て運転手は運ばれた。どうやら乗用車とトラックがぶつかったらしいと近くに居た警察官が言っていた。
ぐちゃぐちゃに潰れた車。景子は嫌な予感がし、咄嗟にナンバープレートを見ようとした。しかし文字が映る直前に目が覚めてしまった。
あの事故の場所は紛れもなく私たちが出会った場所だ。いつかまたあの場所でデートをし、別れる。どのような形かは分からない。きちんと和解してからかもしれないし、もしかするといきなり別れる事になるかもしれない。しかし景子は確信した。私達は別れてはいけない。
脳の樹海に沈んだあの記憶が現実になってしまう。
「止めなければ…絶対に…。」
心に思った事をおそらくあの事故の犠牲者である悠介に伝えるべく、携帯電話を手探りで見つけて悠介に電話をかけた。
「もしもし…景子?こんな朝からどうした?」
悠介はもう既に起きていた。
「今日見た夢の話なんだけど…。」
二人が出会う日に見た夢とは違って景子は今日見た夢を鮮明に覚えていた。その内容をひとつひとつ悠介に話し、何としてでも別れてはいけないということを真剣に伝えた。
「もちろん僕だって景子とは別れたくない。だけど、その話は君が見た夢だろう。何もそこまで本気にしなくても…。」
想像はできたが本気にしてくれない悠介に景子は次第に腹が立ち
「とにかく!私の手をいきなり離して一人で車に乗ろうなんて思わないでね!!」
事故の原因となった悠介の行動を強く言って電話を切った。
その日は仕事があったのだが夢の事と朝の悠介との電話の内容が頭から離れなかった。
仕事から帰る時、悠介からメールが入っていた。
「今日は仕事で帰れそうに無いので一緒にご飯は食べられない。ごめんね。」
少し前までは仕事で遅く帰る時も
「僕の分まで残しといてね。必ず帰るから。」
という前向きなメールだったのだが今日は食べられないとキッパリ言っていることから景子は朝の出来事で悠介を怒らしてしまったのかもしれないと思い、急いでメールを打った。
「今朝は強く言ってごめんね。私はあなたと別れたくないだけなの。明日は夜ご飯食べれるかな?」
このメールが送信されて丸一日が経った。悠介からの返事は無く、電話も何度か掛けたのだが出てはくれなかった。
そこで景子は以前悠介との会話の中でおおよその放送局の場所は聞いていたのでそこまで行って悠介に直接事情を聞くことにした。
翌朝、景子は電車で東京まで行き悠介の職場であるA放送局まで足を運んだ。そして受付でこう言った。
「すいません。町田悠介という男性に会いたいのですが…。」
「町田さんのお知り合いか何かですか?」
「ええ、まぁ。」
「分かりました。連絡するのでお名前を教えて貰ってもよろしいでしょうか?」
「上村景子です。」
「承知しました。では少々お待ちください。」
景子はマニュアル通りに話を進めオフィスに電話をかける受付嬢を横目に今までの悠介とのメールを見た。
あの電話以外、特に彼の機嫌を損ねるようなことはしてないはずだがあの一件だけでこれ程会わなくなるものなのか?そんなことを考えているうちに受付嬢の口から景子の耳を疑うような一言が放たれた。
「申し訳ございません。このオフィスに町田悠介という方はおられませんでした何かお間違いになれているのではないでしょうか?」
「え!?そんなはずは…ここはA放送局のオフィスですよね?」
「はい。」
「そんな…、」
オフィスの入口付近で倒れ込む景子を周りの会社員や受付嬢はキョトンとした顔で見ていた。その視線に気づいた景子は立ち上がり、
「お騒がせしてすいません。ありがとうございました。」
とだけ言って早足にその場を去った。
「一体どういう事なの?どうして悠介は居ないの?私に嘘をついていたってこと?だから突然姿を消したの?」
色んな疑問が景子の脳を渦巻いていた。混乱を抑えるため、以前二人で行ったあの喫茶店へ行くことにした。
「この角を曲がればあの古い喫茶店が…。」
見慣れた景色の一角を曲がるとまるで混乱した景子を迎え、包容するように喫茶店は建っていた。まさか喫茶店も消えているのではないか?
そう思っていた景子にとってただ建っていただけでも安心感を得ることが出来た。
古い木のドアを開けるとあのマスターがコップを吹いていた。
「いらっしゃい。」
マスターは悠介のことは特に言わず出迎えてくれた。景子はすかさず
「すいません、町田悠介さんは最近この店に来てますか?」
「町田悠介…?聞いたことない名前だね。どんな方なんだい?」
「え?」
景子は言葉を失った。彼のことを苗字で呼び気前よくクッキーをくれたあのマスターが悠介のことを覚えていないなんて…。
「何日か前にこの店に私と来た男性ですよ。ほら、あの時クッキーをくれたじゃないですか!」
「クッキー…?いやお客さんにクッキーをあげた記憶は無いな…。君が一人で来たのは覚えているよ。ここの紅茶とケーキを食べてくれたね。帰る時に美味しかったって言ってくれたのは嬉しかったよ。」
マスターの口からは景子の記憶にないことばかり出てきた。
私が一人でこの店に?美味しいと言ったのはマスターにではなく悠介にだったはずだ。
しかしなんの迷いもなく話すマスターに対してこれ以上何か言う訳にもいかず、大人しくコーヒを一杯飲んで店をあとにした。
一体どうなっているのか?私の周りから悠介の記憶が消えていっている。
混乱を抑えるために入った喫茶店でもおかしな事が起こり、余計に混乱した景子は大人しく電車に乗ろうと考えた。
通りにあったコンビニで小腹を抑える程度の食べ物を買い、重い足取りで駅までの道を歩いた。その時、後ろから、
「すいません、落としましたよ。」
と景子に向けているであろう声が聞こえた。後ろを向くと景子の財布を持った女性が近づいてきていた。
「あ!ありがとうございます。」
「いえいえ、気づかないまま行かなくてよかったです。」
女性から財布を受け取り、再び歩き出した景子は
「あれ?この感じ前にも起きた気がする…。」
というデジャブ感に冒された。
しかしその気持ちも駅に着く頃にはすっかり消えてしまった。
電車から下り神奈川の街を歩いていた景子は
「あれ?私は今日喫茶店に行く為に東京まで来たんだっけ?」
というまるで記憶喪失のような感覚になりながらとぼとぼと帰路を歩いた。
翌朝、魘されるように起きた景子は仕事までの時間にぼんやりとテレビを見ていた。
「昨夜12時頃、東京渋谷の交差点で事故がありました。被害者は乗用車に乗っていた…。」
その事故の場所は昨日の昼間に景子が歩いていた交差点だった。何の為に歩いていたのかは未だに思い出すことが出来ず記憶の奥底に眠ったままだった。
「このテレビ局、事故にあった車のナンバー隠し忘れてる。モザイクかけなくて大丈夫なのかな?」
眠気の取れない目を擦りながら番号をよく見てみると、
ゆ 11-08
「あ!!私の誕生日と同じ番号だ!ってなんの偶然よ…。」
そう独り言を言いながらテレビを見ていた景子は
「この事故にあった男性、私と同じ年齢だ。まだ若いのに…。」
と同情した。
しかし同情した男性は景子にとってただの赤の他人であった。