第8章 かなしき口笛 15
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない
。投資馬券はいまいちだが、共犯者優香とのあらたなるサバイバルの日々を綴
ってゆく」
(1) 花菜の決心
その15
この世のものではないと思われる世界をさ迷っていた。
玉造ミエのしわくちゃの顔が俺に近づいて来て、口づけを求める仕草をした。斜め上に顔を接近させてきた。唇には真っ赤な口紅。顔を上気させているのがわかる。俺は思わず顔を反らせた。すると、俺のすぐ横には天見組長がいた。
「お前が俺の女をつまみ食いしやがったんだな」何を言っているのかわからずに追われる羽目になった。少し逃げるとその先に黒井組長がたたずんでいた。拳銃を俺に突きつけて首を振った。「逃げても無駄だ……」
小倉野組長がその後ろで椅子に腰かけている。いったい何が面白いのか、低い声でいつまでも笑っていた。込み上げる笑いがさらに笑いを誘い、どうにも止らないといった風情のようだった。「しろうとさんを巻き込むんじゃない。今ためされてるのは俺たちの方だろう」出院組長が叫んだ。
何故かわからないが俺は窮地に陥っていた。天見が……黒井が……出院が、そして小倉野
が俺の周りに集まって来た。
「よそもんが。お前は首を突っ込み過ぎたのよ」女の声がした。
「うううッううッ」
自分のうめき声で、俺ははっと我に返った。ここはどこだ。体中が痛む。少し身体の向きを変えようとしても、酷い痛みが伴う。思わず悲鳴を上げそうになる。とても起き上がることができない。
ホテルの一室のようだった。遠くに汽笛が聞こえてきた。
女が現れた……花菜だ。裸の上にガウンを羽織っている。白い乳房が揺れてい
た。そしてその手にはナイフ。
「お願い、ここで私と一緒に死んで」
ようやく俺の中の記憶が。細い糸を引いた途端にずるずると芋づる式に姿を現わせてきた。俺はあの時、黒井の強い力で首を絞められた。
花菜は黒井に向けて弾丸を放った。命中したのだろうか……黒井の力が少しずつ弱まる間に川島会長が発作を起こして苦しみ出した。側近の男たちが会長を支えていたようだ。会長が放つ断末魔の悲鳴とともに俺は意識を失っていた。
そして今、花菜とふたりのこのホテルの一室で。今度は花菜に命を狙われている。いや、少し違うのか。一緒に死んでくれと言ったようだ。ああ、なんだかよくわからないが、それもいいかな……。
「いいよ。そのまま心臓目がけて刺せよ。それで楽になるなら」
俺は目を閉じた。真相はまだわからない。なんとなく理解できるのは、どろどろの愛憎関係がきっとそこにあるのだろう。そんなことの間に挟まれるのはまっぴらごめんだ……そう思うなら逃げればいい。身体がいうことをきかないのなら命乞いをして回復してから逃げる手もある。だが、そうはしたくなかった。この辺で終わりにしても悔いはないと思えた。どうせあの時、殺人を犯したときに死ぬべき命だ。
そんな思いとは裏腹にずいぶんと生かされた。いい思いができた。でももういい。この女とともに……
カタリと刃物が床に落ちる音がした。冷え切った身体の重みが俺の胸にのしかかってきた。
わあああと叫ぶように、顔をうずめて花菜は泣いた。
女の涙というものに感慨はなかった。この女も俺を死なせてはくれなかった。死にたいのか死にたくないのかもわからないでいた。ただ震える肩を抱きしめること以外に、俺に出来る仕事はなさそうだった。
「川島が死んだの……」
しばらく泣き続けた後に花菜は言った。
「そうか。残念だったな。で、跡目争いは」
「そんなことより、私を責めたり確かめたりはしないの?」
「うん。まあ、あんまり興味がないというか。どうでもいいというか」
もう花菜の涙は止まっていた。俺の唇に人差し指をあてて言った。
「酷い人」
「どう取られようといいんだけどさ……君の方が酷いとしか思えないけどな」
「ふふふ。そうよね。あははは。目論見は大失敗。全部あなたのせいよ」
「なんでそうなる? 君は出院組長と結託して天見組を蹴落とし、教龍会を我
が物にしようとしたんじゃないのか。薬局のレジとか飲み屋のバイトとか、飛
んだ茶番だったな。会長の娘といっても正式じゃなくて権利はないに等しいんだろう。だから手の込んだ絵図を描いた。そういうところだろう。それがバレたから死にたくなったのか。だとしたら俺には興味ないね。い
つ死んでもいいと考えてるから。一瞬、受け入れる気になっただけだ」
「う-ん。それは半分合ってるけど、半分違うかな」
「だからどっちでもいいんだって。パチンコチェーンパラダイスの大女将が自殺した。その真相を探るのが仕事なんだ。あの伊藤が天見の下で荒稼ぎのためにやった詐欺行為だろう。老婆は財産を根こそぎ奪われ悲嘆にくれ、首つり自殺をした。奪われた金がどう使われるかなんて知ったこっちゃないんだ。あとはまとめて報告すれば終わりだ」
「それだけ?」
「え。それだけって……後は何があるっていうんだ」
「そうよね。部外者にはその程度にしか……真相はもっと奥深くにあるのかもよ」
「だから、どんな真相があろうとなかろうと、関係ないし」
「きっとあなたは殺される。相棒のナカムラさんも。その報告を持ち帰った途端に」
「どういうことだ」
いつの間にか花菜は俺の下腹部をまさぐっていた。そして俺の手をつかみ、自分の女の部分へと導いた。
そこは熱い粘液が溢れていた。
続く。




