(62)鮫尾先輩と木野家の人々:9
鮫尾先輩と付き合っていく上で、考えなくてはいけないことが色々とある気がするけれど、なんだか疲れてしまった。
先輩が近所に引っ越してきたということで、学校への行き帰りに向けられる容赦ない視線は、なんとかなるだろう。
私にとって、これが一番の引っかかっていたのだが、一応は解決の目処が付いたのかもしれない。
というか、精神的にかなりぐったりしているので、今日のところはお開きにしたい。
――先輩だって、疲れているんじゃないかな?
彼女の親との顔合わせは、きっと気詰まりだったはずだ。
それに、私の兄という精神的な強敵もいたことだし。
――でも、帰ったほうがいいって私から言うのは、追い出すみたいになるよね?
どうしたらいいのか迷っていたら、先輩が両親に向けて話しかける。
「今日は話を聞いてくださって、ありがとうございました。そろそろ、帰ります」
「え? あの……」
私が戸惑っていると、母が口を開く。
「こちらこそ、美味しいシュークリームをごちそうさま」
続いて、父も口を開いた。
「鮫尾君と話ができて、よかったよ。真知子のこと、よろしく」
「はい。では、失礼します」
先輩は軽く頭を下げ、スッと立ち上がる。
「え、えっと、先輩を送ってくるから」
「そうね、いってらっしゃい」
全開の笑顔を浮かべている母、静かに微笑んでいる父に見送られ、私と先輩はリビングを後にした。
玄関を出たところで、どこに向かったらいいのか分からない。
先輩は斜め向かいのアパートに引っ越してきたと言っていたから、そこまででいいのだろうか。
だけど、先輩がすでにそこで生活しているなら、近所のおじちゃんとおばちゃんがなにかしら言ってくるはずだ。
なのに、そんな話はこれまでに耳にしたことがない。
「先輩は、本当にあそこを借りたんですか?」
私はアパートを指で示しながら問いかけた。
すると、先輩は僅かに目を細める。
「本当だよ」
「でも、近所の人たちは誰も言ってなかったですよ。それに、こんなにご近所なら、父や母が気付いていたと思うんですけど」
両親の様子から、先輩がアパートに引っ越してきたことは、さっき初めて聞いたという感じだった。
イケメン大好きの母だから、もし少しでも情報を手に入れていたなら、「近所に、素敵な人が引っ越してきたのよ!」と、嬉々として私に報告しただろう。
確かにあのアパートに入居した人がいたという話は耳にしたことがあったけれど、それは四十代半ばくらいの夫婦だというものだ。
先輩はとは年齢が違うし、それに結婚もしていない。
――えっと、その夫婦のほかに、先輩も入居していたってこと?
不思議そうにしている私に、先輩がさらに目を細めた。
「チコを驚かそうと思って、俺だとバレないように引っ越しを進めていたんだ。引っ越しに立ち会ったのは、俺の父さんと母さん」
「えっ?」
ポカンと呆けていたら、先輩は私の手を引いて歩き出す。
「さっき、言ったでしょ。家族が応援してくれているって」
――『好きになった相手を地の果てまで追いかけろ』っていう、アグレッシブすぎる応援をしている家族ですよね。
私は苦笑いを浮かべながら、コクンと頷き返した。
先輩はクスッと笑ってから、話を続ける。
「チコへのサプライズは、成功したかな?」
「はい。そんなことになっているなんてちっとも知らなかったから、すごく驚きました。でも、本当に私のために?」
そこで、先輩が私の手を強く握る。
「そうだよ」
きっぱりと答えた先輩は、ふいに足を止めた。
私たちは今、くらい前に建てられたアパートの敷地内にいる。
先輩がクルリと向きを変え、私の正面に立つ。
「ここの203号室が、俺の部屋」
「じゃあ、ここでサヨナラですね」
本当にご近所さんで、私の家から歩いて五分の距離である。
アパートに着いたのだから、おしゃべりもここで終わりだ。
だけど、先輩は私の手を放さないまま。
「今日は家に帰る」
先輩の言葉に、私はふたたび呆けた。
「で、でも、このアパートに住んでいるんですよね?」
その問いかけに、先輩がヒョイと肩をすくめた、
「部屋は借りたけど、まだ住んでない」
「はい?」
忙しなく瞬きを繰り返していると、先輩がフッと口角を上げる。
「俺がチコの家族に認められないと、この部屋の鍵を渡してもらえない」
「それは、どういうことですか? 先輩の家族は、応援してくれているんですよね?」
どうにも話が噛み合わなくて、私は首を傾げた。
すると、先輩が小さく頷き返してくる。
「もちろん。……でも、俺の独りよがりなら、応援はしないとも言われた」
「え?」
「俺はまだ高校生だし、チコも高校生だから。俺の身勝手な行動で、チコやチコの家族に迷惑をかけるなって」
どうやら、先輩のご両親は、良識のある人のようだ。
いや、彼女の登下校に付き添う息子のために、部屋を借りるというありえない行動に出る人でもあるので、あまり安心はできないだろう。
「そ、そうでしたか……」
先輩のご両親をどう受け止めたらいいのか分からなくて、私は戸惑いながら先輩を見あげる。
「でも、認められたら、すぐに鍵を渡してもらえる」
「あ、あの、それなら、先輩が私の親にあいさつに来てから部屋を借りたほうが、確実だったのでは? もしかしたら、反対されたかもしれませんし」
私の言葉に、先輩はヒョイと肩をすくめた。
「そこが、俺の両親の不思議なところで。一見、常識があるようだけど、ズレているというか、暴走気味というか」
「は、はぁ……」
相変らずなんだかよく分からないので、私は曖昧な相槌を打つ。
とりあえず、たびたび暴走する先輩の言動は、ご両親の影響であることが判明した。
それはさておき、私は先輩の話を大人しく聞くことにする。
「俺がチコのご両親に認められてから部屋を借りるとなると、どうしても時間がかかる」
それもそうだろう。賃貸契約や家具の運び入れなどは、思い立ってすぐできるものではない。
部屋の模様替えとは、訳が違うのだ。
「その間に、チコが厄介ごとに巻き込まれて、それが原因で別れることになったら……」
――毎日、泣いて暮らすとか? 食事も喉が通らないとか?
盲目的なまでに私への愛情を示している先輩のことだから、そういったことになりそうだ。
しかし、先輩の愛情表現は、やはり暴走しがちである。
「俺は即座にチコを攫い、遠く離れた土地に逃げて、チコを監禁する」
こちらの目を見て真剣な表情で告げられた言葉に、私の心臓はときめきではなく恐怖でドキッと跳ね上がった。




