(60)鮫尾先輩と木野家の人々:7
これまでより、少しだけリビング内の空気が緊張する。
私は僅かに視線を伏せ、父に向けて小さく頷き返した。
学校から駅までの道や電車の中で、私に対する心ない囁きをたくさん耳にした。冷たい視線も、数えきれないくらい浴びた。
でも、それは仕方がないことだ。
平凡なちんちくりんキノコの私が、誰の目から見てもかっこいい鮫尾先輩のそばにいるのだ。
ねたみ、そねみ、ひがみ、やっかみといった感情が自分に向かってくるのも、当然のことなのだ。
だからといって、平気ということではない。
――今日は先輩と一緒だったけど、明日からの通学が憂鬱だなぁ。
帰りは先輩がついてきてくれるだろうけど、朝はさすがに無理だろう。
迎えに来てもらうにも、先輩の家と私の家は離れている。
私はこっそりため息を零した。
すると、先輩がソッと私の手を握り、コクリと小さく。
そのぬくもりと仕草に、私の心がちょっと軽くなる。
――そうだよ。先輩がモテるのは前々からだし、それを覚悟で付き合うことにしたんだし。
私に向けられる視線は怖くて、悪口は気持ちが落ち込む。
それでも、先輩のことが好きだという想いは嘘じゃないから。
――睨まれても、悪く言われても、それでも好きだもん。
ちっぽけな私にはなにもできないけれど、先輩への想いは本気だ。
密かに自分へ渇を入れていると、先輩が口を開いた。
「お父さんがおっしゃるように、真知子さんは理不尽な目に遭いました。ですが、もう大丈夫です」
「大丈夫と言うのは?」
父の問いかけに、先輩は静かに、そして堂々と答える。
「俺はこの近所に引っ越してきました。ですから、今後は行きも帰りも真知子さんと一緒です。ご安心ください」
「……は?」
その言葉に、私に口が半開きになる。
――近所に、引っ越して、きた?
それは、どういうことだろう。
引っ越してきたというのは、鮫尾家ごとだろうか。
そうだとしたら、それなりに目立つだろう。
しかしながら、この近くに誰かが引っ越してきたという話は聞かない。
ポカンとしている私の様子に、先輩がフッと目を細めた。
「斜め向かいのアパートで、一人暮らしだよ」
「……え?」
これまた、私はポカンとなってしまう。
高校生の先輩が一人暮らしなんて、本当なの?
家族は、先輩になにも言わなかったの?
一人暮らしを始めたのは、嫌な視線と陰口から私を守るため?
そのために、わざわざ?
私の頭の中で、クエスチョンマークが勢いよく飛び交う。
そんな私に、先輩はなにも言わず、ただ静かに微笑んでいる。
そこに、父の笑い声が割って入った。
「ははっ、鮫尾君。君は、なかなかやるねぇ。まさか、そこまでとは。はははっ」
いつもは穏やかにニコニコしている父が、声を上げて笑うなんて珍しい。
私は三度ポカンとしてしまった。
ひとしきり笑った父は、フッと短く息を吐く。
「色々と驚かされることばかりだが、君が真知子を本気で大切にしようとしているのは、よく分かった」
父の言葉に、鮫尾先輩が軽く前のめりになる。
「それなら、結婚の許可を」
――今、それを言う!?
私はギョッと目を見開いた。
宇宙人的思考回路がいきなり炸裂したことに――いや、そんな思考回路だから、いきなりなのか――、私の頭が痛みを訴える。
私が苦々しい表情を浮かべていたら、父が口を開いた。
「さすがに、その話は早すぎるんじゃないかな。君と真知子は、今日、付き合い始めたばかりだろう?」
「ですが、俺はもう決めているんです」
きっぱりと口にする先輩の様子に、父が苦笑を浮かべる。
「真知子は?」
「え? 私!?」
突然振られて、私はドギマギしてしまう。
父が言ったように、私たちは今日付き合いだしたのだ。結婚なんて、考えられるはずもない。
「えっと、私は……、まだ、そういうのは、分からなくて……」
正直に答えると、先輩が私の手をギュっと握り締める。
「チコ。毎日、冷蔵庫いっぱいの苺ミルクをプレゼントするから、俺と結婚して」
――なに、そのプロポーズは。
顔が引きつりながらも、ちょっとだけ心が惹かれてしまう。
毎日、好きなだけ、苺ミルクが飲めるなんて、最高の生活ではないか。
――苺ミルク飲み放題かぁ。いいなぁ。
引きつっている頬が、思わず緩んでしまいそうだ。
しかし、代償として、朝から晩まで、宇宙人的思考回路の鮫尾先輩を相手にすることになる。
そうなると、苺ミルク飲み放題だけでは、精神的重圧に耐え切れない可能性がかなり高い。
「先輩、それは……」
ふたたび顔を引きつらせる私の手を、大きな手がさらにギュッと握り締める。
「苺ミルクの飴も、部屋一面に用意する」
――それは、なんて魅力的な!
苺ミルクと苺ミルクキャンディーに囲まれる生活は、私の夢だったのだ。それが実現するかもしれないなんて。
私の心がグラグラと揺れる。
その時、名前を呼ばれた。
「真知子」
優しく、そしてはっきりとした父の声に、私はハッと我に返る。
「食べ物につられるのは、真知子らしいけどねぇ」
クスクスと笑う父の様子に、私の顔がカァッと熱くなった。
「真っ赤なチコ、可愛い」
相変らずな先輩に、私の顔がいっそう熱くなる。
「……そ、そういうのは、人前で言わないでください」
俯きながら告げると、先輩が「なら、二人きりの時に言う」なんて囁くものだから、余計に顔が熱くなってしまった。
「仲がいいのは認めるが、私たちのことを忘れていないかい?」
笑いながら告げる父の言葉に、私は猛烈にいたたまれなくなる。
「ご、ごめんなさい……」
慌てて謝る私。
「すみません、あまりにも彼女が可愛かったので」
平然と答える先輩。
そして、先輩の前にあるシュークリームにこっそり手を伸ばす兄。
その兄の顔面目掛けて、トレイを投げつける母。
リビング内の一部がおかしなことになっているが、父はさっきから相変らず穏やかに微笑んでいる。
あの母と結婚したのだから、父もけっこうな強者かもしれない。
父は様子を変えることなく、先輩に話しかける。
「引っ越しのこと、ご家族はなんて言っているのかな?」
それは、私も気になったことだ。
先輩がいくら大人びて見えるといっても、高校生である。先輩だけで、できることではないだろう。
ジッと綺麗な横顔を窺っていると、先輩がはっきりとした口調で父に告げる。
「家族は大賛成です。好きになった相手を地の果てまで追いかけろと言って、応援してくれています」
――その応援の仕方、怖いんですけど。
私の顔が、改めて引きつった。




