(54)鮫尾先輩と木野家の人々:1
戸惑っているうちに電車に乗せられ、家の近くの駅で降りてから徒歩で進み、今、私は鮫尾先輩と一緒に自宅前に立っていた。
建物をまっすぐに見つめる先輩の目は、真剣そのものだ。表情からは、やたらと気合が感じられる。
一方、私はここに来るまでの間に精神的疲労度が増していて、誰が見てもぐったりしていると分かるだろう。
――おじちゃんとおばちゃんたちが容赦なかったからなぁ。
先日、先輩に勉強を教えてもらうということで来てもらった時も、周りが大騒ぎをしていた。
今日はさらに騒がしくなってしまった。
それというのも、先輩が、「今日から、付き合い始めました」と、声を掛けてきた人にその都度説明していたのだ。
否定しようにも、それは事実なので、私はなにも言い返せない。
それだけでも精神的に追い込まれたというのに、顔見知りのおじちゃんとおばちゃんたちが、「真知子ちゃん、おめでとう!」と言いながら、バシバシと背中を叩かれたので、身体的にもちょっと厳しい。
その際、先輩が周囲からの手痛い祝福から私を庇うため、ギュウッと抱き締めてきたものだから、さらに騒ぎが大きくなってしまった。
――明日から、顔を合わせるたびに色々言われるんだろうなぁ。
考えるだけで、胃の辺りがキュウッと締め付けられる。
おじちゃんやおばちゃんたちに悪気がないと分かっているけれど、私たちのことはソッとしておいてほしかった。
しかし、これからが本日最大の山場を迎えることになる。
能天気な私でも、ものすごく気が重い。
――先輩、私の親にあいさつするって、本気なのかなぁ。
先輩の様子から、本気で私の親に結婚を切り出すのだと伝わってくる。
突拍子もない発言を連発する先輩だけど、これまでに嘘は一つも吐いたことがないから。
ただ、これが冗談であってほしいという私の切なる願いなのだ。
なのに、現実は私に無情だ。
私がため息を零したところで、繋いでいる先輩の手にキュッと力がこもった。
「いざ、尋常に勝負」
先輩が静かに、でも、きっぱりと告げる。
――なにと勝負するの?
私が怪訝な表情を浮かべた時、家の玄関の扉が開いた。
「おう、真知子。そんなところに突っ立って、どうしたんだ?」
そこに現れたのは、私の兄だった。
――どうしたのかって訊きたいのは、こっちだよ!
私の表情が、いっそう怪訝なものになった。
それというのも、兄は真っ黒の全身タイツ姿で、フラダンサーのような腰みのを着けていたのである。
しかも、なにで塗ったのか分からないが、顔まで真っ黒だ。白目と歯だけが白く浮かび上がっていて、かなり気持ちが悪い。
盛大に顔を引きつらせている私の横で、先輩が深々と頭を下げた。
「お義兄さん、こんにちは」
姿勢を戻した先輩は、シャキッと背筋を伸ばして兄に視線を向ける。
この珍妙な姿の兄を前にして一切動じないのは、さすがというか、なんというか。
いや、少しも動揺しないのは、逆に異常だ。
――なに、これ。意味が分からないんだけど。
とりあえず、二人の思考回路は私には理解できないということだけが分かっている。
そして、さっさと家に入らないと、私と先輩のことを目にしたご近所さんたちがやたらと騒ぐだろう。
おまけに、全身真っ黒の兄を見て、よりいっそう騒ぎが大きくなりそうである。
「あ、あの……、先輩、家に入りましょうか?」
今の私には、これしか言えなかった。
兄が扉を開けている玄関へと、私たちが歩み寄る。
「おっ、また来たな」
先輩を見て、兄はニカッと笑った。
黒い顔に浮かぶ無駄に歯並びがいい白い歯が、なんだか滑稽だ。
機嫌よく出迎えた兄は、ポンッと先輩の肩を叩く。
「確か、鮫尾君といったよな」
脳筋奇天烈兄貴のくせに、先輩の名前を憶えていたのは驚きだ。
この兄は、筋肉の部位とプロテインについては抜群に覚えがいいが、それ以外のことはだいぶ残念な記憶力である。
なので、先輩の名前がスッと出てきたことに、私は驚いてしまった。
「お兄ちゃん、先輩のこと、覚えてたの?」
私が尋ねると、兄がまたニカッと笑った。
「ああ、もちろんだ。俺の弟子になりたいんだよな」
「……それは、絶対にない」
ジロリと睨み付けたら、兄が首を傾げる。
「えー、そうだったか? 熱烈な俺の信者じゃなかったか?」
「……絶対に、違うから」
ただでさえ、先輩の宇宙人的思考回路に手を焼いているのだ。
そこに脳筋奇天烈要素が加わったら、いくらなんでも、先輩への恋心が氷点下まで冷え切ってしまうかもしれない。
とんでもない記憶違いをかましている兄を、私はグイッと脇に押しやった。
「先輩、どうぞ……」
玄関内に先輩が入ったところで、兄が得意気に告げる。
「ま、俺は簡単に弟子を取らないしな。俺の目に敵った真の男だけが、晴れて弟子になれるんだ」
ビシッとサムズアップした兄が、アホなことを言っている。
――お金をもらっても、アンタの弟子になりたい人なんていないから。
お客様用のスリッパを出しながら、私は心の中で呟く。
兄がさっさと自分の部屋に戻ってくれないかと思っていると、兄がニカッと笑ってまた先輩の肩をポンと叩いた。
「だが、君の分の全身タイツは、特別に用意してある。この前、真知子の勉強を見てくれた礼だ」
そんな兄の手を、私はパチンと音を立てて打ち払った。
「先輩に、変な物を着せようとしないでよ!」
「変な物とはなんだ。このジャストなフィット感がどれ程心地いいのか、知らないくせに」
「そんなもの、知らなくていいもん! なんで、全身タイツ姿なの!? 顔まで黒塗って、意味が分からない!」
「意味なら、ちゃんとあるぞ」
兄が体の前で腕を組み、グッと胸を張る。
堂々とした態度だが、真っ黒な顔、真っ黒な全身タイツ、手作りと思われる腰みの姿では、威厳なんてあるわけがない。
「……一応、聞いてあげるけど」
半眼で兄を見ながら声を掛けたら、兄はさらに胸を張った。
「これが、俺なりのリラックス方法だよ」
――やっぱり、聞くんじゃなかった!
私は兄のお腹を両手でドンと押す。
「とにかく、お兄ちゃんは部屋に行ってよ! ちゃんと着替えるまで、部屋から出てこないでね!」
ギロリと睨み付けたら、兄が首を傾げた。
「真知子、なにを怒っているんだ?」
この状況が分からないとは、さすが脳筋兄貴だ。
「その全身タイツだよ!」
大声で言い返すと、兄がフッと片頬を上げる。
「大丈夫、心配するな」
「……は?」
もうすでに大丈夫ではない事態が発生しているのに、脳筋兄貴はなにを言うのか。
さらにきつく睨み付けると、ふたたび右手でサムズアップした。
「真知子用の全身タイツもちゃんと用意してあるから、そんなに拗ねるな」
――ば、か、や、ろ、う!
私は全力で兄のむこうずねを蹴っ飛ばしてやった。




