彼は日々鍛練をしている
「ーーーという訳で、橘姉妹と話していて帰りが遅くなった。心配をかけて悪かったよ。」
「そんな事があったんですか………私はまた、霊絡みの事案に巻き込まれているのかと思いましたよ。」
橘姉妹に別れを告げて無事に帰宅した俺は、事情を桜さんに説明していた。
「そうそう霊なんかには出会わないさ。」
「そんなこと言って、先月なんか一週間に二回も遭遇してたじゃないですか。」
「あれは偶々だ。その前の月なんかは一度も遭わなかったじゃないか。」
「そうでしたか?忍者の幽霊に指導を受けたとか言ってませんでした?」
「あれはその更に前、一月の話だよ。」
「あぁ、そうでしたね。」
新年明けて早々に黒装束の霊に出くわした時は久々に全力で逃げた。
もちろん追い付かれたが。忍者早すぎ。
人を追いかける為に縮地なんて使うんじゃないよ。
教わったけど。
ーーー以上の話でお分かりの通り、霊なんてのはそう簡単に存在するものじゃない。
人は死ねば消える。
これは自然をも超越した神の摂理だ。
だから生半可な人間では、死語に魂を現世に遺すことなんてできないのだ。
それができるのは、神すら認める何かしらを極めた達人だけであり、その中でも特に現世に執着を持った者だけである。
というのは昔会った宗教家の霊に教わったことだ。
道を極めた達人というのは様々だ。
武術であったり芸術であったり、様々な道を生前に極めた霊が、偶に引き寄せられてくるのだ。
彼らは俺のような視える人間を察知する事に長けており、一度捕まれば未練を叶えて成仏するまで解放してくれない。
中には話のわかる霊もいるが、大多数はクセの強い性格をしている。
道を極める人間には頑固者が多いとかどこかで聞いたが、己の経験上それは間違ってはいない。
霊などそう簡単には現れないし、その方が個人的にも助かっているのだ。
「それにしても歩さんにお友達ができるなんて………。」
桜さんが涙ぐみながら失礼なことを宣っている。
「桜さん、俺にだって友達の一人や二人くらいできるさ。」
「そうですか?」
何だその疑心に満ちた瞳は。
「当たり前だ。修三だろ?京華だろ?六花だろ?………ほら、もう友達が三人いる。」
「皆さん今日お会いしたばかりの方々じゃないですか。しかもお一人は後輩なのでしょう?」
呆れたような目を向けてくる桜さんから目を反らす。
「………後輩でも良いじゃないか。友達は友達さ。」
「別にそれが悪いとは言いませんけど。……………まぁ、歩さんにお友達ができたのは素直に喜ばしいですよ!」
呆れたように肩を竦めていた桜さんは、次に優しい笑みでそう言った。
…………やっぱり桜さんは綺麗だよな。
「やっぱり桜さんは綺麗だよな。」
「ふぇっ!?ちょっ、歩さんどうしたんですか急に!?」
赤面して慌てる桜さんも可愛らしい。
「いや、今日さ……修三や橘姉妹に桜さんの写真を見せたりしたんだが、三人とも綺麗だって言ってたからな。確かにそうだと思ったんだ。」
「そ、それは嬉しいですけど、そのっ……………うぅ、歩さんいつもはそんな事言わないのに………ふ、不意討ちはズルいですよぉ………」
もじもじと悶えている桜さんは、いつもとはまた違った魅力があった。
しかし一つだけ言いたいことがある。
「桜さん、貴女に言いたい事があるんだ。」
「えっ…………な、何ですか?そんなに改まって……………」
俺の真剣な眼差しに、桜さんは頬を赤らめながら慌てて精一杯の真剣な表情を作る。
桜さんの綺麗な喉がごくんと動いたのが見てとれた。
どうやら緊張しているようだ。
その様子を見て、俺は意を決した。
「桜さん…………………」
「その歳になって『ふぇっ!?』はないと思う。」
「少しでも期待した私が馬鹿でしたよコンチクショウ!!」
俺の心からの言葉を聞き、桜さんは手に持っていた掃除用の付近を床に叩きつけた。
桜さんがご乱心だ。
「落ち着いてくれ桜さん。一体どうしたと言うんだ。」
「私の純情を返して下さい!」
「いや、純情って………貴女はもう二十四歳で……」
「いくつになっても女の子は純情を持ち合わせてるものなんですぅ!どうせ歩さんにはわかりませんよ!このすっとこどっこいの唐変木!」
散々な言い方である。俺、雇い主だよね?
