第8章 かなしき口笛 11
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券はいまいちだが、共犯者優香とのあらたなるサバイバルの日々を綴ってゆく」
(1) 花菜の決心
その11
「俺は何も知らない。たまたまドライブの途中、小便しに降りただけだ。なのになんでこんな酷いことを」俺は悪あがきを吐きだした。
「嘘つけよ。ピンポイントでこの建物に入ってきたくせに。あのさ、人の命は地球より重いとか訳の分からんことを言いだすあほうが多いけどよ、人の命とありんこの命と何が違う? アメーバーの命とか病原菌の命はどうなんだ。何も変わりやしねェ。この世に生きる命に順番も上下もないんだ。うっかり油断したら次の瞬間、捕食者にぶち殺されるか喰われるかってだけのことだ。虫けらも人間も同じよ。人の命だってその仕組みのひとかけらだ。どんな偉い人も武器を持たなきゃ熊やライオンの前ではひとたまりもない。ありんこと同じ存在だ。そんな人間いくら殺したって、死体さえちゃんと片づければな、罪にもならねえんだぜ。その道のプロがここにはそろってるんだ」
伊藤は笑っていた。狂気の影が漂う笑いだった。
本当に人を簡単に殺してきた男なのだろうか? 俺とは相容れない、間逆な感覚の男なのだと思った。
ひやりと冷たい鋭利な切っ先が俺の喉元にあてられた。すうーっと右から左に20センチも滑らせればそれで終わりだ。現実に死と隣り合わせの場面に出くわすと、なぜか恐怖よりもおかしさが込み上げてきた。
かつてカオリと不倫をしていたポマードの男の喉に刃物をあて、同じように脅したことがあった。馬鹿な真似をしたものだ。こんな風に今度は自分がされるにはめになろうとは……ザマアねえ。これが因果応報というやつなのか。ふふ。どうせこの手で人を殺めた身だ。つまらないこんな命を落としたところで所詮、運命だ。好きにしろよ……俺は覚悟を決めて眼をつぶった。
「てことは、玉造ミエさんを殺したのもお前なのか……」
背中合わせのナカムラさんが低く呟くように言った。すると誰の眼からもはっきりとわかるほど伊藤は動揺した。
「なんだとお……お前らいったい何者だ。いったい何を知っているっていうんだ」
明らかにうろたえていた。いつの間にかナイフが俺の喉元から離れた。覚悟を決めていたとはいえ、やはり安堵のため息が出る。冷や汗がどっとあふれ出た。伊藤は今度はナカムラさんの方へと身を移した。
「おい。どういうことだ。何故、俺のことが分かった。どうやってこの場所を知ったんだ。お前らは何者だ。いったい誰に頼まれた?」
その答えは死んでも言えないことだった。依頼主の名を語ることはご法度だ。絶対の守秘義務がある。
「くそ、この、この野郎!」
簡単には口を割らない俺たちの態度に業を煮やし、伊藤は激しい暴力をふるった。力を集中させた足蹴りやこぶしが俺たちの皮膚をめくり上げ、肉を切り裂いた。途切れることなく連続して痛めつけるのだった。硬い革靴の蹴りは、骨の髄までがきしむような激烈な痛みだった。
じっと耐え続けながら俺たちは、嵐が過ぎ去るのをただ待つしかなかった。どうしようもない辛く長い時間が流れた。
やがて、はあはあと息を切らした伊藤の攻撃は止まった。俺とナカムラさんは気絶寸前だった。ボロ雑巾のようになりながら、お互いの背中を支え合っていた。
「いい気になるなよ。絶対に吐かせてやるからな。死んだ方がはるかにマシだったと、死ぬほど思わせてやる」
そんな風に取りこぼした伊藤の捨て台詞だ。
殺すなら殺せ。
完全に開き直った態度を取っていた。
伊藤の部下はいったん部屋を出た後、しばらくしてバケツをふたつ下げて戻ってきた。入って来るや否やバケツの中の水を俺たちに浴びせかけた。
「ぎゃああッ」思わず声が出た。悲鳴だ。その水とは……おそらく海水だった。痛めつけられた皮膚の傷跡に染み通っていく塩分は、強烈だった。
それからの三日間……俺は悲惨の限りを味わいつくし、この世の終わりを何度も味わった。
続く。




