(58)鮫尾先輩と木野家の人々:5
兄はちょんまげを握り締めている手をブルブルと震わせ、仁王立ちとなっている。
手の中のちょんまげが潰れて悲惨なことになっているけれど、気になるのはそこではない。
「お兄ちゃん、なに言ってんの!? 免許皆伝って、なによ!?」
私はソファから立ち上がり、その場で吠えた。
すると、兄はフンと鼻を鳴らし、おもむろにちょんまげを頭に乗せる。
まげの部分がボサボサでイソギンチャクみたいになっているが、今はどうでもいいことである。
睨んでいたら、兄がふたたびフンと鼻を鳴らした。
「真知子は、俺の一番弟子だからな。俺の必殺技を受け継ぐ義務がある」
「だから、私は弟子なんかじゃないってば! 必殺技とか、意味不明だし!」
さらに強く睨み返すと、兄が片方の眉をピクリと動かす。
「なんだと? 誇り高きお兄様の必殺技を、意味不明だと?」
それを聞いた私も、片眉をピクリと上げた。
「はぁ? 誇り高いんじゃなくて、ホコリくさいの間違いじゃない?」
私と兄の睨み合いが続き、リビング内に緊張が走る。
と、いうことはなかった。
「鮫尾君、騒がしくてごめんなさいねぇ。これが、この子たちのコミュニケーションの取り方なのよぉ」
母はのん気に先輩へと声をかける。
この雰囲気でもマイペースぶりが変わらないのは、さすがである。
先輩はというと、やはり動じた様子もなく、「仲がよくて、うらやましいです」と、静かな微笑みを添えて返していた。
なにを思ったのか、先輩も立ち上がる。
私をかばうようにして前に出た先輩は、兄と正面から向き合った。
「俺が必殺技を引き継ぎますので、結婚を許してもらえませんか?」
――え? なに、それ?
私はまさかの展開に、ポカンと口を半開きにする。
普通、「真知子さんを幸せにしますので、結婚を許してもらえませんか?」となるのではないだろうか。
必殺技を引き継ぐから結婚を許せとは、意味が分からない。
日本中を探し回っても、こんなことを言う人は他にいないだろう。
そもそも、こういうことは父に対していうものであって、脳筋奇天烈野郎の兄に言うものではないはずだ。
――いやいや、結婚どうこうっていう話自体がおかしいんだよ!
私は慌てて先輩が着ている制服の背中をむんずと掴み、ガクガクと揺さぶった。
「待ってください! なんで、そんなことになるんですか?」
振り向いた先輩が、形のいい目をユルリと細める。
そして、私の右手を先輩が両手でソッと包み込んだ。
「夫としての責任を果たすだけだ」
先輩は静かに微笑みを浮かべ、やたらいい声で囁いた。
しかし、うっとりしている場合ではない。
私は、今度は先輩を睨み上げる。
「いや、ですから、夫とか、気が早すぎですって!」
すると、先輩は僅かに頬を染めた。
「ああ……。また、先走ってしまった。チコ、ごめん」
素直に謝られたので、これ以上は怒らないでおこう。怒ったところで、状況がさらに面倒くさくなる予感しかない。
私は深々とため息を零した。
「とにかく、座ってください」
どうにか場を収めようと、私は先輩に促した。
チラリと兄を見ると、偉そうに体の前で腕を組んでいる。
「必殺技を受け継ぎたいとは。やはり、熱狂的な俺の信者か」
満足そうに片頬を上げ、兄は何度も頷いていた。
――えー、もう、なんなの?
ますます事態がおかしなことになっていて、私はドッと疲れてしまう。
ガクンと頽れるようにして、ソファへ腰を下ろした。
そんな私の隣に座った先輩が、ソッとシュークリームを差し出してくる。
「疲れた時は、糖分補給」
「い、いえ、自分で食べますので」
私は軽く顔を背け、皿に乗っている自分用のシュークリームへと手を伸ばす。
家族の前で、「あーん」なんて、できるわけがない。
しかし、簡単にめげる先輩ではない。
「夫に遠慮しないで」
「ですから、先輩はまだ……ムグッ」
思わず言い返した拍子に、シュークリームが口に押し付けられた。
先輩の手を払いのけようとしたものの、それよりも先にシュークリームがググッと口の中に入ってくる。
――ちょ、ちょっと、待って! そのまま、丸ごと押し込むつもり!?
