(5)ジョー○は救世主
それからさらに十五分後。
ついに、待ちに待ったメールが届いた。切なる祈りというよりも、おどろおどろしい執念に近いものがあったかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
それにしても、ジョー○のテーマ曲にこんなにも心躍る日がくるとは、世の中分からないものである。
この曲は冗談半分で着メロに設定したのだが、なぜか兄が異常なほど気に入ってしまったため、いまだに解除できないままだった。
兄のセンスは、まったくもって不可解だ。
隣のおじさんが海外旅行のお土産に買ってきたアフリカンな木製お面を、毎日毎日布で磨いて大事にしているのも理解できない。
独特で毒々しい彩色が施されたそのお面は、現地では魔除けとして家に飾られているらしいのだが、どう見ても悪霊を引き寄せるようにしか見えなかった。お面と目が合っただけで、祟られそうである。
いや、兄のセンスは置いといて、まずはメールだ。
「先輩、兄からメールが届いたようです! 確認したいので、降ろしてください!」
「嫌だ」
相変わらず、否定が即答で返ってくる。
事情があっても私を膝から降ろさないなんて、本当に、本当に、先輩はなにをしたいのだろうか。
「で、でも、大事で緊急なメールかもしれませんし! すぐに確認しないと!」
前を向いたまま必死に訴えるけれど、先輩はなにも言わない。
「せ、先輩? 聞こえてます?」
「聞こえてる」
これには、すぐに返事があった。
ならば、さっきはどうして無言だったのだろうか。
「あ、あのぉ……」
弱々しく声をかけると、「今、考え中」という言葉が聞こえた。
――いったい、なにを考える必要があるの?
とりあえず、先輩がなにかの答えを見つけない限り、私はこの腕の中からも、先輩の膝の上からも逃げられない。
そして、二分ほど過ぎたところで、先輩が口を開いた。
「メール、見ていいよ」
どうして、その答えに至ったのか、さっぱり分からない。
そもそも、私は先輩にメール確認の許可を得ようとはしていないのだ。自分のスマートフォンを弄るのに、人の許可なんか要らないし。
そして、先輩は『見ていいよ』と言いながらも、一向に私を手放す気配がない。
「いえ、でも、人前でメールを確認するのは、ちょっと……」
プライバシーの侵害というより、馬鹿アニキが送ってきた馬鹿メールを万が一にも先輩に見られたくなかった。
鮫尾先輩は美形であることでも有名だが、学年トップの頭脳の持ち主ということでも有名だ。
顔が良くて、背が高くて、ケンカが強くて、頭もいいなんて、神様、随分と不公平なんじゃないですか! せめて、身長の部分だけでも、私にくれたらよかったのに!
……という私の愚痴はさて置き、大変頭のよろしい先輩に、兄からのメールを見られたくなかったのだ。一目でも見られたら、私も馬鹿アニキと同類と見なされそうだから。
私は先輩ほど頭がよくないけれど、自分としてはそんなに悪くないと思っているので、変な誤解を受けたくないのである。
「先輩が放してくれないと、メールを読めません」
「大丈夫。見ていいよ」
――いえ、私が大丈夫ではないんです。
どう説明すれば分かってくれるかと悩んでいると、先輩が口を開く。
「俺、目を閉じているから」
確かに、そうすれば先輩の目に馬鹿メールが触れることはないけれど、根本的な解決にはなっていない。
私はメールが見たいのではなく、先輩の膝から下りたいのだから。
ふたたび悩む私に、先輩が言った。
「目、閉じた」
――そんな報告より、すぐに私を解放してください!
