対岸の桜
完全創作です。軽めのダーク注意。
よく晴れた日の海岸線 窓を開けたまま車を走らせると
有機の香りを含んだ温い海風が 鼻孔の芯に絡みつく
あの日と同じ 湿り気と白波の煌めきが混じった島の風だ
助手席越しに左手を見れば、狭い海の向こうに対岸の桜
緑の合間に白桃色が浮かんで私を呼んでいる
こちらにおいで 沈まぬようにこちらにおいで、と
あの日も同じ 対岸の桜を見ていた
助手席に座り 窓枠にもたれかかりながら
ラジオから流れるポップミュージックに紛れて 運転席の母が囁く
「このまま 海に飛び込んでもいい?」
きりりと身が強張る 朧気だった命の輪郭が確かな存在感を持って私に死を突き付ける
ああ これからガードレールを突き破り 車が海に呑まれる時
春風に炙られたこの体は 海の水の冷たさを知るのだろうか
海風が潮の香りで母を誘う 海の底に苦しみはない、と
海風が波を寄せて私も誘う 共に行こう、と
答えを返せず救いを求めて目を上げれば 対岸に桜
あそこまでたどり着けば 私は生きられる
私一人 母を海の狭間に残して
「ねえ」
母が呼ぶ
体がすくんで まるで動けぬ
「寝ているの?」
私は固く目を閉じた
あれから幾年経ったのか 対岸の桜は私を誘う
こちらにおいで 沈まぬようにこちらにおいで、と
私は未だすくんだまま 対岸の桜にたどり着けぬ