(61)鮫尾先輩と木野家の人々:8
話は落ち着き、私と先輩のお付き合いは、両親にちゃんと認めてもらえた。
まぁ、ここに辿り着くまで、地の底から大気圏に上がったり下がったりしたような感じだったけれど。
――まぁ、これでひとまず安心ってとこかな。
私は母が注いでくれた麦茶を飲んで、ホッと息を吐く。
しかし、まだ、『ひとまず』だ。考えなくてはいけないことが、山ほどある。
まずは……。
「お兄ちゃん! 先輩の分のシュークリームを食べようとしないで!」
私は懲りもせずシュークリームを狙っている兄を怒鳴り付けた。
「だ、だって……、食べる気配ないし……。このまま残ったら、もったいないし……。今、世間では食品ロス問題が……」
ぶつくさと文句を言っている兄を、私はギロリと睨む。
「それは、先輩が遠慮しているからでしょ! お兄ちゃんと違って、人前でガツガツ食べないんだよ! ホント、お兄ちゃんは意地汚いんだから!」
それを聞いた兄が、ソファから勢いよく立ち上がった。
「なんだと!? お兄様に向かって、その口の利き方はなんだ!? もう、弟子として認めないぞ! 破門にするからな!」
私もつられて立ち上がる。
「破門でけっこう! っていうか、もともと弟子じゃないしね!」
私と兄の間で、バチバチと火花が散る。
その様子を、母はいつものことだとのん気に眺め、父は「お、お前たち、座りなさい」と、オドオドしながら私たちをなだめてくる。
先輩はというと……、スッと立ち上がって私をギュウッと抱き締めた。
「チコ、俺の前で他の人を見つめないで」
穏やかな声で囁き、私の頭に頬ずりする。
私はハッと我に返り、次の瞬間、火が出るほどカァッと顔が熱くなった。
「せ、せ、せ、先輩! や、やめて、くださいよ!」
ジタバタ暴れる私を、先輩がさらに強く抱き締める。
「俺という恋人がいるのに」
「ですから! 別に、見つめていませんって! 兄のことを、睨んでいただけですってば!」
「それでも、駄目。チコの視線の先には、いつだって俺がいないと」
――それ、どんな無理ゲーですか!?
「意味が分かりませんよ! とにかく、放してください!」
私はさらに暴れるけれど、先輩の腕はやっぱり緩まない。
「嫌だ。暴れるチコが可愛いから」
「はぁっ!?」
本当に、先輩の思考回路は謎過ぎる。
大声を出して暴れる私が可愛いなんて、近いうちに脳神経外科と精神科と眼科に連れていかなくては。
「とにかく、今は放してください! こんなことして、私の親に付き合いを反対されたらどうするんですか!」
――まぁ、反対はしないだろうけどさ。
私たちのことに少しでも不満や不安があったのなら、とっくに父も母もなにかしら一言あっただろう。
先輩の奇行をさんざん目にしても反対してこなかった上に、むしろ賛成してくるような両親なのだ。
それと、母親のお腹の中に恋愛感情を置き忘れてきたとまで言われた私である。
ここで、先輩との付き合いが終わったら、この先当分、いや、ずっと恋人ができないと思われていそうだ。
先輩は礼儀正しいし、落ち着いているし、見た目はいいし、頭もいいし、なにより、私のことが好きだという気持ちを隠すこともない。
宇宙人的思考回路が、先輩の長所をすべてぶち壊しているけれど。
それでも、ぶっ飛んでいる言動も、私が好きだからこそという理由があるから、両親は先輩を認めたのだ。
とはいえ、私との結婚を願っている先輩からしたら、私の両親に付き合いを反対されることが、なにより怖いはず。
それが証拠に、先輩は即座に私を解放し、さっきみたいに背筋を伸ばしてソファに腰を下ろした。
――ふぅ、やれやれだよ。
私はため息を吐きながら、ストンをソファに座る。
色々と疲れたけれど、おかげで切り札を手に入れることができた。
これから先輩が暴走したら、『親に反対されてもいいんですか?』と、言い放てばいいのである。
しかし、うまくいかないのが世の常だ。
母がニコニコしながら「真知子と鮫尾君のこと、反対しないわよ。なんだか、お似合いだもの」と言ってきたのだ。
おまけに父までが、「真知子を本気で大切に思ってくれているようだし、まぁ、学生らしい付き合いをしてくれたら、それでいい」と、百パーセントに近い形で了承してしまった。
これで、せっかく手に入れたと思った切り札が、一瞬で無に返ってしまった。
――先輩とのお付き合いに反対されたいわけじゃないけど……。先輩に主導権を握られて、振り回されるのも困るし……。
複雑な心境で俯いていたら、唇にムニュッとなにかが押し付けられる。
「チコ、食べて」
先輩が自分のシュークリームを私に食べさせようとしていた。
「チコに暗い顔は似合わない。でも、その顔も可愛い」
――いったい、誰のせいで!
文句を言おうとした瞬間、ググッとシュークリームが口の中に入ってくる。
またしても、はみ出したクリームが口の周りを汚すことに。
私は目を白黒させながらも、ガブリとシュークリームに噛り付き、ムシャムシャと咀嚼する。
食べ切らないことには、この状況が収まらないのは知っている。
必死に食べ進める私の様子に、兄が慌ててボサボサのちょんまげをこちらへ差し出してきた。
「おい、真知子! このちょんまげをやるから、残りは俺に寄こせ!」
――いるか、そんなもの!
私は兄を睨みつけると、バクリ、バクリとシュークリームを食べ切った。
最後に、唇の端に付いたクリームを舌でペロリと舐め取ったら、兄がガクリとうなだれる。
「あぁ……、シュークリームが……」
打ち負けたボクサーのように肩を落として嘆く兄を放っておいて、私はお絞りで口元を拭った。
これで、兄は大人しくなるだろう。
問題が一つ片付いた。




