幸福理論
常盤璃乃が事故に巻き込まれた。
記録的な猛暑が観測され、気象庁が熱中症対策を喚起していたある日のことだった。
現場は彼女がよく買い出しに行くスーパーの前の交差点。横断歩道を渡っている時に赤信号にも関わらず突っ込んできた乗用車に撥ねられて頭部を強打。意識不明の重体だった彼女だが、幸い人目の多い道路であった為、すぐに救急搬送されたらしい。
救急隊の適切な処置と早急な搬送により、彼女は一命を取り留めた。しかし――
「このまま療養を続けても遷延性意識障害――所謂、植物状態のままになる可能性が高いでしょう。回復する場合もありますが、彼女の場合は大脳が大幅に損傷を――」
——彼女はもう、目を覚まさないらしい。
医者の言葉をまとめるとこうだ。
頭部の出血量から生存は絶望的だった。その状況から一命を取り留めた事自体が奇跡であり、自発呼吸や脳波が見られることから植物状態と診断。植物状態からの回復事例は多数見られるが、彼女の場合、大脳が大幅に損傷を受けている為、回復する可能性は極めて低いだろう、と。
その言葉は遠回しに仕事を放り出して病院へと駆け付けた彼女の両親と恋人の千羽史貴に「死」を告げていた。
彼女の母親は娘の植物状態化という事実に耐え切れず涙をボロボロと零しながら嗚咽している。父親は溢れ零れそうになる涙を堪えながらも、事実を受け止めていた。
恋人の少年はというと、どうも信じ切れずにいた。
「璃乃?」
何故なら、彼女は相変わらず美しいままだからだ。
宙に舞う汚れを知らない雪のように透き通る白肌に、それに対照的な黒髪は絡まることを知らずに真っすぐで艶やかだ。気品を感じさせる長い睫毛に桜色の頬はいつ見ても愛らしく、ルージュをひいているわけでもないのに美しい薄い唇。本来ならくりくりとした大きい瞳がこちらを覗き男心を擽るのだが、今は開いていない。
彼女が変わった所を挙げるとするならば、こちらを見て微笑んでくれないことと頭に巻かれている痛々しい包帯だけだというのに。
「…璃乃?」
彼女の名前を呼んでも、それは空しく響くだけだった。
「千羽君」
彼女の名前を呼び続ける少年に、彼女の父親は肩に手を置いて名を呼ぶ。振り返ると、先程の娘を失った悲しみを帯びる表情とは裏腹に精悍な眼差しをしている。
「君は、君の人生を進みなさい」
その一言が意味するのは、璃乃との交際をやめろという旨だというのを少年は理解した。彼女と共に生きてきた少年にとって、彼の言う「君の人生を進みなさい」というのは「俺達の人生」でなくて「俺だけの人生」なのだ。
「な、なんで…っ」
「当たり前だろう」
吐き出そうとした理由を問う声は彼の威厳ある言葉に遮られる。
「璃乃は君が縛られないことを望んでいるだろう。璃乃はそういう人間だ。親の私が、一番分かっている。もし璃乃が一言だけ残せていたとするならば、君宛てに「自由に生きて」と言うはずだ。…きっと、そう望んでいる」
確かに璃乃ならそう言うだろう。彼女はそういう人間だから。しかし。
昔からずっと一緒にいたのだ。唯一の幼馴染で人生の半分以上を一緒に過ごしてきた。喧嘩しては仲直りしての繰り返しでいずれ気になって好きになって愛して愛されて。
そんな彼女を、一人にできるわけないだろう。
「俺は――」
「頼む」
彼は深々と頭を下げた。
少年はそのことに面食らって言葉を紡げなくなる。頭を下げて懇願されたという事実が、少年の動きの一切を制限した。
「私が、璃乃にできることがあるとすれば君を自由にさせることだけなんだ…っ」
少年はなんとなく気づいていたのだ。この場で「彼女と一緒にいたい」というのはただの自己満足であり自分勝手なのだ。何より、最愛の娘を不慮の事故――しかもこちらに一切の非が無い事故で失った両親のことを考えていない。
そして、彼女のことも。
何も言えず立ち尽くしている少年に、彼が伝えたのは「もう来ないでくれ」という拒絶の一言。それから医者が告げたのは面会拒絶という重苦しい言葉だった。