(64)鮫尾先輩と木野家の人々:11
先輩と話していると、心臓がバクバクと早鐘を打ったりギュっと縮んだり、顔は熱くなったり血の気が引いたりと、色々大忙しだ。
一日も早く先輩の言動に慣れなくては、私はこの先ずっと大変な目に遭い続ける。
――でも、こういうのって、慣れるべきなの? っていうか、慣れるの?
思わず、考えてしまう。
恥ずかしいからやめてほしいと訴えても、先輩は当たり前のように「可愛い」と言ってくるし、私の手を握るとか髪を撫でるとか、いっさいのためらいを見せないのだ。
繰り返し訴えてはいるけれど、きっと先輩は変わらない気がする。
――私がしつこく何度もお願いしているから、かえってムキになっているとか?
その可能性は大いにある。
思い返してみると、先輩はしょっちゅう「恥ずかしがるチコが可愛い」、「真っ赤な顔のチコが可愛い」と言っているではないか。
私が過剰な反応を示すから、先輩の中にある妙なスイッチ――そんなスイッチ、今すぐ粉々に破壊したい――を押してしまうのだろう。
先輩が変わらないなら、私が慣れるしかない。それが一番の近道かもしれない。
――なんとなく私ばかり理不尽な気もするけど、頑張るしかないかぁ……。
いつだって先輩の言動は宇宙人なのだが、私への気持ちは嘘ではないと分かっている。
先輩のできる精一杯で、私を大切にしてくれているから。
ただ、その精一杯に振り回される私はめちゃくちゃ大変だけど。
まぁ、考え方によっては、これもまた一つの幸せな形かもしれない。
世の中の恋人や夫婦には、倦怠期と呼ばれるものが訪れるという。
それどころか、付き合い始めたばかりだというのに、甘く優しい言葉や仕草とは無関係の彼氏がいるという。
もちろん、これまでお付き合いしたことがなかった私には、そういった経験をしたことがない。
少女漫画の中で得た知識だったり、なんとはなしに耳に入る噂話でしか知らないけれど、
そういう彼氏が存在するということだ。
そうなると、甘く優しい言葉や仕草を自主的に与えてくれる先輩に文句を言うのは、間違っているのではないだろうか。
――私だって、本気で嫌がっているわけじゃないし。もうちょっと抑えてほしいなってだけなんだよね。
これまで何度も頭の中で考えていたことが、改めて駆け巡る。
そこで、私はふと我に返る。
今、私は鮫尾先輩と一緒にいて、しかも外だ。
ボンヤリしている場合ではない。
「ご、ごめんなさい! ちょっと、考え事をしちゃってぇぇぇぇ!?」
最後が悲鳴になってしまった。
それというのも、鼻先が当たるくらいに至近距離に、先輩の顔があったからだ。
私は即座に仰け反る。
しかし、勢いがあり過ぎたせいで、体が後ろへと傾いていった。
先輩はすかさず腕を伸ばし、私のことを抱き留めてくれる。
――ひえぇぇっ! ご近所の目が、目が!
尻もちをつかずに済んだのはありがたいけれど、これは困る。大いに困る。
私はとっさに先輩の胸を両手で押し返した。
すると、拍子抜けするほどあっさり拘束が解かれる。
――え? なんで?
いつもの先輩らしくない。どうしたというのだろうか。
――っていうか、これでいいんだって! 疑問に思うほうがおかしいんだって! うわぁ、私、先輩に毒されてるよっ!
アワアワしている私の様子に、先輩がソッと首を傾げて見せる。
「チコ?」
「え、えっと、その……。さっきは、助けてくれて、ありがとうございました」
私は一応お礼を伝える。
倒れかけた原因は先輩にあるけれど、助けてもらったことは感謝している。
目の前にいたのが運動神経抜群の先輩じゃなかったら、私のお尻に巨大な青アザができてしまっただろう。
そして、さらに要求も伝える。
「で、でも、あんまり顔を近付けられるとビックリしますので、やめてほしいんですけど……」
言っても無駄だろうが、言わないともっと大変なことになるから。
私の言葉を聞いた先輩は、フッと苦笑を浮かべた。
「考え事をしているチコが可愛かったから」
「はい?」
パチクリと瞬きを繰り返す私に、先輩はうっすらと目元を赤く染める。
「唇を尖らせたチコ、すごく可愛かったから。それで、もっと近くで見たくなって」
自分の身の安全を守るため、私は先輩の前ではへたに考えことをしないとかたく誓った。
そのあと、私はもう一歩先輩と離れた。
先輩はすかさず前に出ようとしたけれど、『これ以上近付いたら、私は家に帰ります』と言ったところ、上げた右足をソッと下ろしたのだった。
私にとっては安全で、先輩にとっては不満な距離でおしゃべりが再開する。
先輩のご両親の話題に戻り、引っ越しに立ち会ったのは、なんと私のことを知りたかったからだと言われた。
「父さんたちはチコのことがかなり気になって、俺の引っ越しにかこつけて近所にあいさつ回りをしたんだって」
「え? それ、初耳なんですけど」
世話焼きでおしゃべりなおじちゃんとおばちゃんたちなら、私を見るやいなや、『実は、こういうことがあって……』と、話しかけてきそうだ。
タイミング的に私と顔を会わせることができないなら、母に報告してもよさそうなものである。
だけど、私はもちろん知らないし、母からもそういったことをまったく聞かされていなかった。
きょとんとする私の様子に、先輩は小さく笑う。
「チコを驚かせたいから、俺の引っ越しのことは絶対にチコ本人と木野家の人たちに言わないようにと、お願いしたらしい」
「はぁ、そうでしたか……」
説明されても、なんとなく腑に落ちない。
三度の飯よりおしゃべりが好きな人たちが、お願いされたからって、ずっと黙っていられるものだろうか。
怪訝な表情を浮かべる私の頭を、先輩がポンと軽く叩く。
「父さんたちが桐箱入りのマスクメロンを手土産に持って行ったら、みんな、すごく協力的だったって」
――それ、買収って言うんじゃないの!?
生まれてこの方、そんなメロンは食べたことがないが、一個で一万円近い値段だとテレビで見た。
そんなものを渡されたら、どんなおしゃべりな口でも封じられるだろう。
――さすが、先輩のご両親だ……。
なにがさすがなのかよく分からないが、私はそう心の中で呟いた。




