(55)鮫尾先輩と木野家の人々:2
いくら筋トレを毎日の日課としている兄でも、むこうずねを鍛えることは不可能だったようだ。
うずくまった兄は、足を両手で押さえて呻いている。
「ぐ、う……」
本気で痛そうにしているが、いっさい同情はしない。馬鹿な格好をしている兄が悪いのだ。
プンスカと怒っている私とは対照的に、先輩は兄のことを心配そうに見ている。
そんな先輩に、私は声をかけた。
「気にしないでください、これが私たちなりのコミュニケーションなので」
すると、先輩がホッと短く息を吐く。
「分かった」
適当過ぎる私の説明に納得する先輩もどうかと思うが、余計なことを言って話を長引かせたくないから、これでよしとする。
私は微妙な笑みを浮かべつつ靴を脱ぎ、上がり框に置いたスリッパに足を通した。
「さ、さすがだ真知子……。俺の一番弟子なだけはある」
いまだに蹴られた部分を押さえている兄が、額に脂汗を浮かべながら呟く。
――弟子になった覚えはないんだけど。
ギロリと睨みつけたら、兄は「どうして、そんなに怒っているんだ?」と、さも不思議そうに尋ねてきた。
この状況がまったく分かっていない馬鹿兄貴をさらに睨んだら、兄は痛みに顔をしかめつつもフッと笑う。
「心配しなくてもいい。真知子用の全身タイツは、俺のと違って可愛いピンク色だぞ。頭の天辺に真っ赤なリボンを縫い付けておいたからな」
――ふ、ざ、け、ん、な!
色や装飾品の問題ではない。全身タイツそのものが問題なのだ。
もう一回蹴飛ばしてやろうと右足を上げた瞬間、鮫尾先輩がポツリと呟く。
「ピンクの全身タイツを着たチコ、見たい……」
「絶対に、嫌ですからね!」
私はすかさず拒絶を口にした。
すると、先輩が僅かに微笑む。
「チコを一人にはしないから」
「……はい?」
――それ、ここで言うセリフ?
少女漫画や恋愛小説の中で、決めのセリフとしてかなりの高ポイントを得られるであろうものが、どうしてこの状況で発せられたのか。
まったく理解できなくて、私は口を半開きにして突っ立っていた。
そんな私に、先輩が静かに微笑みかけてきた。
「俺も一緒に、全身タイツを着る」
「馬鹿ですか!」
私はふたたびすかさず突っ込む。
どうして、全身タイツを着る方向で考えたのか、まったくもって意味不明だ。
普通の感覚の持ち主なら、全身タイツを着ている私の兄を不審がるものだし、まして、着るなんて考えもしないはず。
――いや、先輩は普通じゃなかった。
私はがっくりと肩を落とす。
そんな私の肩を、先輩が空いているほうの手でポンと叩いた。
「着替えよう」
先輩は目をキラキラと輝かせ、私にそう提案する。
なんだって、先輩はあんな馬鹿丸出しのかっこうをしたいのだろうか。ますます、理解しがたい。
「嫌です。私は全身タイツには着替えません」
そっけなく言い捨てるけれど、先輩の目の輝きは失われていなかった。
「でも、ピンクの全身タイツを着たチコは、絶対に可愛い。俺が保証する」
私の顔が、ヒクリと引きつる。
今の状態の私が可愛いというなら、まだ分からなくもない。
自分では可愛いなんてちっとも思っていないが、人の好みは千差万別で。
また、「蓼食う虫も好き好き」なんて言葉があるように、周りから遠巻きにされているような人でも、可愛い、かっこいい、綺麗、素敵、といった具合に見えることもゼロではないからだ。
しかし、高校一年生女子の全身タイツ姿を可愛いと思えるのは、かなり特殊な感覚の持ち主だ。
――うっとりした顔で言われても、私は着ませんからね!
私は先輩をジト目で見遣る。
「そんなはず、ありませんよ。間違いなく、笑いが巻き起こります。そんな恥ずかしいかっこう、絶対にしませんから」
すると、先輩の表情がしょんぼりと寂しそうなものに変わった。
「間違いなく、可愛いのに……」
――だから、全身タイツを可愛いと言われても、嬉しくないですけど。
未練たらたらでため息を零す先輩を見て、こっちが盛大なため息を吐きたくなる。
このやり取りの間、むこうずねの痛みから立ち直った兄が、私たちに話しかけてきた。
「真知子、お客様をいつまでも玄関に立たせておくな。早く、リビングに案内しろ」
兄がいきなりまともなことを言ってきた。
――あんたが、そんなかっこうで出迎えたからでしょうが!
全力で睨みつけるが、兄はまったく答えた様子がない。
「さて、着替えてくるか。いくらなんでも、これはラフすぎた。真知子、またあとでな」
ヒラリと右手を振り、兄は立ち去って行く。
――ラフ以前の問題だよ! アンタの常識はどうなってんの!? それに、『またあとでな』って、なに? お兄ちゃんもリビングに来るつもり!?
階段を昇っていく兄の背中を見ながら、私は思い切り顔を引きつらせた。
兄の姿が消えたところで、私は魂が抜け出しそうなほど大きなため息を零す。
しかし、精神疲労でグッタリしている場合ではない。
とりあえず、先輩をリビングへ案内しなくては。
脳筋奇天烈兄貴による精神攻撃のせいで、先輩が私の親に会うことなど、どうでもよくなってきた。
――いやいやいや、どうでもよくないよ!
両親がすんなり先輩の話を信じるとは思わないが、イケメン大好きの母が悪ノリする可能性がどうしたって拭えない。
父による「どこの馬の骨か分からない奴に、娘をやれるか!」攻撃を期待したいものの、温厚で母の押しに弱い父が、どこまで踏ん張れるか。
下手をしたら、母に同調しかねない。
もちろん、兄のことはいっさい当てにしていなかった。
――待てよ。お兄ちゃんがいたら、話をするどころじゃなくなるかも。
空気クラッシャーの兄のことだから、先輩が話を切り出そうとしても、グイグイと自分のアピールタイムに持ち込むだろう。
また、先輩がなんとか本題を切り出しところで、その場の雰囲気を木っ端みじんにするかもしれない。
空気を読まないことに関して、兄は天下一品なのである。
しかしながら、兄が再登場するだけで、間違いなく私の精神力がガリガリと削られるのは避けられない。
――ああ、もう。どうしたらいいの!
前門の宇宙人、後門の馬鹿に挟まれた状態の私は、訳の分からない感情で泣き出してしまいそうだ。
そんな中、先輩がポツリと呟く。
「さすが、お義兄さんだ」
「……え?」
妙に感心した表情の先輩に、私は首を傾げた。
「俺があいさつに来たことを察したんだ」
「は?」
「俺が常に冷静でチコに相応しい男なのか、改めて確かめたんだな」
「……そ、そんなはず、ないと思いますけど」
「だが、俺だって覚悟を持って、ここに来たんだ」
「……あ、あの、先輩?」
先輩のおかしな発言に戸惑い、滲んだ涙が引っこむ。
どうしたらいいのか分からなくなっている私に、先輩が深く頷いて見せた。
「チコ、大丈夫だ」
「……なにが、ですか?」
さらに困惑していたら、先輩がフッと微笑む。
「ご家族の前で、俺がチコの夫にふさわしいことをきちんと証明してみせる」
――それが、一番いらないことなんですけど。
今すぐ、この場所から逃げ出したくなった。




