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逃亡馬券生活   作者: 狂死狼
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第1章 ネバーランドの夜 1

「俺は殺人者だ。行方をくらませ裏街道を歩き、人目を避けて生きるしかない。投資馬券が唯一の生活の糧だ。共犯者優香とのあらたなるサバイバルの日々を綴ってゆく」



 1  2018年11月17日(土) 



「はあっはぁ……はぁ。はぁ……はぁ………」

 走り続けていた。息が激しくあがり、心臓は今にも破裂しそうな勢いで収縮を繰り返した。とても、とても苦しかった。身体中の毛穴という毛穴から汗が噴き出し、体中がねっとりと湿った。やがてそれは乾き、塩を吹いて不快さを増幅させた。けれど、俺はひたすら走り続けた。この手には、あいつの背中を突き刺したナイフのぬるりとした感触がはっきりと残っている。乾いてこびりついた手の甲のどす黒い血痕が、もう後戻りできないきびしい状況を物語っていた。

 ときどき道ばたで制服姿の警官を見ると、くたびれた心臓がどくんと大きく脈打った。

 逃げるのだ。とにかく逃げるのだ。殺人を犯してしまった今の俺には、もう何もない。生きる目的だとか、今日を生きる責任だとか、とにかくなんにもないのだ。何のために逃げるのかさえわからなくなり朦朧とした意識の中で、ただ逃げることだけを人生の目標として生きているのだった。


 そうして3日間を眠らずに、何も食わずに、後を追う者がないかだけを振り向き振り返りながら、時には素早くタクシーに乗り込みワンメーターで降り、時には地下鉄、電車、バスを乗り継ぎ、歩道橋を駆け上り、振り返り、焼けつくような夕日を見た。路上を走り続け、小道を抜け、ようやくここにたどり着いた。

 そこは安寧の地と呼ぶにははるかに遠く、はかなくてうすっぺらで頼りがいもない、けれど、どんな者でも受け入れてくれる優しさと包容力に満ちていた。

 難民を迎え入れてくれるネットカフェがとりあえずの俺のねぐらだ。

 とにかくまず、空腹の腹の中に喰い物を詰め込み、シャワーを浴び、毛布にくるまって眠りについた。


 ネットカフェ「ネバーランド」の店内は閑散としていた。

 時間切れの呼び出しで目覚めた俺は、延長の手続きをした後、うすっぺらい壁に囲まれた狭い部屋でデスクトップ型パソコンの電源を入れた。

 早速、明日の中央競馬の最新情報を仕入れようと各サイトをまわった。

 所持金は、なけなしの72万58490円。

 事件を起こした後、俺は駆け足で各ATMを回り、所持していたカードで現金を引き出した。俺の全財産だ。最後の生きる糧となる血の金だ。

 これを増やさなければ全て終わりだ。すぐに使い果たし、のたれ死ぬことになるだろう。

 当面の生活費として半分を取っておき、残りの36万円を軍資金として競馬に投資することとする。

 資金を36分割し、1レースの投資は1万円とする。買っても負けても資金は常に36分割だ。そうすることによって資金ショートのリスクを最少限に抑えるのだ。

 長年の研究によってようやく完成した、4年間トータルで118%の回収率を誇る馬券必勝法を、いよいよ活用する時がきた。命がけの投資だ。

 ネットを回遊して見つけ出した明日の買い目はこれだ。


 11月17日(土) 福島12R 

 馬連3点  3-15、6-15、14-15 各3300円


 生きるか死ぬかの投資馬券生活が始まった。

 さあ、明日の運命はどっちだ!?



 2  2018年11月18日(日)



 福島第12レース。乗っている騎手が出れなのか芝なのかダートなのか、何メートルの距離なのかさえ、覚えてはいない。ただ、スマホから聞こえてくるラジコの中央競馬実況中継の音声を聞きながら、15番を軸にしたヒモ14番、3番、6番の馬連の買い目を、ただただ祈りながら聞いていた。そして、15番トータルソッカーがゴール前一気に抜け出し1着入線。14番ジャコマルが2着に残ったとの実況を聞き、思わず両手を突きだしてガッツポーズを取った。

