第8章 かなしき口笛 8
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券はいまいちだが、共犯者優香とのあらたなるサバイバルの日々を綴ってゆく」
(1) 花菜の決心
その8
朝が来た。
まどろみの中で、俺という意識が次第にはっきりとあらわれてきた。
そうだった。薬屋『ピエール』のレジで交わした『エル・ド・ラーデ』に来てくれたら全て話すという約束はまだ果たされていなかった。俺の中ではもう、どうでもいいことのようにさえ感じられていた。それほど彼女の、花菜の体を無性に追い求めたのだった。その時、優香の顔が少しだけよぎったが、それもすぐに彼方へと消えていった。男というモノは、本能にめっぽう弱いものだということをあらためて知った。
しかし、俺の右手が寝息を立てている彼女の股間の大事なところに侵入しようとしたところで、彼女の左手が俺の手首から下を羽交い絞めにした。
「いったい何が目的なの?」
驚くほどの冷静な口調で、花菜が俺を問い詰めた。
そう、眠ってはいなかったのだ。
「いや、何もさ。ただ、ひと一人が死んでるんだ。その人の家の中のさ、とある隠された場所で君が働く薬局のコンドームが見つかったんだよ。その人は老婆なんだけどね」
「そうなの……やっぱりあの人が関係してるんだ」
「あの人?」「わたしの……いい人ていうか、いいように扱われてるだけの。ホントもう離れたいんだ。できるならそいつとは」
「そうなのか。君は……ヤクザの男と付き合ってるのか」
「何人かは関係を持ってるよ。こういう商売だもの。金になるなら何でもやるのさ」
「へえーたいしたものだね」
そう言いながら俺は、嫉妬に狂いそうになるのを押さえるのがやっとだった。そうだよな。そりゃそうだ。初めて会ったばかりの女とこうなった。それは他の男、客とでも充分にあり得ることなのだ。俺だけが特別な存在という訳ではないだろう。1番の相手は必ずどこかにいるのだ。といって、2番目や3番目じゃ許せないと思う……なのに1番だと言われたなら、それはそれで心底困るくせに……。
曖昧で、歪んでいて、どこか卑屈で、なのに自分がいつも一番でいたい。それが人間というものなのだ。どこまでも複雑な生き物だと思う。
「目的はひとつさ。コンドームを買い、それを活用した人間を探してる。それだけさ。俺は探偵の端くれだから。人の触れられたくない秘密を探るのが仕事だから」
ありったけの強がりを込めて俺は言った。
「なんで探偵なんかやってるの?」背中を向けた俺に花菜が抱きついてきた。
「なんでって。これが天職だから、な訳ないか。ごめん、そればかりは自分にもよくわからないんだ。いろいろなことが、ここのところあり過ぎて……」
「だったら、もうひとつ。花菜のお願いを聞いてくれる。そしたら」
「なんだそれ。そしたらって」
「弟が行方不明なの。かなりグレてたからしょうがないんだけど。どこかで殺
されてるかも知れないんだけど。生きてたら、もう一度会いたいんだ。だから、もし探してくれるんなら。わたし、あなたの女になってもいいよ」
「え。いや。そのなんていうか。女になるとかならないとかじゃなくて。正式にうちの事務所に依頼されたらいい訳で……いや、それはちょっと」
俺の口はキスで塞がれた。それから心地良い男と女の必然的な行為へと、またしても移るのだった。どこまでも男を操る女なのだなと思う反面、その端から俺はまた……溺れた。
花菜の身体を、俺は隅から隅まで……味わい、そして果てた。
それは、いずれ俺のもとに、恐ろしい結末を招く発端となるのだった。
続く




