(50)嬉しさ3、恥ずかしさ7の初デート:5
私は先輩に苺ミルクのグラスを砕くことも、コスプレをすることも、絶対にしないと約束させた。
ため息を吐きつつ、私はふたたびストローを咥える。
――おかしい。付き合ったばかりの時って、もうちょっと甘い雰囲気になるんじゃないの?
どうして、私たちの会話は奇天烈な展開にしかならないのだろうか。
考えたところで、答えはすでに分かっている。「先輩が、宇宙人的思考回路の持ち主だから」である。
それと、私の恋愛経験値が極端に低いというのも一因だろう。
どちらの問題も、早急に解決するものではない。
タチが悪いのは、『先輩の思考回路が、一生このまま』という場合だ。
昔から、「三つ子の魂百まで」と言うではないか。簡単に、先輩の性格や考え方が変わるとは思えない。
だとしたら、この先、ずっと私はこの先輩に付き合うことになる。
そこで、私はピタリと動きを止めた。
――『この先、ずっと』って……。それじゃ、まるで私は先輩と結婚するみたいじゃない!
先輩のことは好きだけど、そこまで考えていなかった。
恥ずかしくて先輩の顔を直視することができないこの私に、そんなことまで考えられるはずがなかった。
気付いてしまったたことでカチンと固まった私の頬が、ジワジワと熱を帯びていく。
そんな私を、先輩が優しい声で呼ぶ。
「チコ」
だけど、私は金縛りにあったみたいに動けない。
手を添えたストローを咥えた状態で、身動き一つできなかった。
当然、先輩はそんな私に首を傾げる。
「チコ?」
どこか心配そうな声音で、先輩がまた私の名前を呼んだ。
そしてスッと左手を伸ばしてきて、私の頬に触れる。
「どうかした?」
先輩の手の感触に驚いて、私はビクッと大きく体を震わせた。
その拍子にグラスが揺れ、斜めになっていく。
「あっ」
声は出たけれど、とっさには手が出ない。私は勢いよく倒れるグラスを眺めるしかできなかった。
しかし、次の瞬間、先輩が素早く右手を伸ばしてきて、残り三分の一になっていた苺ミルクが零れる前に、グラスを受け止める。
ちなみに、私の頬に触れている先輩の左手は、今もそのままである。
「チコ、大丈夫?顔が赤いし、熱いけど」
先輩はグラスを置き直し、私に声を掛けてきた。……右手は、やっぱりそのままで。
とりあえず、私はペコッと頭を下げる。
「……グラス、ありがとうございます」
先輩のおかげで、苺ミルクをテーブル上に零さなくて済んだし、グラスも割れずに済んだ。
「そのくらい、大したことじゃないよ」
切れ長の目を僅かに細める先輩に、私はソッと首を横に振る。
先輩の手はまだ私の頬を触っているので、大きな手が私の顔の動きに合わせて一緒に動いていた。
――なに、このマヌケな光景は。
そう思うものの、苺ミルクぶちまけ事件を未遂に留めてくれたこともあり、先輩には強く言えない。
通じるか分からないけれど、私は視線に「早く、手をどかしてください」という気持ちを込めた。
すると先輩は苦笑を零し、「了解」と口にする。
――珍しく、すぐに分かってくれたよ。
私は心の中で安堵の息を吐いた。
しかし、先輩はどこまでいっても先輩である。
グラスを放したことで空いている左手を伸ばしてきて、なんと、両手で私の頬を包み込んできた。
――なんで!?
私はギョッと目を見開き、またしても固まる。
大きな手ですっぽりと私の頬を覆った先輩は、嬉しそうに微笑みながら軽く首を傾げた。
「これ、正解だよね?」
どうして、そう思えるのか。
いや、先輩だから、それが当然の答えなのだろう。
戸惑いでなにも言えない私に、先輩がクスッと笑った。
「なんで分かったのか、驚いてる? 俺、チコのことなら、なんでも分かるよ」
――その思い込み、即刻改めてください! 先輩の行動は、正解と真逆ですから!
頬を引きつらせたまま黙っていると、先輩はおもむろに腰を上げた。
そして前屈みになり、ゆっくり顔を近付けてくる。
熱っぽい視線は、まっすぐに私を見据えていた。
そこで、先輩がなにをしようとしているのか察知した私は、先輩の手首をむんずと掴み、グワッと左右に広げた。
続いて、先輩の手が頬から離れた顔を、グッと後ろに大きく下げる。
小さなテーブル越しに、組体操大失敗な体勢になっている私たち。
「チコ?」
キョトンとしている先輩が、不思議そうな声音で名前を呼んだ。
そんな先輩を、チロリと睨む。
「な、に、を、す、る、ん、で、す、か?」
低い声で一言ずつ区切る私に、先輩はパチクリと瞬きを繰り返す。
「なにって……。正解したから、ご褒美をもらおうとしただけだよ」
「……そもそも、正解していません」
改めて低い声を出すと、先輩が瞬きを止めた。
「敗者復活戦は?」
「そんなもの、ありませんよ。とにかく、座ってください」
私が促すと、先輩がしきりに首を傾げながら、ゆっくりと腰を下ろしていく。
その様子を見ながら、私は先輩の手首を放した。
深々とため息を吐いた私は、椅子の背にグタリともたれかかる。
「チコ、大丈夫?」
かなり心配そうな声を出す先輩に、私はユルユルと首を横に振って見せた。
「……精神的には大丈夫じゃないですけど、体は大丈夫です」
力なく返事をした私は、残りの苺ミルクを静かに飲み干した。
先輩が私の頬に触れてきたり、微笑んだり、キスを――私は許可していないが――しようとしてくるのは、間違いなく甘い雰囲気を醸し出す要因となる。
なのに、私的にはちっとも甘さを感じない。
感じるのは、精神力がガリガリと削られているということだけ。
――なんか、もう、色々とおかしい。
高校三年生と高校一年生の交際が、これでいいのだろうか。大いに疑問である。
――先輩も、これでいいの?
私じゃなかったら、先輩はもっと恋愛を楽しめたかもしれない。
頬を両手で包まれてうっとりとするような女の子だったら、先輩が考えているようなお付き合いになっているかもしれない。
こんな、売れない漫才コンビみたいなお付き合いじゃなくて。
私は伏せていた顔を上げ、ソッと先輩の様子を窺う。
すると、先輩は自分の手首に唇を押し当てていた。
右手首が終わると、次は左手首。そして、また、右手首に唇を押し当てる。
――宇宙から届いた電波でも拾った?
「……なにかの儀式ですか?」
私が問いかけると、先輩が照れくさそうにはにかんだ笑みを浮かべた。
「ここ、チコが触ってくれたから」
そう言って、先輩はまた左右の手首に唇を押し当てる。
どうやら、私の心配は杞憂らしい。
ただ、宇宙人的思考回路の先輩と付き合っていく私の苦労は、今後も続くことだろう。