 的中だ!! 幸先の良いスタートとなった。


 馬連14番―15番は10.9倍だった。


 3300円×10.9倍=35970円 

 差し引き26070円のプラスだ。


 パチンコ屋の休憩所で漫画を読みながら競馬の結果を待った。

 これでなんとか、最初のベットはプラスで凌ぐことができた。

 投資総資金は386,070円となった。次はこの36分の1、10700円をベットする。つまり3分割すると馬連1点は3500円となる。微増の追い上げとなるのだ。

 しかし、2万数千円の浮きなど、この先2~3回のベットですぐにもなくなる。安心など全くできないが、とにもかくにも幸先の良いスタートに胸を撫で下ろしたのだった。

 さあ、明日の投資だ。

 パチンコ屋で遅くまで時間をつぶし、それからコンビニで酒とつまみを買った。それをちびりちびりやりながら「ネバーランド」の狭い個室で俺は悩みに悩み、ひとつのレースを選んだ。

 明日の勝負レースは相性のいい福島の第6レース。

 買い目は決まった。


 馬連3点 3-13 9-13 12-13

 各3500円


 俺の投資馬券術はかなり独特のものだと思う。ただ、昨日も言ったように、2015年1月から2018年10月までの4年間、400近いレースを全く同じ条件で馬連3点を買い続け、トータル118%の回収率を叩きだしている。的中率は30%を超えている。かなり理想的な必勝法だと言えるのではないだろうか。その核心部分を全て開示する訳にはいかないが、おいおいと競馬に対する俺の考え方を披露していきたいと思う。しかし、先に投資が失敗し、のたれ死ぬことになればその限りではない。


 殺人を犯してからの初めての投資で、とにかく俺は勝つことができた。

 あるいは天が味方したのかも知れない。こんな俺でも、生きる資格がほんの少しはあるのかも知れない。わずかながら生きる理由は残っていて、そのために天が俺を生かしてくれたのではないだろうか。そう思うのだ。あまりに都合のいい話かもしれないが……。


 さて、ではなぜ俺が殺人を犯してしまったのか。今はまだ生々しすぎて話したくはない。あまりに俺がみじめ過ぎて苦しいんだ。いずれは話すことになるだろう。ただ、俺のことなど誰も何も期待しないでくれ。世の中のほんものの屑にすぎない俺のことなど……。


 土曜日の夜、「ネバーランド」の店内は賑わいを見せつつあった。しかし、誰一人として口を開く者はいない。カウンターの前で店員とのやり取りを口にしたそのあとは、黙々と、それぞれの時間をそれぞれの空間の中で、ただ消費することだけに意識を集中しているようだった。俺はせまい部屋の中で、最後の一滴を飲み干しやがて眠りについた。


 さあ、明日の結果はいかに?



 3  2018年11月19日(月)



 今日の勝負レース、福島第6R。軸の13番フージョンロックは危なげのない逃げっぷりで快勝したが、ヒモの3、9、12は全く見どころなく終わった。

 まあ仕方ない。これが競馬というものだ。もとより、的中率が30%なのだから、逆に不的中率は70%もあるということだ。これは下手をすると、20連敗、あるいは30連敗だってありうる数字だ。だからこその資金36分割方式なのだ。


 10,500円のマイナス。

 総資金は375,570円となった。


 さて、今日もパチンコ屋で遅くまで時間をつぶし、今夜は酒を買うのは止めてスーパーで6枚入りの食パンだけを買った。これが当面の食料だ。100円で6食を賄える。1食17円弱だ。究極の節約メシだろう。今日は負けたのだから仕方がない。ただでさえ日々の宿泊代でだまって2,000円強が飛んでゆく。この時期、野宿する訳にもいかない。

 投資馬券生活が凍死馬券じゃお話にならない。


「ネバーランド」の個室のなかで俺は座椅子にもたれてパソコンの画面に集中した。


「○○市 通り魔殺傷事件速報」


 パソコンのタイトルを見ただけで吐き気を催した。自分が引き起こした事件であるのに、その報道を観るということが、これほどの嫌悪感を覚えるとは思わなかった。自業自得ではあるが……。


「5日前の未明、○○市××通りの路上で背中を刺されて発見された会社役員中島佑介(56)さんは、意識不明の重体でしたが昨夜死亡が確認されました。当局は通り魔による犯行の可能性が強いと判断、周辺住民への聞き込みを強化すると発表しました」


 やはり死んだか……あれほど深く突き刺したのだから、それはそうだろう……。

 絶対に殺すつもりで突き刺したのだから……。


 日曜の夜「ネバーランド」の店内は閑散としていた。

 店内のほぼ中央に位置するドリンクバーで、俺は3度目のコーヒーをカップに注いだ。

 その時だ。誰かが俺を見つめる強い視線を感じた。だが、振り返ると誰もいない。いそいでカップを握り、部屋へと戻った。


 俺はせまい部屋の中で食パンをかじり、コーヒーを飲み干した。

 冷や汗が噴き出してきた。動機が止まらない……。間違いない。誰かが俺を監視している……。

 俺は震えながら毛布にくるまりただひたすらに願った。



 4  2018年11月20日(火)


