第9章 転がる石のように 16
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。本格的な投資馬券と命を食いつなぐサバイバルの日々を綴ってゆく」
2 逃亡の果てに
その3
馬券の成績は芳しくなかった。ここのところ大きな的中からは見放されていた。
いずれ、資金が底をつき、生活費を失えば生きるすべはなくなる。本当の死が待ち受けているのだ。
そんな状況の中で、たまたま偶然居合わせた木賃宿の隣人のことなど、俺にはどうでもよかった。何度か酒を共にし、競馬談議をしただけの関係だ。あえて、彼の内面には入り込もうとしなかったし一切、個人情報的なことを訊きもしなかった。変なかかわりを持ちたくはなかったのだ。それがどうしてこんなことになったのか。
野村の妹と名乗った30代前半の女はもう憂げな顔を上げて俺を見た。
「兄が警察に連行されたというのは本当なんでしょうか」
「ああ、本当みたいだね。詳しくは知らないけど」
そっけなく答えた。もうシンクに流れ落ちたカップ焼きそばのことなどどうでも良かったが、いかにも焼きそばが大事で気を取られているフリを続けた。彼女に見つめられるとなぜか胸が高鳴り、動揺を隠しきれないと自覚したからかもしれない。警察沙汰には関わりたくないという本音もあった。
「警察に捕まるなんて。いったいどんな。あ、すみません。わたしのせいでせっかくのお食事が」
箸で麺をすくい取っていると沙也加が近づいてきた。
「あ。いえ、いいんです。確かまだもうひとつあったと思うし。すぐ近くにコンビニもあるし。あ、そうだ。酒と新聞買わなきゃ。コンビ二行こう」
沙也加は俺の体に密着するような格好で流し台を覗き込んだ。
「あーもう駄目ですね。これは食べられません。一緒にいきましょう。私にカップ焼きそばを買わせてください」
「あ、いえ。あなたのせいではないですから。別に気にしないで」
「いえ、いきます……兄がここでどんな暮らしをしていたのか、ぜひ、お話聞かせてください」
「いや、その野村さんとは何度か飲んだり話したりしましたけど、それほど親しいわけでもないし」
「それだけでも素晴らしいと思います。あの兄が他人とお酒飲んで話すなんて」
「え?」
「兄からの最後のメールにはあなたのことが書かれていました。なんだかすごく楽しそうに。私すごく気になってて」
俺はすくい取った麺をゴミ箱に捨てて彼女とコンビニへと向かった。
カップ麺と酒と競馬新聞を買いながら、彼女に野村とのやり取りを思い出しながら話した。
彼女もカップ麺やお菓子やジュースを買って平成ホテルの部屋までついてきた。
「私がカップ焼きそば作りますから。お湯を注ぐだけだけど。いっしょに食べてもいいですか?」
「え?」
「いいでしょ。もう少し話を聞かせて」
「ああ、別に構わないけど。汚くて狭い部屋だよ」
「兄がどんな所に住んでいたのか知りたいから。」
そういって彼女は屈託のない笑顔を見せて部屋までついてきた。
「でも、やっぱいきなり見ず知らずの男の部屋に……大丈夫なの」
「うん。なんだか焼きそばを未練そうに拾う姿がおかしくて……あ、ごめんなさい。多分あなたは変な人じゃないってわかるから」
何を言ってるんだろうか。俺が人殺しだと知ったらこの女は腰を抜かすんじゃないだろうか。
もちろんそんなことはおくびにも出さない。
「君は相当変な人だね」
「うん。よく言われる」
それから二人でカップ焼きそばを食べ、酒とジュースを飲みながら様々なことを話した。
密室の中、何をされてもかまわないというような油断を見せながらも、どこにも隙はないといった感じの不思議な人だった。
H市に母親と一緒に住んでいるらしい。野村は地元の高校を出てからは仕事と住みかを転々とし、ここ何年もあ会っていなかったということだ。母親が重い病気で入院した矢先に野村が逮捕され、心配になって駆け付けたというわけだった。
もう一人の妹が母親に付き添っているが、そうそう長く滞在できない。野村に面会してもしも釈放されたなら、地元に帰ってくるよう説得するためにやってきたのだ。
図らずも俺はそれに付き合い、野村の力になることをいつの間にか約束させられていた。
飲んだ勢いなのか、彼女の魅力に気圧されたのか……定かではない。
どうやら女難の相はまだまだ俺に取り付いているらしい。
連絡先を交換し、翌日警察署へと面会に出向くことになった。俺は彼女の内縁の夫ということになるらしい……
さて、
投資競馬のこれまでの経過と今後の展望を記しておこう。
年明けからの収支はマイナス26万円ほどとなっている。
昨年暮れの有馬記念勝負からは10万円ほどのマイナスにとどまっているのだが、大きなマイナスだ。これでは冒頭に記したとおり、死を待つのみだ。
しかしながら光明は見えている。
というのも、予想では大幅に勝っているはずであるのに買い方のまずさや買い間違え、自分の予想を信じ切れなかったなどの不確定要素のためにマイナスとなっている。
シミュレーション通りに買ってさえいれば、実は大きく勝ち越している。
自分の弱さを克服していけば必ずや結果を残せると信じている。
負け惜しみや言い訳のように聞こえるだろうが、多くは語らず。これからの実績を見ていただくしかない。
シミュレーションの集計を続けているが、2年と9か月分のデーター合計600レースを同じ条件で購入し、的中率20%、回収率145%をクリアしている。ただ、この的中率20%が曲者であり、人の心を惑わせる悪魔のようなものかもしれない。
的中率20%ということは不的中率が80%ということである。
不的中が20回続くことはざらにある。下手をすると30回連続不的中も出てくる。これには本当に精神をやられる。
競馬で勝つということは実に難しいと実感する。
だからこそ挑戦のし甲斐があるのだ。
続く




