(53)嬉しさ3、恥ずかしさ7の初デート:8
先輩がなにかを考えているみたいなので、私は自分のジュース代を払おうとして財布を開けた。
すると、これまで瞬きすらしないほど動かなかった先輩が、二人分の代金としてスッと千円札を二枚レジカウンターに乗せる。
「やっぱり、自分が飲んだ代金くらいは払わないと……」
なんとなく引っ込みがつかなくて、財布の中を探って代金分の小銭を取り出した。
「チコ、遠慮しないで」
「いえ、あの、遠慮というか……」
男性が女性の分の支払いもするのが当たり前のような風潮があるけれど、それは相手の男性がガンガン稼いでいる場合だろう。
鮫尾先輩は年上ではあるものの、私と同じ高校生だ。その彼に奢ってもらうのは、おかしいと思う。
掴んだ小銭を店員さんに差し出そうとするけれど、先輩は私の手をソッと掴んで引き戻した。
「ここは、俺が出す」
「でも……」
なおも引かない私に、先輩がクスッと笑う。
そして、小さな声で優しく囁いた。
「初デート記念だから」
そのセリフがやたらと気恥ずかしくて、私はお金をギュッと握り締めて固まる。
先輩は再度お札を店員さんへと差し出し、店員さんは落ち着いた様子で先輩にお釣りを渡した。
「ありがとうございました」
その声に、私はハッと我に返る。
会計が終わってしまったので、この小銭を今さら出すのも迷惑だろう。
また、私たちの後ろには会計待ちをしている人がいるため、すぐにでも移動したほうがいい。
オズオズとお金を財布に仕舞うと、「また来てね」と店員さんに声を掛けられる。
私はどうにか笑顔を浮かべ、「美味しかったです。また来ます」と言って、ペコリと頭を下げた。
店を出た私は先輩に手を引かれ、歩道をゆっくりと歩いていく。
「そろそろ、帰りますか?」
声を掛けると、先輩が「買い物をしてから」と返してきた。
「買い物ですか?」
私が首を傾げたら、先輩は静かに頷く。
「さっき、いい店を見つけた」
「はぁ……」
――いい店? そんなもの、あったかなぁ。
学生の私たちが興味を持ちそうな店は、なかったように思う。さっきの喫茶店もそうだけど、この辺り一帯はレトロな雰囲気に包まれているのだ。
よく分からないまま先輩に手を引かれて歩いていると、上品な店構えの洋菓子屋さんが見えてきた。
どうやら、先輩はここに用があるらしい。
迷うことなく先輩は店内に入り、様々なスイーツが並ぶショーケースの前に立った。
端から端までじっくり商品を眺めていた先輩が、ふいに私の名前を呼ぶ。
「チコ」
「はい、なんですか?」
「ご家族は、シュークリームが好き?」
「へ?」
問いかけられてショーケースに並ぶシュークリームを見たら、『当店イチオシ!』というポップが飾られているのに気付く。
ふっくら形よく膨らんだシュー生地に切れ目が入っていて、生クリームとカスタードクリームの二種類がたっぷり詰められているのが見えた。
香ばしく焼き上がった生地の表面には、うっすらとパウダーシュガーが降りかけられている。
確かに、めちゃくちゃ美味しそうだ。
私の家族は甘党揃いで、このシュークリームなら我先にと喜んで食べるだろう。
しかし、先輩が私の家族を気にするのはなぜだろうか。
不思議に思いつつ、「みんな、大好きですよ」と答えたら、先輩はこちらの様子を窺っていた店員さんを呼ぶ。
「このシュークリームを十個ください」
――え? まさか、私の家族に?