 ここで投資競馬のあらましを説明しておこう。

 土日の中央競馬の買い目を、出来得る限り前夜に公表する。買い目は馬連3点のみだ。一日ひとつのレースだけをベットする。買った馬券の結果は必ず公表する。

 期待値の高いレースがない場合は(ケン)だ。

 馬券を買わない日は買い目の公表もない。ただつらつらと、逃亡生活の日々を綴ることになる。平日も当然そうなるだろう。

 資金を36分割とするが回収率が100%を割らない限り、必ず資金は増えていくはずだ。4年間のトータルで118%の回収率、的中率も30%を超える。何度も何度もシミュレーションを繰り返した。当然ながら、連勝が続いてくれさえすれば、どかんと資金が大きく増えてゆくのも間違いはないのだ。

 これに乗るのも自由。損をしようとも自己責任だ。その場合は俺とともにくたばるのみだ。


 それにしても、殺人を犯しながらよくも競馬のことだけは冷静に思考が働くものだ……。

 我ながら恐ろしい。むしろ、競馬に脳の働きを集中させ依存することで現実逃避ができて、かろうじてバランスが保たれているということなのかもしれない。

「ネバーランド」の薄っぺらい壁に囲まれた個室の中で、毛布にくるまり震えながら、そんなことを考えてこれまでの経緯を思い出していた。


 何故、俺が殺人を犯してしまったのか?


 かつて俺はとある悪徳リフォーム会社に勤務していたことがある。そこでは過酷な長時間勤務が当たり前だった。とにかく、客をだましてでも契約を取ってこいと命じられた。そうすれば、多額の報酬が約束された。いわゆるブラック企業であり、あまたのブラック企業の中でもトップクラスといえるブラックさだった

 入社早々はなかなか芽が出ずにいた俺だった。だが、入社2年目を迎えてようやく実力がつき、そこそこ売れるようになり、次第に高額な給料ももらえるようになっていった。もちろん、半分だました客の数も多かった。そんなときだ。気持ちよく大型の契約をしてくれたのが中島佑介だった。

 初めて訪問した時に出てきた中島佑介は、恰幅の良い中年親父で実に良い印象だった。あ、これは決まるだろうなと瞬間にひらめいた俺だった。

 取りあえず家に上がり込み話を聞くことになった。リフォームの内容を詳しく聞いてゆくと、これはだまって1000万を超える大型契約になると確信した。

 ほどなくして契約は成立し、おれは有頂天になった。社内のコンテストで優秀賞を獲得し、昇進も間近となったのだ。


 しかし、悪夢はそこから始まった。

 中島という男は、超がつくクレーマーだったのだ。


 いよいよ工事が始まると、奴は豹変した。ことあるごとにいちいち工事に文句をつけ、不満をたらたら言い始め、毎日のように俺を呼び出した。

 そのクレームは全てがなんてことのない内容だった。普通ならばこれくらいと笑ってすます程度のことだ。ところが、絶対に奴は引きさがらない。俺を心ゆくまで罵倒し、痛めつけ、土下座まで要求するのだ。

 とにかくひどいものだった。髪の毛ほどの、虫メガネで見なければわからないような微細な傷までも、鬼の首を取ったかの如く勝ち誇り、さあどうするんだと迫ってくるのだ。まさしく悪夢だった。


 俺はノイローゼとなった。


 なぜ俺は、これほどまでの責め苦を受けなければならないのか……。「ネバーランド」の個室の中で、俺はいつまでも震えていた。  



 5  2018年11月21日(水)



 昨日の続きを話していこう。


 ノイローゼとなった俺は仕事が全く手につかず、呆けたように一日を過ごしていた。当然、営業成績はガタ落ち。俺の評判は日に日に落ちていった。

 ようやく最悪のリフォーム工事に終わりが見えてきた頃、奴はとうとう牙をむき出して攻撃を仕掛けてきた。

 突然、会社に連絡が入った。消費生活センターからの呼び出しだった。俺と支店長はしぶしぶ出向くことになった。

 そこで聞かされたのは、やはり中島佑介からの苦情申し立てだった。

 奴は「48の不満足項目」と題した書類を消費生活センターに送りつけていた。今回のリフォーム工事の不手際について、微に入り細に入り、事細かく苦情が並べられていた。さらには写真と録音テープまでも添えての用意周到さだった。

 支店長は禿げあがった広い額に深くしわを寄せ、ゆでダコのように真っ赤にして震えていた。

 俺は申し訳なさで胸がいっぱいになり、ただただ下を向いていた

「で、中島さんは、どういった解決方法を?」

 支店長はおそるおそる、事務的で冷たい能面のような顔をした若い担当者に訊ねた。

「中島さんは早くお支払いを済ませたいけれど、まずは御社の誠意をみせて欲しいとのことでした」


 来たー!! 「誠意」!!