それを言ってもどうにもならないことは嫌というほど分かったので、私はしぶしぶポケットからスマートフォンを取り出す。
それから、本当に先輩が目を閉じているのか確認したくて、そっと後ろを窺った。
目を閉じた先輩の顔は、息を呑むほど綺麗でかっこよかった。瞼を下ろすことで切れ上がった目尻が鋭さを潜め、ただただ、イケメンだ。
あまりのかっこよさに、先輩から逃げ出したかったことを忘れてしまったほど。
私がそのままのかっこうで固まってしまったことを変に思ったのか、先輩がうっすらと目を開けた。
視線を伏せることで長いまつげが影を作っていて、これまたかっこいい。
大抵の人は、半眼になると見られた表情ではないが、先輩の場合は、かっこよさにアンニュイな雰囲気が重なって、さらにイケメン度が増していた。
思わず見惚れていると、先輩の唇がゆっくり動く。
「メール、見ないの?」
その言葉で我に返った。
「え? あっ、見ます! 見ます!」
私の言葉に改めて目を閉じた先輩を見届けてから前を向き、スマートフォンを操作して受信画面を呼び出す。
そして、兄からのメールを見た瞬間、先輩に見られなくてよかったと心の底から安堵した。
それは、予想通りの馬鹿メールだった。
『今日は親父とお袋が用事で出かけるから、夕食は俺と真知子の二人きりだぞ。嬉しいか? 嬉しいだろ? 俺はめちゃくちゃ嬉しくて、その嬉しさを腹踊りで表現した!』
文章と共に添付されていたのは、十秒の短い動画。
上半身裸の兄のお腹には福笑いを思わせる珍妙な顔のパーツが描かれていて、クネクネと動く兄に合わせて、その顔が変わる。
せめてもの救いは、ジャージのズボンを穿いていたところだろうか。下半身の大事な部分が丸いお盆なんかで隠されていたら、本当に救われなかった。
いや、実際にはなんの救いにもなっていたかったが。
動画の背景を見ると、明らかに教室である。また、この動画を撮影したのは、兄の友人だろう。『もっと、腰を激しく振れ』とか、『腹の肉を掴んで、書いた顔を歪ませろ』などいった声が入っている。拍手や、囃し立てる声も聞こえる。
動画が終わるまで、誰一人として兄を止めようとしていなかった。
教室で上半身裸になってクネクネ踊っていても、いいのだろうか。男子校は自由すぎる。
ただでさえ先輩の言動で弱っていたところに、この馬鹿メールによって瀕死の状態に追い込まれてしまった。我が兄ながら、呆れてものが言えない。
返信するのも馬鹿馬鹿しくて、私はスマートフォンの電源を落としてスカートのポケットにしまった。
「終わった?」
「は、はい、もう、目を開けていいですよ」
前を向いたまま先輩に話しかけると、「返信は?」と言われる。
「いいんです。ただの連絡事項だったので」
「ん」
この返事と共に、先輩は目を開けたのだろう。
なんとなく、もったいないなと思ってしまった。それほどまでに、目を閉じた先輩は素敵だったから。
――こんな美形なお兄ちゃんだったらよかったな……
考えたところで、それはとんでもない間違いだと気付いた。
私の兄は馬鹿だけど、まだ、話が通じる。
だけど、この先輩はまったく話が通じない人なのだ。
どちらがいいかと考えると――正直なところ、どちらも困るが――兄のほうが、まだ対処できる。
なにしろ、私には『泣き落とし』という必殺技があるのだ。これを披露した途端、たちどころに馬鹿アニキは話の分かる優しい兄になる。
――もしかして、先輩にも泣き落としが通用したりして。
なにを言ってもまったく効果はなかったが、私が泣きだしたら、さすがの先輩も意味不明の無茶ぶりをしてこない可能性がある。
――今度なにかあったら、泣き落としで回避しよう。
いや、相変わらず膝抱っこが続いている今こそ、必殺技を炸裂させるタイミングではないだろうか。
――よし、やるか。
軽く息を吸い込んだところで、お腹の前に回っていた先輩の腕がゆっくりと解かれた。
「あれ?」
これまで、あんなにも頑なに私のお願いを拒否していたというのに。
予想外の展開に、つい、声が出てしまう。
「なに?」
不思議そうな先輩の声に、私はブンブンと首を横に振った。先輩の気が変わらないうちに、スルリと膝の上から降りる。
慌てて二、三歩離れたけれど、先輩は私の腕を掴んで拘束することはしなかった。
静かに立ち上がり、ベンチの上に敷いていたハンカチを畳み始める。その仕草があまりに綺麗で、じっと見つめてしまった。
ハンカチをポケットにしまった先輩が、私を見て軽く首を傾げる。
「ん?」
「あ、あの、いえ、なんでもないんです!」
せっかく解放されたのだから、さっさと立ち去るべきだったのに。
「わ、私、これで、失礼しますね! えっと、イチゴ牛乳、ごちそうさまでした!」
ガバッと頭を下げた私の視線の先に、先輩がポケットにしまったはずのハンカチが差し出された。
お辞儀をしたままパチクリと瞬きを繰り返していると、「あげる」という言葉が後頭部に降ってくる。
「べ、別に、先輩のハンカチがほしくて、見ていたわけじゃないんですよ!」
姿勢を戻して弁解する私の手に、ハンカチがやんわりと押し付けられた。
「あげる」
さっきより少しだけ優しい感じの声で、もう一度先輩が言う。
なんだか逆らえなくて、私はそのハンカチをきゅっと握りしめた。
「ありが、と……、ございま、す……」
私の言葉に、切れ長の目が僅かに細くなった。
まったくもってよく分からないが、先輩は嬉しそうである。
私が綺麗な微笑にボンヤリ見惚れているうちに、先輩は静かに立ち去って行った。