あそこで「ご家族は、シュークリームが好き?」と私に訊いておいて、今さら先輩が自宅用にする訳がない。
予想通り、先輩は「いい手土産ができた」と嬉しそうだ。
戸惑う私は先輩に手を引かれ、洋菓子店を出る。
「じゃ、帰ろうか。もう、電車も空いただろうし」
「いや、まぁ、それはいいですけど……。先輩、そのシュークリームって……」
自分が食べてみたいから尋ねたのではない。
先輩が私の家族のために買ったことが不思議だったのだ。
その問いかけに、先輩が深く頷く。
「先手必勝。チコの家族にあいさつをする」
「はい!?」
私は耳を疑った。
――さっきのカフェのご主人と同じことをするつもりじゃ……
いや、先輩はつもりではなく、確実に実行するはず。
唖然としている私の手を引いて、先輩は駅に向かって歩き始めた。
「チコ。今日、ご家族は? 帰りが遅いようなら、待たせてもらえる?」
「いえ、その……。いつもは帰りの遅い父が、出張明けで家にいますけど……」
「なら、よかった。この前は、手ぶらだったから」
「あ、あの……、わざわざ手土産を持参する高校生って、そうそういないですよ」
「遊びに行くんじゃなくて、あいさつするためにチコの家に行くから」
私は背中に冷や汗を流しつつ、自分の予想通りにならないように、なんとか先輩を落ち着かせようと試みる。
「いえ、ですから……、手土産なんて気を使わなくていいですし……。そもそも、あいさつなんて、しなくていいですし……。私の友達も、兄の友達も、そんなことはしないですし……」
そこで、先輩がふいに足を止めた。
「チコ」
その声は鋭いほどに真剣で、私はピクリと肩を跳ね上げる。
「は、はい……」
「俺は、チコの友達じゃない」
ジッと目を見つめられ、私は小さく頷き返す。
――先輩は私の友達じゃなくて、彼氏だよね。
心の中で呟いたタイミングで、先輩が改めて口を開く。
「婚約者として、礼儀を尽くす必要がある」
夫婦だの婚約者だのというのは、先輩の妄想世界の話である。
私はさっき跳ね上げた肩を、今度は力なく落とした。
「……ですから、それは違いますって」
「ああ、そうだ。チコのご家族にあいさつするまでは、まだ婚約者じゃなかったな」
――なんで、私の親にあいさつしたら、婚約できると思ってんの?
ちんちくりんキノコなだけど、父にとっては可愛い娘なのだ(たぶん)。
だから、「いきなり来て、馬鹿なことを言うな! 娘はお前にやらん!」と、宇宙人的思考回路の持ち主である先輩を一喝するだろう(たぶん)。
とはいえ、あの馬鹿アニキを産んで育てた両親だ。妙にノリのいい時があるのだ。
こんなハイスペックな人が二度と現れないと考え、勢いで婚約を取り付けたりする可能性がまったくないとは断言できない。
なんとも言えない表情で私がため息を零したら、繋がれている手がギュッと握り締められる。
「大丈夫」
静かに、だけど、きっぱり先輩が告げる。
「……なにが、大丈夫なんですか?」
「俺は諦めない」
「なにを?」
「チコとの結婚を認めてもらえるまで、絶対にあきらめない」
私がため息を零した理由は、私の両親に先輩が認められなかったらどうしようと心配したせいだと判断したらしい。
まったく違う。むしろ、反対されたらいいのにと、ちょっと思っていたりする。
「ええと……」
なんと言いかえしたらいいのか分からなくて戸惑っていたら、先輩がふたたび歩き始める。
「何回でも、チコのご両親に頭を下げる。それこそ、毎日」
「そこまでする必要は……」
つられて歩く私が戸惑い気味に声を掛けると、先輩が肩越しに振り返った。
「いっそのこと、木野家に住まわせてもらう」
「なんで、そうなるんですか?」
相変らず理解不能な思考回路を炸裂させる先輩に怪訝な顔を向けたら、先輩の目がフッと弧を描く。
「だったら、同棲する」
「……へ!?」
「実は、準備を進めてる」
「はぁっ!?」
「それも、チコのご家族に報告しないと」
「いやいやいや、先輩! おかしいですって!」
「よし、気合を入れるぞ」
先輩はグッと前を向き、力強く進んでいく。
親にあいさつするという話だけでもありえないのに、同棲するとはどういうことだろうか。
しかも、準備を進めているとか、本気で意味が分からない。
――えー、もう、なんなの!
初デートがとんでもない終わりを迎えることになりそうで、私の精神力がガリガリと削られていった。




