(59)鮫尾先輩と木野家の人々:6
ニコニコと笑う母を見て、私はあまりにもおかしな状況に戸惑いが隠せない。
どうにもしようがない兄は放っておくとして、鮫尾先輩が私と結婚すると言い出したことに対して、なにも反論してこないのはおかしい。
恋愛ごとに疎すぎる私に彼氏ができたことを喜ぶのは、まぁ、妥当な反応だろう。
時々、『真知子は、私のお腹の中に恋愛感情を置いてきちゃったのかしら……』と、ぼやいているのを、実は知っているのである。
そのボヤキに対して父も頷いていたので、両親が私と鮫尾先輩とのお付き合いを歓迎しているのだ。
しかしながら、さすがに結婚という話は、ぶっ飛び過ぎではないだろうか。
普通なら――いや、もう、我が家に普通の感覚を持つ人がいるかどうか不明だが――、「それは、早すぎる」という一言があってもおかしくないはずである。
――そうだ、お父さんは?
私はハッと息を呑み、さっきからまともに発言していない父に視線を向けた。
すると、父はジッと鮫尾先輩のことを見ている。
ちなみに、父の前にある皿はすでに空になっていた。
いつ、シュークリームを食べたのかが気になるが、今は置いておく。
基本的に、父は私がすることに反対したことがなかった。
小学生になったばかりの頃、私は大雨の日に傘も持たずに庭へ飛び出し、泥だらけになったことがある。
その時、父は『元気があっていい』と、笑っていた。
中学二年生の春、買ってもらったばかりの自転車を改造しようとして、結果、壊してしまったことがある。
その時も、父は『好奇心旺盛だな』と、笑っていた。
他にも私は色々やらかしているが、注意はされたことがあっても、ひどく怒られた記憶がまったくない。
それは私に無関心だからということではない。
父はすごく不器用な人で、だけど父なりに愛情を注いでくれていることを私はちゃんと知っている。
そんな父だから、たとえ冗談でも高校一年生になったばかりの私に結婚話が出たら、なにかしら引き留める言葉が出ておかしくないと思う。
「あの、お父さん……」
オズオズと呼びかけたら、父が先輩から視線を外し、私を見た。
そして頷いて見せると、また先輩へと視線を戻す。
先輩はさらに背筋を伸ばし、父と向き合った。
すると、父は静かな口調で話し始める。
「真知子はだいぶ……、いや、ちょっと抜けているところがあるが、素直ないい子だ。
だから、彼氏ができたら、騙されている可能性があるかもしれないと、前々から考えていたんだ」
言い直しても、遅い。なんだか失礼なことを言われているが、一応、私は口を挟まずにいた。
不貞腐れて唇を尖らせている私をチラリと見た父は、話を続ける。
「今時の若い子のことをよく知らない私から見ても、君はかなりかっこいいと思う。真知子は愛嬌があって、私からしたら可愛い娘だが、世間一般の目で見たら、まぁ……、なんというか、あれだ」
言葉を濁しているが、要は平凡な容姿だと言いたいのだろう。
それについては自覚しているし、父の目には可愛く映っているようなので、文句を言うつもりはない。
私はそのまま大人しくしていたら、先輩が口を開いた。
「お父さんがおっしゃった『なんというか、あれだ』というのは?」
――えー。そこ、突っ込む?
できれば、綺麗にスルーしてほしかった。
誰からも注目される美形の先輩にそこを突っ込まれると、THE・平凡 日本代表の私としては、自覚があっても心臓がチクチクと痛みを訴える。
父もまさかそんなことを言い返されると思っていなかったようで、「いや、あの……」と、言葉を濁して苦笑いしていた。
そんな微妙な空気の中でも、母はニコニコと笑って様子を見守っている。
兄は……、まだ手を付けていない先輩のシュークリームをジッと凝視していた。
――まさか、食べないよね?
