第7章 さまよえる者たち 8
「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券はいまいちだが、共犯者優香とのあらたなるサバイバルの日々を綴ってゆく」
(1) 消えた女 その8
「どうして彼女が別れた元妻だとわかったんですか」
俺は当然のごとく訊かずにはおられなかった。
「ターゲットの調査票見てないのか。彼の身上書にあっただろう。離婚して3年になるって」陳さんは答えた。赤い唇はまだそのままだった。
「いや、流し読みはしましたけど……別れた妻のことまでは書いてなかったですよ」
「あのな。この仕事というのは与えられた物だけで勝負しても上手くいかないぞ。先を読んで準備、行動する癖をつけないとな」
岡林探偵事務所マニュアル10カ条
5.準備を怠るな。常に先を読んで行動せよ
確かにそうかもしれない。陳さんはちゃんとマニュアルに従ってしっかり仕事に取り組んでいるんだ。北川のことを入念に調べたんだ。なるほど、このヒトはプロなのだと思った。
「でも、なんでこうしてホテルで逢うほどの仲なのに二人は別れたんでしょうね。あ、そういえば身上書にあった。まだ幼い息子が交通事故で亡くなったとか」
「まあ、それが一番の原因だろうな。だが、別れても実は忘れられない仲だった。ということは親か、あるいはまわりの第3者が無理やり二人を引き裂いたのかもな」
「そういう風に考えられますね。でも、これじゃたぶん依頼人の要望には応えられないですよね」
「ああ。調査の結果、何もなかったという証拠を示すことだって我々の仕事だ。依頼人が望むものが必ずしもあるとは限らないからね」
いちいちごもっともだ。俺は陳さんに対するこれまでの印象をガラリと変えた。どちらかといえば尊敬の念に近いものを感じていた。
「それよりも……」陳さんは赤い唇の片方をひくと吊り上げて俺の顔をじっと見つめた。「狂死狼ちゃんってさ、なかなか好みの顔だよねえ……」
「な、なんですか?」いきなりやってきた怪しげな雰囲気に、俺はびくりとした。
「せっかくこんなにいいムードの部屋にいるんだからさ。ねえ、どう? わたしたちも楽しもうか」
陳さんは唇を突き出し俺に迫ってきた。
「わああ。や、やめてくれえー」俺は必死に逃げた。
「あははは。嘘よ。冗談だって。あははは」
本当だろうか? 俺はこれまでの陳さんに対する印象をさらに変える羽目になった。
それから2時間ほど隣りの部屋を探ってみたのだが何も得るものはなかった。一度別れた夫婦がふたたび愛の炎を燃やしているというだけのシチュエーションだった。ただ二人が部屋を出る時、北川は花蓮に何がしかの金を渡していたようだった。花蓮を経済的に助けているということだろうか……。二人が出た後を追って俺たちも部屋を出た。幸いなことに俺のミサオは無事だった。
料金は顔を合わせずに支払えるタイプのホテルだったのでほっとした。もう誰かに陳さんとのツーショットをこれ以上見られたくはなかった。
ホテルを出て外を窺った。タクシーを掴まえようと道路脇に立つ二人の姿があった。俺たちは物陰に隠れて見つめた。
「これ以上まだ追いかけるんですか」俺は陳さんに小声で訊いた。
「うん。まあ、あまり気乗りはしないよな。さてどうするか……お、アレは?」
陳さんは今歩いてきたホテルの方にと目をやった。
「何ですか。いったい」
「おお。これはこれは。飛んで火にいる春の虫だよ。こう暑いと湧き出て来るもんだな。ミイラ取りがミイラとはこのことだ」
見ると、今出たばかりのホテルにこれから入ろうとしている中年カップルの姿があった。
「どういうことですか?」
「あれはねえ、依頼人のスーパーの専務、小暮さんだよ」
「え? えええー」
「追うべきターゲットはこっちに変更だ。さ、入るぞ」
「え。何。ちょ、ちょ、待ってよ陳さん」
陳さんは容赦なくホテルに向かった。
俺はその時すでに泣いていたと思う。
続く。