先輩が手土産に選んだシュークリームは、なかなかの大きさがある。
柔らかいものだとはいえ、いくらなんでも私の口には丸ごと入らない。
それに、シュー生地が破れて、クリームがはみ出てしまうだろう。
そんなことになったら、制服もソファも床も汚れるはずだ。
なにより、口の脇にべっちょりとクリームをつけた私は、間抜け極まりない顔になっているに違いない。
「ンムググ、ムググ!」
必死になって『先輩、やめて!』と訴えると、先輩はゆっくりとシュークリームを後退させた。
口の周りがパウダーシュガーでザラザラしているが、クリーム大爆発の惨事に見舞われなくてよかった。
やれやれとため息を零して口元をティッシュで拭っていると、「ずいぶんと仲よしなのねぇ」と、のん気な声が私の耳に届く。
そう言ってきたのは、もちろん母だ。
私と先輩を見て、ニコニコと機嫌よく笑っている。
そんな母に、私は恐る恐る問いかける。
「……怒らないの?」
すると、母が首を傾げた。
「どうして、そんなことを訊くの?」
「だ、だって……、いきなり彼氏を連れて来て……、しかも、その人が、ええと、その……け、結婚とか、言ってるし……」
普通なら、ありえない状況だろう。付き合った日に結婚の許しを得ようとして尋ねてくる彼氏なんて。
なにしろ、私は高校一年生なのだ。
先輩だって、まだ高校生である。
そんな私たちが――正確には、先輩一人が――結婚だのなんだのと口にしている。
親なら、「なに、馬鹿なことを言ってるんだ!」と、怒ってもいいはずだ。
――もしかして、冗談だと思ってる?
その可能性はあるかもしれない。
ぶっ飛んだ兄を平然と受け止める母なのだ。今の状況をまともに理解できていない可能性が高い。
そうだとしたら、今日のところは冗談で押し通してしまおう。
私は息を吸い、母に向き直る。
「あのね、お母さん……」
切り出した私に、母がにっこりと笑いかけてきた。
「私は、賛成よ」
「……へ?」
「鮫尾君は、すごくいい子だわ。真知子と相性ピッタリだもの、大賛成よ」
「……は?」
「実はね、今日はそんな予感がしていたのよ」
母は楽しそうに、エプロンのポケットから取り出した一枚の紙を広げて私に見せた。
そこには雑な感じのあみだくじが書かれていて、赤いペンで辿った跡が記されている。
赤い線を目で辿っていくと、『真知子、結婚』と書いてあるではないか。
ちなみに、他のルートでは、『推しメンとばったり道で出会う』、『お父さんが社長に就任』、『隣の犬に吠えられない』、『タマゴを割ったら、黄身が五個』となっていた。
推しメンとばったり出会うというのは、まぁ、可能性がないこともない。
だが、係長の父が、いきなり社長に抜擢されるはずはないだろう。
残り二つは、あまりにもどうでもいいことなので、この際放っておく。
意味不明過ぎるあみだくじに、私の顔が引きつる。
「お、お母さん、これ、なに?」
「あら? 私の特技よ。お手製のあみだくじなんだけど、行き当たった結果は、必ず当たるの」
「そ、そうなの?」
そういえば、母はなにかにつけてあみだくじを作っていた気がする。
自分には関係ないと思って、見て見ぬふりをしていたけれど、母にこんな特技があったとは。
「ええ。独身の頃、占い師として荒稼ぎしたものよ~♪」
――あみだくじは、占いって言うの?
私の疑問は、宙に消えた。




