第8章 かなしき口笛 10
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない
。投資馬券はいまいちだが、共犯者優香とのあらたなるサバイバルの日々を綴
ってゆく」
(1) 花菜の決心
その10
俺たちは花菜から聞き出した天見組の若頭、伊藤正明に接近することを企てた。『ピエール』でコンドームを購入した男だ。この男は、ことあるごとに花菜に言い寄っていたようだ。今では、つかず離れずの腐れ縁のような関係にあるらしい。彼女はこの男を、裏社会から足を洗わせてまともな人間になることを望んでいるようだった。この男に愛情を抱いているのかもしれない。少し嫉妬を感じた。同時に優香に対しても心で謝った。
危険な匂いがした。この男は天見のもとで詐欺集団を仕切っているのだ。年寄りを相手に金を奪い取るシステムを、ここ5年ほどの間に急速に確立し、教龍会の中でも飛ぶ鳥落とす勢いのある男だった。まだ34歳と若いが、天見の懐刀として頭角を現している。
いかなる暴力組織であろうともモノをいうのはやはり金だ。金を生み出す才覚のない者は、結局どんな組織に所属しようが頭角を現すことはない。それは一般社会においても同じだろう。営業力とは金を生み出す能力とイコールだ。営業力のない会社はつぶれるし、営業マンとは会社に利益を生み出し、ライバル他社とし烈な闘いを強いられる戦闘員なのだ。そういう意味では、暴力団と一般企業とになんら差はない。ただ、上下関係が厳しいことと、扱う商品がまともなサービスとは少し異なるくらいだ。ただし待遇は、その能力によっておそろしく上下するし、昔ながらの任侠に生きる渡世人の風体は多少残されているようだ。杯を交わすということがなによりも重んじられる一種独特な世界だ。
もっとも、法を犯すことを厭わないというのは現在ではほんの一部であり、多くの組織の人間は法律のすれすれの中で、それを超えないようにひっそりと生きているのだ。案外、一般企業の営業マンよりも真面目で立派な人間も多いのだ。
しかし、ここO市では少し話が違う。血の気の多い昔ながらのヤクザが幅を利かせていた。しかも4つの組織が対立し、それぞれが一触即発の様相を呈している。なかでも伊藤正明は台風の目だった。一番多くの金を生み出し、上部組織である教龍会に献上する額も多かったからだ。それを妬み、引きずり降ろそうとする表向きはグループ傘下の仲間たちが水面下で動いているのだ。
説明が長くなった。つまり、俺とナカムラさんは素人の浅はかさで伊藤が詐欺集団をまとめるアジトへと潜入を試みたのだが、あっけなくチンピラ風の若造5~6人に取り囲まれてしまった。
そのアジトとは、O市を見降ろすT山の中腹に建てられた旅館の跡地だった。花菜の証言で知り得た情報だ。気付かれないように密かな潜入を図ったはずなのだが……
「おい、待て」
すぐに見つかった。見張りの男はピーっと笛のようなモノで合図をした。すると仲間がすぐにあらわれた。さすがに警戒は厳重だった。
いつ以来だろうか。久しぶりに身体を酷使して全身で戦うことになった。だが多勢に無勢、若さの勢いと訓練された動きには到底かなわなかった。ナカムラさんはダメージを受ける前に早々と白旗を上げた。俺も、数発の拳と蹴りを受けてうめき声をあげて倒れ込んだ。あえなく俺たちは縛り上げられ、伊藤のもとへと連れ込まれたのだった。
旅館の中の一室。
まわりを物騒な顔立ちの人間達に取り囲まれた。俺とナカムラさんはその真ん中で、背中合わせに縛られて腰を下ろしていた。
「お前ら、何もんだ。誰に聞いてここに来た?」
伊藤は冷ややかな目で俺たちを睨みつけた。その手には大型のジャックナイフがあった。
俺はのど元にナイフの切っ先をあてられたまま身動き取れずにいた。
「なあ、全部吐けよ。じゃないと、喉から血を吹いてさ、あの世に旅立つことになるぜ。たぶん、このナイフが動いたら5分で天国行きだ」
静かな低い声がつぶやく。
これって映画やドラマでよく観るアレか……ええ?
現実はなんだか違う。背中に冷や汗が伝った。ものすごい恐怖だった。
「はいッカット!」
なんて助監督の声がどこからともなくで聞こえてくればいいのだが……。
残念ながらその気配は全くなかった。
続く