 なんとも便利な言葉だ。誠意とはイコール金のことだ。

 こんな俺でも少しは世間の風に吹かれて理解できるようになった。


「ええっと。その……誠意とは、いかほどのものでしょうか?」

「さあ~どうでしょうねえ。私どもでは何とも……ただ、中島さんは満足度が20%程度しかないと、おっしゃってましたよ。あまりにも不愉快だから今日、この場には来たくないと。おそらく御社が悪徳な会社なのではないかと……」

 担当者の言いにくそうな気持ちは伝わってきた。

 どっちが悪徳だ!初めっから奴の狙いはこれだったのか!!

「そう……ですか。でも、それじゃあまりにも」

「あんまりですか……では、中島さんにそうお伝えしましょうか?」

「いえ! あの、後は持ち帰って検討させてください!」

 支店長の苦しい胸の内が良くわかる。

「中島さんはなるべ早くの決着を望んでおりますので、できるだけ…」

「はい! お任せください!!」即座に支店長は答えた。


 消費者センターに苦情が入った時点で会社は相当なダメージを受ける。そして担当員、さらには苦情相手に対して逆らうような真似は絶対にしてはならないのだ。会社の存続にかかわることになる。

 俺と支店長はひたすら、くれぐれも希望に合うように対応させていただきますと、何度も頭を下げた。


 これで俺の運命は決まった。1000万の内の2割程度しか支払いをしてもらえないということになった。

 会社に多大な損害を与えた俺の昇進の目はなくなり、成績も落ち続けた結果、やがて居場所を失くして、俺は3カ月ほどで会社を去ることになった。


 それからというもの、全く運から見放されたようだった。何をやっても上手くいかない。仕事も長続きせずに転々とした。病気がちの両親は早くに亡くなり死に目にも会えず。何人かの女と付き合いもしたが半年と持たなかった。

 だんだんと、全てがあの男のせいだと思うようになっていった。心の底から憎んだ。

 けれど、殺したいとまでは思わなかった。いや、思わなかったはずだ。


 そう。


 あの日、あの夜に、奴に会うまでは……。          



 6  2018年11月22日(木)



 あれからすでに6年の歳月が過ぎようとしていた。次第に中島に対する憎しみも忘れかけていた。

 そして5日前のあの日、俺はむしゃくしゃしていた。

 今度こそはと覚悟を決めてつきあい始めた小百合から俺は一方的に別れを告げられたんだ。

「本当にごめんね……狂死狼なら、きっと私よりいい人が見つかるよ。ごめん」

 小百合は一週間前の高校の同窓会で昔の男に声をかけられたと。俺よりも頭が良くて顔も良くて収入もいいと。

 ふざけるな! ……どうせ、アレも良かったんだろうよ。

 俺はせめて一発びんたを食らわしたかったが……けれど何も言わずに黙って引き下がった。


 どうせ俺なんか……。


 上司とそりが合わずに仕事を辞めた直後でもあった。

 悔し涙を時おりこぼしながら俺は帰り道をとぼとぼと歩き、百均ショップに立ち寄り刃渡り25センチの包丁と包丁研ぎを買った。何故そんなことを急に思い立ったのかは良くわからない。包丁の切っ先を、俺の力で出来るかぎり尖らせてみたい。衝動的にそう思ったんだ。俺の心がまったくとんがってしまい、鋭利なモノを求めていた……今にして思えばそんなことだろう。


 そのあと俺はふらふらと、メニューが盛りだくさんで有名な居酒屋「つぼへい」に立ち寄った。 

 包丁を研いだら何か料理でも作ってみよう。ここの料理で旨かったものを真似してみよう。そんな前向きな気持ちが少しはあったのだと思う。

 そこに奴がいた!

 店内は8割がたの賑わいだった。

 サラリーマン風の2~4人組の客が多かったが、あとは老人の集まり、家族連れやカップル、中にはマスクとメガネの陰気そうな一人の女性客の姿もあった。

 正面から見える座敷席には、主賓席にどかっと座る恰幅の良い中年とそのまわりには部下とおぼしき者が7人ほど座っていた。

 あ、中島だ!! 