「……お兄ちゃん」
自分に出せる一番低い声を出すと、兄はビクッと肩を震わせる。
「べ、べ、別に、俺は、シュークリームなんか狙っていたわけじゃねぇし……。ピョー、フュー」
明かに、狙っていましたと言わんばかりの動揺だ。しかも、吹けない口笛が、かなり間抜けである。
なにか言ってやりたいが、父と先輩の話を邪魔してはいけない。
私は先輩ばりの暗殺者な視線を兄に向けた。
そして、先輩は私と兄のやり取りに構うことなく、坦々とした様子で父に話しかける。
「つまり、真知子さんは可愛いという言葉では表せないほど、究極的に愛らしい存在だとおっしゃりたいのですか?」
――なにをどう解釈したら、そうなるの!?
呆れるやら恥ずかしいやら怒りたいやら、私の顔が目まぐるしく表情を変える。
さすがの父も、そう返ってくるとは思わず、ポカンと口を半開きにしていた。
それでも、先輩はいっさい動じることはない。
堂々とした態度で話を再開する。
「ええ、分かります。真知子さんは、この世の奇跡がいくつも重なって生まれた最高に愛らしい存在です。彼女の笑顔は、キラキラと輝いていて。くるくる変わる表情は、目を奪われるほどに魅力的で。唇から紡がれる鈴が転がるような声は、耳に心地よく。彼女の些細な視線や言葉一つ取ってみても、可愛いとしか表現できないのが悔しいほどに可愛いです。お父さんは、そうおっしゃりたいのですね?」
自信満々に言い放つ先輩の様子に、隣で聞いている私は羞恥のあまり、全身から火柱が上がりそうだ。
「せ、先輩、もう、やめてください……」
恥ずかしさで泣きそうになっている顔で訴えると、先輩は不思議そうにソッと首を傾げた。
「どうして? チコが人類史上最高に可愛いのは、まぎれもない事実なのに」
――その認識が、根底から間違っているんですよ!
さらに羞恥心を煽るようなことを言われ、私はアウアウと意味のない言葉を繰り返すしかできない。
なんとも言えない空気の中、誰かがプッと噴き出した。
それは、父だった。
「どうやら、真知子は騙されたわけじゃなかったんだな。そうか……」
父は小さな頷きを繰り返し、「そうか、そうか……」と呟いている。
「えっと、お父さん?」
オズオズと呼びかけたら、父が優しい目で私を見た。
「こんなにかっこいい人が、いきなり家にやってきて真知子の彼氏だ、結婚だってなったら、正直、疑ってしまうよ。だが、鮫尾君は至って真剣のようだ」
その言葉に、鮫尾先輩が深く頷く。
「当然です。俺はもう、真知子さん以外は目に入りません。真知子さんは、俺の世界を変えてくれた唯一の人なんです」
「うんうん、分かったよ。ここまでストレートに惚気るくらい、本気だって伝わってきたよ」
そこで、ふいに父が真面目な顔付きになった。
「鮫尾君の気持ちは理解した。だが、君と付き合うことで娘が背負うリスクについては、どう考えている?」
「お父さん、どういうこと?」
問いかける私に、父は静かに話しかけてくる。
「真知子、もう分かっているんじゃないか? 鮫尾君と一緒にいるだけで、周りからなにかされていないか?」
「……どうして、それを?」
私はかなりビックリした。
学校から駅までの道や電車の中で起きたことを、父が目にしたはずはないのだ。
なのに、先輩に好意を寄せる人たちから浴びせられた冷たい視線と嫌な言葉を、まるで知っているかのような口振りである。
ビックリして固まっている私を見て、父は苦笑を零した。
「そのくらい、分かるさ。父さんは、これでもたくさんの人を見てきたからね」
普段はおっとりしているが、社会に出て色々な経験をしているし、色々なことを見たり聞いたりしているからこそ、父は気付いたのだろう。
その洞察力が少しでも兄に遺伝していたらいいのにと、本気で思ってしまった私は悪くないだろう。




