第6章 競馬狂の詩 10
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券が唯一の生活の糧だ。共犯者優香とのあらたなるサバイバルの日々を綴ってゆく」
(2) 欲望の渦の中で その4
仕事でしばらく家に帰れなくなるということを、なかなか優香には言い出せずにいた。かなり危険な目に遭うであろうことは容易に予測できる。優香はきっとやめろと言うだろう。
だが、着々と準備は進んでいた。この3日間というもの、俺は鉄三郎と朝から晩まで片時も離れず、密に行動していた。道場へどのように侵入し、どうやって連絡を取り合うか。そして救出と脱出の方法。それらをあらゆる角度から考え、最良の方法をひねり出しては検討し直した。道場の中を見聞きした経験のある鉄三郎の情報は貴重だった。正確とはいえないまでも、彼の感覚で作られた道場内の見取り図は役に立った。
意外に歳のわりには覚えも早く、なんでもこなせる男だった。
やがてわかってきたのは、鉄三郎というこの老人は金のために動くのではなく、正義感の強さから行動するように思えた。さらに言えば競馬への愛情あふれる人物だ。競馬の未来のためにも、道場をのさばらせておく訳にはいかない。そういう志もあるようだ。寸借詐欺を働くような人物にはとうてい見えなくなってきたのだから不思議だ。もっとも、だからといって馬券はお世辞にも上手いとは言えなかった。
「狂死狼ちゃん、俺たち生きて帰れるんだべかねェ」
眉間にしわを寄せて鉄三郎は語った。
「ああもちろん、生きて帰るさ。大丈夫だって。心配には及ばない。俺がいるし最悪の場合、いつ逃げ出したっていいんだし」
「そりゃあ俺は逃げ足だけは昔からはやいんだ。そこは心配いらねえよ。けどな、せっかくよ、わざわざ行くんだったら何とかしたいじゃねえか。手ぶらで帰ってくる訳にはいかねえよな」
「そりゃそうだけど……」俺は彼がそこまで思っていることに少し驚いた。
「だったらよ、命を賭けてやるしかねえよ」
男、岩元鉄三郎の覚悟を見た気がした。
そして、決行は今度の土曜日に決まった。競馬開催日は道場全体が活気付くのだ。だとなれば、潜入するにはなにかと都合がいいだろうとの判断だ。
今日か明日には優香に話さなければならない。どう伝えたらいいのか……俺は頭を抱えていた。
そんな時だった。
久しぶりにチャンゴからの着信が入った。
「よお。久しぶりだね」俺は即座に通話ボタンを押した。
「あ、狂死狼さん。あのね。実はカオリさんの、い、意識が、戻ったんだ」
「え?」
「とうとう目を覚ましたんだよ。良かったぁ。本当に良かった……」
チャンゴの喜ぶ声を聞きながら嬉しい半面、戸惑う気持ちも少しはあった。
「何。本当か? 良かった……で、今どんな具合なんだ」
「うん。それが……まだあんまりちゃんとしゃべれないんだけど……頭を打ったショックで、記憶の大半を失っているようなんだ」
「え。何も覚えていないのか?」
「うん、そうなんだ。自分の名前も親兄弟のことも……それと……」
「それとなんだよ?」
「狂死狼さんのことも全く覚えてないみたいなんだ」
「そ、そうなのか……」
声にならない衝撃を覚えた。あれほど愛しあった俺のことを、何も覚えていないだって?
……いや、ならば好都合じゃないか。俺はひどい男だ。今さらあわせる顔もない。むしろその方が……チャンゴにとってもいいことじゃないか。どこまでも卑劣な考えが頭をよぎった。それでも一度だけ、どうしても会いたいと思った。
「チャンゴ。いいか、よく聞いてくれ。もう俺なんかがカオリにどうこうしようなんてことはこれっぽっちも思ってない。むしろ、これほど懸命に看病しながらカオリを想い続けるお前のことは尊敬するし感謝もしている。このまま二人がうまくいって欲しいとも心から思うんだ。でもな、一度だけ。ほんの少しでいいから、カオリに会わせてくれないかな。こんなこと言える立場ではないことも充分解ってる、だけどな……」
「いいっすよ。俺もそうした方がいいと思っていますよ」
「そ、そうか。ありがとう。ただ、今すぐは無理なんだ。ちょっとややこしい仕事を抱えてしまってさ。これが終わったら……必ず行くから」
「そうですか。じゃあ、待ってます」
「ああ頼む。それまで……くれぐれもカオリのことをよろしく頼む」
「はい。では……その時に……」
そこでチャンゴとの会話は終わった。
よく聞き取れなかったが、チャンゴはそのあと確かにこう言った。俺には聞こえた。
「必ず殺してあげますよ、あんたを」
続く