二十四歳で自分のことを女の子と言うのは烏滸がましい気がするし、その歳でその喋り方もいかがなものかと思ったが、流石にそれを言うのは自重した。
デキる男は退き際を弁えているのである。
その後、ご乱心の桜さんを何とか宥めすかし、俺は自室にて部屋着に着替えて一息ついていた。
部屋着と言っても、現代風のルームウェアではなく着流しである。
自称名家のプライドとでも言うのか、昔から身の周りのものは和風のものばかりであった。
家もトイレと浴室とキッチン以外は和式である。
今はもう両親もいない為、好きな服を着られるのだが、着流しに関しては元から気に入っていた為、今でも家の中ではだいたいこれだ。
しかし寝床に関しては、布団ではなくベッドに変えてもらっていた。
着流しを着てベッドに腰かけるというミスマッチな光景だが、誰にも見られないので気にはしない。
古典小説を読んで時間を潰していると、空が徐々に赤くなってきているのが見えた。
日課をこなす為に道着に着替え、家の裏庭に出た。
学校の多目的室程度の広さはある裏庭には、サンドバッグや巻き藁、木人椿などが置かれている。
俺は準備運動と柔軟をし、まずは気功鍛練を始めた。
足を肩幅よりやや広く開き、少し膝を曲げる。
爪先は平行、気持ち内側に向けるようにし、騎馬を意識して足指で地を噛みしめ、体勢を安定させた。
鼻で深く息を吸いながら、両手を緩やかに前方に突きだし、全身を弛緩させる。
吸い終えると、今度は喉の奥の方から絞り出すようにして深く息を吐くと同時に、拳を握り肘を内側に回し入れながら引き付け、丹田に力を込める。
やがて息を全て吐いた頃には、全身が固められていた。
これを数度繰り返し、髪から汗が滴ったところで次に移る。
巻き藁を突き、サンドバッグを蹴り、木人椿で技を磨く。
全てを終えた頃には、もうすぐで空が完全に暗くなる、というところまできていた。
俺は日課を終え、柔軟をした後に風呂に入った。
風呂から上がった俺は桜さんお手製の夕飯を食べ終え、自室へと戻った。
ちなみに今日行った鍛練は日課と言っても実際には毎日行っている訳ではない。
時には楽器を演奏し、時に絵を描き、時には料理を作り、時には武器を持って鍛練に励む。
これまで様々な師匠に教わった事を、日々復習しているのだ。
読書の続きを少しだけ楽しんだ俺は、早めにベッドに潜り、瞑想しつつ今日一日の出来事を振り返る。
ちなみに寝る時はいつも着流しを脱ぎ、下着のみ着用して眠っている。
半裸でふかふかのベッドで寝る快感は、あらゆる快楽を超越するのである。
桜さんも最初は服を着るように何度も言っていたが、もはや諦めてしまったようだ。
朝、たまに俺が起きられない時には起こしに来てくれるが、その時に桜さんが赤面しながらも俺の身体を舐めるように凝視している事は気付いている。
むしろ俺が気付いている事を桜さんは知らないようだ。
今更教えるのも怒られそうなので、未だに言えていない。
ーーーともあれ、今日は本当に良い一日だった。
ユウコの衝撃的な言葉によって己がぼっちである事を自覚した。
青春を謳歌せよとのユウコの忠言によって手始めに友達を作る事を決意し、その日のうちに三人も友達ができてしまった。
…………今更だが勝手に友達と言ってしまって良いのだろうか?
良いよね?友達だよね?
これで友達じゃなかったのなら大ダメージだ。
特に京華に『調子に乗らないでくれる?』とか言われたら死にそうになる。むしろ死ぬ。
ということで俺の精神的な健康の為にも、心の中であの三人は友達という事にしておこう。そうしましょう。
今日一日のことを振り返っていると、やがて耐え難い睡魔が襲いかかってきた。
抵抗する必要もない為、俺はその誘惑に逆らわず身を委ねる。
ーーー明日はどんな一日になるだろうか。
そんな事を考えたのを最後に、俺の意識は夢の世界へと旅立っていった。