 俺はすぐに気付いた、だがそれを顔には出さず、何食わぬ素振りで座敷にほど近いカウンター席に腰かけた。ビールと一品料理を口にしながら、俺は座敷席をさりげなく窺っていた。

 中島は少し老けたようだったが相変わらずの威勢の良さで、時おり部下たちを撫でまわすような目で見てはおちょくるようなことを言った。そしてご機嫌取りの部下たちを肴に、上機嫌で酒をあおっていた。

 俺は胸糞が悪かった。腹の調子がおかしくなり、一度荷物を置いてトイレに立った。

 やがて1時間ほどが経過した時、中島たちは乾杯の音頭とともにいっせいに立ち上がり帰り支度を始めた。

 俺は日本酒を熱燗でやり始めた頃だった。

 奴らのグループが勘定をする段になると、店内に中島の大きな声が響き渡った。

「料理に髪の毛が入っていたぞ! いったいどうしてくれるんだ!! ええ?」


 あの日の悪夢をまざまざと蘇らせてくれる怒声だった。



 7   2018年11月23日(金)


「ほら、これが証拠写真だ。有名になるぞこの店。SNSにアップしたら、さぞ『いいね』がたくさんもらえるだろうね」スマホを手にかざしてにかっと笑いながら、中島は言った。

 相変わらず用意周到だ。いきなりでかい声で相手を圧倒し、その後は態度を変えて『笑顔』で殺しにかかる。奴の常套手段なのだ。

 対応に出た細身の若い店長はすでに蛇に睨まれた蛙だった。

「あの、その……それだけはなんとか。いったいどうすれば…あの、よろしいでしょうか?」

「それは私が言うことじゃないだろう。こっちは被害者なんだぞ。何かしらの誠意があっていいんじゃないのか」


 誠意!! 来たーー!!!


 店長は泣きそうな顔をして言った。

「では……あの、お代はけっこうですので……

「そんな程度で済まされると思うのか。髪の毛や毛穴をちゃんと消毒していたのか? 病原菌でも移されたらこっちはたまったもんじゃないんだぞ!」

「す、すみませんでした。本当に申し訳ございません」

 すでに店長は泣き出していた。

「ま、仕方ない。今回だけは許してやるよ」

 勝ち誇ったようにえぬ島が言った。まわりの部下たちはにやにやと、二人のやり取りを高みの見物だ。

「衛生には本当に気をつけてくれよ。頼むよ」

「は、はい。わかりました」

 俺はその一部始終を、はらわたが煮えくり返る思いで見ていた。

 支払いもせずに笑いながら出ていく奴らの背中を、俺は急いで残りの酒を飲み干し、支払いを済ませて後を追った。かなり酔ってはいたが奴らに見つからないよう、細心の注意を払った。


 通りに出て「つぼへい」から離れると、とたんに奴らは騒ぎだした。

「秘打、髪の毛一本3万円打法炸裂ぅぅ!! ぎゃははは!! いやあ、久しぶりのホームランでしたね、専務!」

 部下のひとりが中島のそばではしゃいだ。

「誰の髪の毛だっけ、あれ? しかし専務だからこそなしえる裏技ですよねェ」

「おいおい、俺は当たり前のことを言っただけだぞ。人聞きの悪い。今時のあれだ、暮らしに役に立つライフハックってやつだ。わはははは」

 中島の笑い声が轟いた。


 なんてやつらだ。人間とはこうも悪徳になれるものなのか?

 若い店長の弱り切った顔が浮かんでくる。俺も飲食店でアルバイトをした経験があるからわかる。彼はきっと軽くはないペナルティを受けることになるだろう。

 中島は2次会に進んだ若い部下たちからひとり離れ、路地裏の方へと歩いて行った。鼻歌を歌いながらの上機嫌だった。

 人気のない行き止まりの路地で奴は立ち小便を始めた。

 密かにあとをつけてきた俺だったが、だからといってさすがに奴を殺そうとまでは思っていなかったんだ。そう、アレさえなければ……

 その時、1匹の子猫が中島の足元にじゃれついた。

「にゃにゃあ。にゃあ」

 ひとなつっこいかわいい猫だった。暗がりの中でも良くわかった。

「なんだお前は。うるさいッこのッ」

「ギャッ」

 俺は目を覆った。

 中島は小便をしながら…なんと、その子猫を右足で、思いっ切り踏みつぶした!!


 バッグの中の包丁を取り出すことに、もうなんの躊躇もなかった。



 続く

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